恋だ愛だと始めよう
本日は晴天なり。
背伸びをして洗濯竿を引っかけた。これで洗濯は全て終わり。少し休んだら台所で昼食の準備をしなくては、と一息つく。
雲は高く伸びていて、もう初夏である。これから農作業の手伝いも忙しくなるなあと思っている時だった。
「ただいま」
後ろから声がかかる。芯のあるゆったりとした声。よく聞き慣れた声だった。
「勘右衛門さま、おかえりなさい」
わたしは声の方向に駆け寄る。特徴的な深い色の髪に、力強い笑顔。
彼は尾浜勘右衛門さま……わたしの許婚である。
「久しぶりだね」
「ええ、春休み以来でしょうか」
勘右衛門さまはわたしとの許婚が決まった十歳のときに忍術学園へ入学された。もともと我が家は忍者の家系で、仲の良い親同士が決めたことだ。
今は理解しているが、その時わたしはまだ九つで、村で一緒に遊んでいたお兄さんが自分の夫になる人だと想像がつかなかった。
あれから五年、正式に顔合わせをした時よりずいぶん逞しくなられている。声変わりもして、背もぐんと伸びられた。昔は同じくらいだった筈なのに、今は頭一個分以上も勘右衛門さまの方が高かった。
「五年生になるとなかなか帰って来れなくて。すまない」
「いいえ、勉学に励まれるのは良いことです。わたしの事はお気になさらず」
家に帰る前に寄ってくれたのだろうか、まだ大きい荷物を背負ったままだ。
「昼食を食べて行かれますか?」
わたしが訪ねれば彼は首を横に振る。
「いや、まだ両親に挨拶をしていないから家に戻るよ」
「そうですか」
「それじゃあ」
ひらひらと手を振って勘右衛門さまは数件先にある尾浜家の方へ向いた。数歩進んで迷ったように立ち止まる。
「午後から時間あるかい?」
彼は振り返らずにわたしへ問いかける。
「は、はい」
「じゃあ迎えに行くから待っていて」
そう言って、今度こそ家の方へ向かっていったのだった。
こうして誘われるのは初めての事ではなかった。以前も学園から帰省されたとき、珍しいお菓子を持ってきてくれて景色の良いところで一緒に食べたりもした。むしろ、勘右衛門さまが帰ってきた日は大抵こうしてお誘いが来る。
許婚からの誘い……普通の娘さんならときめいたりするのだろうが、わたしの心は浮かなかった。目を伏せてひとつ、ため息を落とす。泣きたい気分になりながら土間の方へ歩いていく。
いつものように昼食を作り、ありがたくいただいた。片付けをしようと自分の椀をまとめた時だ。
「あんた、今日はどうしたんだい? 随分浮かない顔をしているじゃないか」
そう言って背を叩いてきたのは七つ上の姉だった。姉は三年前に隣町へ嫁いでいった。ずいぶんそちらで可愛がられているらしく、親子孝行をしなさいと度々帰省させてもらっているらしい。今日も生まれて一年経つ甥を見せに来たのだった。
両親は孫が来たことに大喜びし、畑仕事を放り出して街に連れて行ってしまった。残ったわたしと姉はふたり水入らずで昼食をとっていたのだ。
「姉さま。姉さまは旦那さまと仲がいい?」
「なに恥ずかしいこと聞くんだい。まあ、あの人がわたしに惚れてくれたからねえ。変わった人だよほんと」
姉さまは恥ずかしそうにはにかんだ。姉さまは村で畑仕事をしている時に通りかかった商人に見初められた。それが今の旦那様だ。
あの時姉は十八で行き遅れないかと周りから心配されていた。それでも今はとても幸せそうに笑っている。わたしには姉の笑顔がまぶしかった。
「そ、そうだよね。わたし、姉さまが幸せでよかった」
わたしは逃げるように姉さまが食べ終わったお膳も一緒に下げて洗うことにした。
――あの人と一緒になって良いのだろうか
今年になってずっとそのことばかり考えている。
梅雨に入ってすぐにわたしに初潮がきた。家族は喜んでくれたが、このまま結婚をして、あの人の子供を産んで……というのがぐんと近くなったように感じた。そう考えてしまうと怖くなったのだ。好きではない人と暮らすのはどんな日常なのだろう、と。
勘右衛門さまのことを嫌いかと聞かれれば、そうではない。好き合って結婚する人ばかりでないし、それが必然だとも思っていた。
九つの頃から許婚のいたわたしは必然的に恋というものを避けてきていた。
恋は知らない。でも恋をして幸せな姉さまを見るとこれでいいのかと思ってしまう。
兄さまも来春にお嫁さんを迎える。恋女房なのだと自慢していた。
両親としたら早く嫁に行ってもらいたいのだろうが、なんとなく区切りがつかないのだ。
「そよ、悪いね。わたしが洗うよ」
後ろから姉の声が降ってくる。
「でも、もうすぐ終わるから」
「あんたに迎えが来てるよ。早く行っておやり」
姉はからかうように目を細めた。
「ああ、ごめんなさい」
わたしは手ぬぐいで濡れた手を拭いてすぐに裏口から出て行こうとする。
「そよ、お待ちよ」
姉はわたしの髪を掬ってなにやらくるくると手繰っている。少し強く頭皮を引っ張られて思わず目を瞑った。
「姉さま……?」
「やっぱり良く似合う。わたしからの土産だよ。さ、お行き」
とん、と肩を押されてわたしは勝手口から出されてしまった。髪を結われたことはわかるが、それを確認する暇はない。お礼さえ言う暇がなかったのだ。
表へ行けば勘右衛門さまが戸の方を見ながら待っていた。
「お待たせしました」
裏から来たのが珍しかったのか、勘右衛門さまは目を丸くして驚かれている。
ぱちぱちと二度瞬きをして、それからいつもの笑顔になった。
「全然待っていないよ。さ、行こうか」
彼と行くのはだいたい村の裏手にある湖だった。広い湖には睡蓮が咲いている。
学園から帰って来た時はここで少し話をするのだ。いきなり結婚する前にわたしのことを知っておこうと努力してくれているのが伝わってくる。嬉しい反面、気を遣わせてしまっていることを申し訳なく思う。学園の休みは長くない。課題もあると聞いている。上級生になったからこそわたしの為に時間を割いてもらうのは心苦しかった。
「……結局、学園長先生の思い付きだったのだけどね」
「ふふ、そうなのですね」
わたしは勘右衛門さまに相槌を打つ。この五年間で学園のことを少しずつ教えてもらっていた。ご友人の名前も、新しくできた後輩の事も。飽きないように工夫して話してくれるのが伝わる。
あんなに気乗りしていなかったのに、村の外で起きたお話を聞くのはとても楽しかった。
話を聞きながらも、春休みから見ないうちにまた少し背が伸びられたな、と私は勘右衛門さまを見つめた。
「あ、あのさ……」
話が途切れて勘右衛門さまは俯かれた。なにか失礼があったのかと不安に駆られる。まじまじとお身体を見てしまったのを気付かれたのだろうか。
言葉を待てば、自分の思っていることとは全く違うものが聞けた。
「その髪飾りは自分で買ったのか?」
「いいえ、頂き物です」
まさか、変なのだろうか……わたしの中で一気に不安が募った。
姉は明るく優しいが、いたずら好きなのだ。わたしの髪を変に結って、見るに堪えない姿にされているのかもしれない。お迎えにいらしたときにこちらを見た時も目を丸くしていたのを思い出した。まさかそこで指摘ができなくて……
「あ、あの……おかしいですよね? 外します」
聞こえた自分の声が情けなく震えていた。恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
わたしは頭部に手を伸ばして髪飾りを探る。それは簪のようだった。引き抜こうとすると勘右衛門さまが立ち上がった。
「待て、違うんだ!」
ぐいと手首を掴まれる。その拍子に簪が抜けてはらりと髪が落ちた。わたしの手に握られていたのは上品な紅色の玉簪だった。
「あ」
わたしの口から情けない声が出る。体の軸がぶれたのだ。そのままぐわりと視界が反転し後ろに倒れた。目の前には青い空……でなく勘右衛門さまのお顏があった。私の手首を地面に縫いとめていたのだ。いわゆる押し倒されているような状況だ。
「あ、あああ……そよ、すまない! すぐに退くから」
「す、すみません……」
どきどきと心の蔵がうるさい。顔が火照って死んでしまいそうだ。
しどろもどろしていると、ぱっと青空が見える。手を伸ばして彼がわたしを起こしてくれた。
勘右衛門さまが困ったように笑っていて、それからひとつ咳払いをした。
「もうひとつ話を聞いてくれる?」
「は、はい。もちろんです」
沈黙にならなくて助かった。わたしは恥ずかしさを誤魔化すように、その場で正座して、聞く準備が出来たというように頷いた。
「ある忍たまが女装の実習があるからと小間物屋に行った。その時に恋の実る髪飾りというのが売っていた。忍たまはそれを買って実習中につけた。ずっと叶えたい恋を叶いるためにまじないを頼ったんだ」
わたしは何度も頷きながら話の続きを促す。
「そして久しぶりに好きな子に会った。その時、彼女が付けてきたのは自分と同じものだった。忍たまは落ち込んだ。それは彼女が誰かを好きでいるという証だから。それでも普段見たことのない綺麗な姿に、忍たまはますます彼女を好きになってしまうんだ」
「悲しいお話ですね……」
わたしは思わず口を挟む。
ご友人の話なのだろうか。結ばれない悲しい恋の話だ。その人は遠回しにその子に振られてしまうのだから。
「格好悪いだろう。許婚だと言うことに胡坐をかいて好きだと言わなかったからだ」
勘右衛門さまは懐から右手を抜いてわたしの前にあるものを置いた。
きらりと光るそれはわたしの手に握られているものと一緒だった。
「両想いの男がいるなら俺は止めない」
彼の顔からいつもの笑顔が消えていた。苦しそうに表情が歪んでいる。
切なげに掠れた声で勘右衛門さまは言った。
「でもそいつが君を見ていないのなら、尾浜に嫁いでくれ」
あまりにまっすぐな言葉にわたしの頭は追いついてこなかった。
勘右衛門さまは勘違いなさっている。とにかく誤解を解かなければと頭を整理する前に言葉を重ねた。
「あの、これは姉さまからのいただきもので……好きな男性なんていません。わたし、恋をしたことないので……」
わたしの言葉に勘右衛門さまは思い違いに気付かれたのか顔を赤く染めた。
手で顔をぐしゃりと覆ってから、わたしを見る。
真っ赤なお顔……きっとお互い同じ顔をしているのだろう。なんだかおかしくなって二人で噴出した。
「ああ。俺、格好悪いなあ」
「そんな! わたしこそ、姉さまに髪を結ってもらったのをいたずらと勘違いして取り乱してしまいました! 今もこんなに髪が乱れて格好悪いです!」
わたしは勘右衛門さまに笑ってほしくて髪を乱すように首を振った。
「もうほんとに、君という人は」
ふと近づいてきた彼に、わたしは怒られるのではないかと体を強張らせる。
「後ろを向いて御覧」
わたしは素直に湖の方を見た。桃色と白の睡蓮が花を咲かせている。見ごろももう終わりで、枯れかけている。
「髪に触れても?」
後ろから聞こえた問いかけに心臓がどきりと脈打つ。
「は、はい」
頷けば、勘右衛門さまの指がわたしの髪に滑った。さらさらと梳いてくれている。
いつもは傍にいても緊張することなんてないのに今は早鐘のように鼓動が鳴っていた。心なしか触れられているところが熱く感じる。
この気持ちはなんだろうか。もしかして流行病にでもかかってしまったのかと不安になるくらいの異変だった。ちくちくと胸が痛い。でも心地よい気もする。むず痒くてとても不思議な気分だった。
「はい、綺麗にできた」
そう聞こえてすっと勘右衛門さまの気配が遠のいた。
わたしは湖の方に行き、水面に自分の姿を映す。
「わあ、ありがとうございます」
そこに映っていた自分は簪二本で髪を綺麗に纏めあげられていた。水面の光が反射してきらきらと簪が光っている。
隣には勘右衛門さまが映っていた。
「帰ってくる度に綺麗になっていくから焦るよ」
「わ、わたしも、勘右衛門さまは帰ってくる度に背が伸びられて、どんどん大人になっていってしまいます。わたしはあなたの隣に並べるか、不安なのです」
これでは恋人同士の睦言だ。言った自分の口を押えた。
恥ずかしい。今更だ。今更自分が勘右衛門さまの事がずっと好きだったのを思い知ったのだ。自分では彼と見合わないと、良い嫁になれないとずっと不安だったのだ。
「俺はずっとそよが好きだよ。君が思っているよりずっと前から」
「え……」
「ちゃんと学園を卒業するから、そしたら正式に迎えに行かせてほしい」
真剣に言われれば首を横に振る選択肢なんかなくて。わたしはただただ頷いた。
たった数刻でわたしは恋に落ちた。否、落ちていたことに気付かされたのだ。いっぺん気付いてしまえば、顔が火照るのも、鼓動が早くなるのも全然止められない。
「手を握ってもいいかい?」
困ったような笑顔で問う勘右衛門さまに、わたしは真っ赤になった手をそっと重ねるのだった。
恋だ愛だとはじめよう
君が勘ちゃん、勘ちゃんって追いかけて来た時から
俺は君に惚れていたんだ
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