本日も、大変長らく働きました。
おつかれ、私。
ありがとう、私。
現在、終電に揺られながら真っ暗な外を眺める午前一時。
滞りなく日付を跨ぎました、おめでとう。

乾いた笑みが自然とまろび出た。けれど、真っ暗な窓に貼りついた私の表情は、ぴくりとも動いていない。車窓に反射して映るのは明るい車内と、各々疲れた表情を浮かべる終電組の皆さん。例に漏れず私もその中の一人だ。
しかし、今日の私は晴れやかな気分であることをここに明言しておこう。
仕事があるだけ嬉しい、仕事があるだけ幸せ、そう自己暗示をし続け仕事に没頭して来た日々。最近は、社内改革うんたらで今までに拍車を掛けて忙殺されていたのだけど、なんとそんな日々にも終わりはあったのである。
そう!社内かんたらで課せられていた仕事の一切が今日で落ち着いたのだ!!しかも!改革が上手くいったのか完全週休二日制になり、明日からの土日は休日!二連休!すごい!!
だから、ついつい頑張っちゃったよねぇ〜…ふふっ
部下たちにも負担を掛けてきたけど、これで少しはみんなのモチベーションも戻るはず。進行してる企画も順調だし、立ち上げた新企画も軌道に乗ってきたし、あとはもうプレゼンとイベント乗り越えて?どんどん頑張っちゃえば?少しずつ仕事の負担が減っていくんじゃないの!?
脳内に広がるお花畑で笑顔満面の私。相変わらず車窓の私は表情ひとつ動かさないが、それでも良い!だって今の私は希望に満ち満ちているから!!

冷静に考えて、今の私はおかしなテンションだ。自宅最寄りの駅に着いてすぐ、人気が無いことをいいことに思いっきりガッツポーズをしてやった。この解放感、超気持ちぃ。

「なにをしているんだ?なまえさん」

ガッツポーズしていた腕を即座に下ろした。
振り返ると、普段の笑みを浮かべて首を傾げるカラ松くんの姿。彼には恥ずかしいところばかり見られている気がする。

「なんでもない。ただいま、カラ松くん」
「ん、おかえり。なまえさん」

花がほころぶように笑うカラ松くんに、ドキドキする。
カラ松くんに告白を受けてから約四ヶ月。お友達からスタートした私たちだが、最初の一月でカラ松くんの猛攻に根負けした私が折れて、付き合い始めたのがだいたい三ヶ月前。
今は私の部屋の合い鍵を渡していて、毎日のように彼は私を駅まで迎えに来てくれる。恐らく今日も、帰れば夕飯が用意されているのだろう。最初は包丁の握り方すら知らなかった彼が、仕事をして疲れて帰ってくる私のために料理を作り、暖かな家を用意してくれているのだ。
掃除や洗濯まで率先してやってくれる彼は、本気で私を支えようと頑張ってくれているらしかった。はっきり言って物覚えはあまりよくないのだが、頑張ってくれるからこちらも根気よく教えてしまう。メモを取って真剣に取り組む姿には、不覚にもきゅんとしてしまったりもした。
ニートと聞いたときは正直…だったけれど、だんだん立派な主夫になりつつある彼に、こんな形も良いのではないかと思うようになった今日この頃。

…完全に立場は逆だけれど。
なんにも知らない可愛い年下のお嫁さんを娶ったような気分だ。

「なまえさん?」
「っあ、ごめん、なに?」
「今日はカレーを作ったって話をしていたんだが、だいぶ疲れているみたいだな…。明日は休みだろう?」

隣を歩くカラ松くんを見上げて、明日の予定に想いを馳せる。久しぶりのちゃんとした休みに、加えて二連休。黙っていても弾む心に、つい頬がほころぶ。凝り固まった表情筋が本当にほころんだかどうかは定かではないが、気分が上向きになっているのは確かだ。
それに、今までカラ松くんとデートらしいデートもしてこられなかったし、せっかくの休みなのだから、そういう恋人らしい過ごし方もしてみたい。

「カラ松くん、この土日は予定無いんだよね?」
「ああ。例えあったとしても、なまえさんのためならオールキャンセルするさ」
「はは、嬉しいな」
「ほんとか!?あっ、いや、…フッ、当然だ。なまえさんはオレのシェリーなのだからな」
「カラ松くんは可愛いねぇ」
「…可愛いより、かっこいいと言ってほしいのだが…」
「かっこいいカラ松くん、土日は私と一緒に居てくれる?」
「も、もちろんそのつもりだ!」

少し赤みの差した頬が可愛くて、ついにやけてしまう。こんな可愛い彼氏が居て、本当に良いのだろうか。
彼と居ると、仕事の疲れも吹っ飛ぶ。本当にそう思うのだ。

手を繋いで歩く二人きりの帰路が終わりを告げ、私たちは私の部屋の玄関前。私が鞄から鍵を取り出す前に、カラ松くんが合い鍵でドアを開ける。それだけのことに、なんだかドキドキした。なんか、彼氏彼女を飛び越えて夫婦みたい。…なんてね、私の年齢がそういう妄想を掻き立てるんだろうなと自嘲していると、ふいに携帯が着信を知らせた。
嫌な予感。だってもう日を跨いだ深夜の時間帯だ。こんな時間に電話だなんて、よっぽどのことだろう。案の定、電話は上司からのものだった。
カラ松くんを部屋に入らせて、私は外で話をしようと思った。仕事のことはあまり聞かれたくないし、不満げな顔になるだろう私を見られたくもなかった。

上司からの着信に応答して、携帯を耳に当てるのと同時に、カラ松くんの背を押して中に入っているよう促す。けれど彼は少し不機嫌な顔を作って、私の手を引いて強引に室内へと引き摺り込んだのだ。こちらが電話口で下手なことを言えないのを分かっているらしい。そのまま、玄関扉を背にカラ松くんの腕に囲われた状態で話を終えた私は、複雑な心境で目の前の彼を見上げる。

「仕事の電話だったのか?」
「うん、まぁ」
「それで、なんだって?こんな時間にするような話だったのか?」

カラ松くんは、急に掛かってくる仕事の電話に対していい顔をしない。私だってそりゃ仕事の電話は嫌だけれど、もっと嫌なのはカラ松くんが不機嫌な顔をすることだ。いつも優しい顔をしているものだから、そのギャップについつい怯んでしまう。

「週明けに必要なプレゼン資料の間違いがあって、それを直してくれないかって」

本当はもっと細かい内容で、要するに休日出勤して資料を直して準備しておけという旨の連絡だった。つまり、私の明日の休みは休みではなくなったわけだ。

「ごめんね、カラ松くん。明日は朝から会社行かなきゃいけないけど、お昼過ぎには帰ってこられると思うから…」
「それはべつにいいんだ。オレが言いたいのは…」

そこで言葉を切って、カラ松くんはその後の言葉を呑み込んだ。
そのまま振り向いて、靴を脱いで室内に入っていく彼を、ぼんやりと見送る。私の優先順位が仕事から動かないことを、彼はきっと不満に思っているのだろう。私のこれまでの人生は仕事をすることで埋まっていて、仕事をすることで歩んで来られた。だから、今更それを変えることは難しい。
働いてないカラ松くんには分からないよ。
何度も呑み込んでいるこの言葉を、言えば全てが終わるのだろう。私のために頑張ってくれているカラ松くんに、少しでもそんなことを思う自分が大嫌いだ。

その日は少し険悪なまま、シャワーを浴びて床に就いた。寝るためだけに帰って来ていた部屋なので、ベッドだけは広くて良質な物を使っている。大人二人が充分寝られるその広さでは、隣に寝ているはずのカラ松くんが遠い。
カラ松くんだけじゃない、今までの彼氏みんな、こういう日があった。決まってそれは私の仕事が発端で、お前は仕事と結婚しているのかとさえ言われたことがある。
そんなつもりじゃない。そんなふうに言わないでほしい。私だって頑張ってるんだ。一人で立とうと必死なんだ。

「なまえさん…」

枕に埋めていた顔を上げると、暗闇の中でカラ松くんがこちらに顔を向けているのが分かった。伸びてきた手に頬を拭われる。

「泣いて、いるのか…?」
「…ううん、欠伸が出ただけだよ」
「……なまえさん、おいで」

逞しい両腕を広げて、カラ松くんが微笑む。有難いことに、それに逆らうほど私は捻くれてはいなかった。素直に甘えていいと、全身で言ってくれる彼が好きだ。カラ松くんの腕の中に擦り寄って、先程まで遠く感じていたのが嘘のようにぴったりとくっつき合う。

「…なまえさん、…オレは時々、このまま刻が止まってくれないかと思うときがある」

カラ松くんの熱い腕の中にいると、カラ松くんの声がとても耳に響く。眠りを誘うようで、けれど簡単には寝かせてくれないような低くてドキドキする声。

「このまま…あなたをオレの腕の中に閉じ込めていたい。朝なんか来なければいい」
「カラ松くん…?」
「オレだけ、…オレのことだけ見て、考えて、それでなまえさんが幸せなら良いのに」

一層ぎゅっと抱き締められて、カラ松くんの顔が見えなくなった。
ああ、私は彼に寂しい思いをさせているのかな。カラ松くんは、私の仕事に対する気持ちを理解しながら、必死に私を支えようとしてくれて、それでもやっぱり納得いかなくて、きっと私以上に私の上司や仕事のやり方を理不尽に思ってくれているのだろう。
彼の気持ちを嬉しく思いながらも、私はなにも言葉を返せずにいた。結局、仕事を捨てることは出来ないし、カラ松くんの悔しい気持ちを晴らしてあげることも出来ない。

「…ごめんね、カラ松くん…」
「……謝らないでくれ、…ただ、なまえさんが心配なんだ…。無理はしてほしくない…」
「うん、ありがとう…」

熱いくらいの体温に埋もれて眠りにつく間際、柔らかく頬を撫でられる。そのまま優しい眠りについた私は、気がつくと朝を迎えていた。
今日も仕事だという事実が、幸せな微睡みすらも許してくれない。起き上がると、隣のカラ松くんが小さく唸って寝返りを打った。あどけない寝顔に癒されるのも束の間、後ろ髪を引かれながらベッドを下りる。

手早く身支度を済ませて玄関へと急ぐ、ちらりと視線だけを寝室に向けて、歯噛みしながら家を出た。カラ松くんはまだ寝ているようだったので、起こさないように細心の注意を払ったつもりだ。だってまだ朝の六時。普通の休日なら、なんとしてもまだ布団から離れたくない時間だろう。
早朝出勤する休日とは。
最早それは、私にとって哲学のようにも思えた。

職場に着いてすぐ守衛室に声を掛け、鍵を借りたら自分のオフィスへ。誰も居ないオフィスの、自分のデスク付近にだけ照明をつける。手慣れたものだ。
しかし、がらんとした室内はどこか物寂しい。人が居ないから当たり前なのだけど。時々、なんで私だけ仕事してるんだろう、と思わされるのが無人のオフィスの嫌なところだ。煩わしさが無いと思えば、良いことなのかもしれない。

パソコンを立ち上げて、直せと言われたプレゼン資料に取り掛かる。ついでに印刷もしておけと言われたので、出席人数分印刷して、なんなら明日のお茶汲みの準備でもしておいてやろうかと毒づきながら、プレゼン資料のミスを直していく。だいたい、これ作ったの私じゃないし。とかは言わない。部下が作ったプレゼン資料ならその上司にあたる私が直したって不思議じゃない。
ひとつ、深呼吸。
とりあえず、週明けの会議に出席する人数を確認して、プレゼン資料の見直しを行い、上司にメールで送信。早く確認してもらえるよう、電話でその旨を伝えることも忘れない。

「…ふぅ」

まずはひと段落。
上司が確認したら、メールが返ってくるはずだから、それを待って印刷に取り掛かる。うん、流れはこんな感じだな。
時計を見ると、時刻は八時。上司の確認次第で、お昼前には帰れるだろう。深夜まで働いていた休日出勤に比べれば、なんとも可愛いものだ。しかしこの際だからきっちり代休は取らせてもらおう。それか休日手当が欲しい。
これが正当な報酬の要求なのか、それとも現実逃避なのか、社畜と化した私にはいまいち判断がつかない。

「ん?」

ふいに携帯が鳴って、見るとそれは暫く無かった母からの着信だった。

「はい、もしもし」
『もしもし、なまえ?元気しとうと?』
「はいはい、元気しとーと。で、なんね?」
『なんねってアンタ、なんもなか電話しちゃいけんと?』
「私も暇じゃなかけん」
『まあアンタは忙しい忙しいって、結婚はどうすんね?』
「…またその話…」
『アンタ、お母さんもお父さんもいつまでも元気やなかばい、早う婿の一人も連れて来んね。子供はどげんしとうと?どげん考えとうとよ』
「よかろうもん、私の勝手ばい」
『勝手は結構やけん、ばってん歳も歳なんやから』
「ッ分かっとるよ!!…それに、今…彼氏居るけん…」
『本当ね?また仕事しすぎて逃げられっと違うね』
「うるっさいなぁ…、それだけならもう切るよ。今会社だし…」
『土曜日やのに、またアンタは安請合いしとうね!アンタは子供ん頃から、』
「はいはい、もう切るけんね!」
『なまえ、お母さんは心配しとうと。あんまり東京で上手くいっちなんなら、帰って来てもよかよ』
「……大丈夫だから、心配しなくていいよ。ありがと…」

通話を終えて、長く深く重い溜め息を吐き出す。デスクに項垂れて、意味もなく唸ってしまった。

仕事、年齢、結婚、出産。いくつもの重圧、いくつもの押しつけられる義務。項垂れたデスクから顔を上げられずにいる私に、パソコンがメールの受信を知らせてくれる。分かってる。今は働かなきゃ。仕事を終わらせて、早くカラ松くんに会いたい。
今まで、心の捌け口や逃げ場がなかった私にとって、カラ松くんは唯一の癒しだ。

上司からのゴーサインで、データのプリントアウトを始める。最近のプリンターは凄い。指定すれば一部ずつホチキス留めまでしてくれるのだ。私はただ、プリンターで出力される資料を眺めながら、これが終わったらこの書類を会議室に持って行こうなんて考えた。
プリンターの稼動音だけが響くオフィスで、ぼんやりと椅子に座る三十路女。

なにが正しくて、なにがいけないことなのか。
私はどこでなにを間違えたんだろう。どうしてこんなに周りから色々言われるのだろう、私が間違ってるから?私は私なりに頑張ってるのに、それがそもそも間違ってるの?
就業年数分だけ地位も給料も上がったし、それは私自身への社会的評価だと思ってきた。私は社会に認められている。その自信を励みにここまで頑張ってきた。でも私は同時に女で、年齢や結婚、出産に囚われる存在でもあった。私に足りないのは、若さと幸せな結婚、可愛い子供たち。
押しつけられる価値観を、強く否定出来ないままここまで来てしまった。女としてのステータスを上げられないままの私に、価値は無いのだろうか。

カラ松くんと付き合い始めて三ヶ月。一緒には眠るけれど、そういったことになったことはない。手を繋ぐだけで朗らかに笑ってくれて、初めてキスをしたのもつい一月程前のことだ。あの時のカラ松くんは、頬を赤らめて幸せそうに笑ってくれた。カラ松くんの笑顔は、魔法みたいに私に温かな感情をくれる。…そういうことにならないのは、まだその時じゃないか、私に女としての魅力が無いかのどちらかだ。後者…だとは思いたくない。

「…あれ、終わってる」

ふと顔を上げると、プリンターの音がしない。印刷されたプレゼン資料をパラリと確認して、それを会議室に運んでおいた。
すぐさま自分のデスクに戻って鞄を取り、退社準備を整える。オフィスの時計を見上げると、予定通り昼前の時間を指していた。朝から仕事に来た甲斐あって、午後は完全な休みだ。それだけでちょっとウキウキ出来るのだから、私も大概だなと思う。

すぐにオフィスを出ようとして、立ち止まる。
ふと、自分のデスクに戻って、椅子に座った。
大きな窓から外を見ても、すぐ目の前もどこかのビルで、空は見えない。

私は、カラ松くんを逃げ場にしているだけではないのか。

本当に一瞬、ふっとそんな疑問が頭をもたげてしまった。
そうなったらもう駄目だ。腰が抜けたように椅子から立ち上がることが出来なくなっていた。
私は、私が背負っているものをカラ松くんに押しつけているのではないか。私が周りから急かされ、囃し立てられるのと同時に、彼にも同じことを私自身が無意識の内にしているのではないか。

もたげた不安の処理の仕方が分からなくて、途方に暮れる。
カラ松くんに会いたい、甘えたい。そう思うのは私のワガママで、カラ松くんに負担を掛けているんじゃないか、いい年した大人が、年下の男の子に甘えたいなんて、きっと親や友人たちは笑うだろう。そういう人たちだ。私も、人事として聞いていたら「年上としての自覚がない」なんて批判をするかもしれない。
今思えば偏見と意地にまみれた人生だった。それが普通でそれが正解だと思ってきた。
知らず目頭が熱くなる。緩んだ涙腺が悲鳴をあげて、咄嗟に顔を覆った。
分からなくなった。なにもかも。なによりも自分自身の気持ちが分からないのだから救いようがない。一人で抱えきれない思いや重圧を、放り出すことも、誰と共有することも出来ず、宙ぶらりん。
私、
私は、…

どうしたいのか、どうすればいいのか、そんなことの答えすら出せず俯くと、鞄のポケットに差し込んだ携帯が着信を知らせているのが目に入る。
条件反射で手に取ると、カラ松くんからの着信だった。くだらないことで悩んでいる間に、カラ松くんを放ったらかしにしていたことに気づいてヒヤッとする。即座に応答ボタンを押して、携帯を耳に当てる。どうか、聞こえる声が怒っていないことを願った。


次項

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