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ひんやりとした空気に肌が泡立つ。重い瞼を開けると、わたしは薄暗い影の中にいた。以前にも覚えがある、忘れていたこの感覚。ここに来た途端に思い出した。同じようにわたしは鉄格子の中で、両手首と片足に枷と重りがつけられていた。身動きは取れないが、思考は前よりもはっきりしている。
あの時と同じなら…………、居る。円形の広間の中心に置かれている机と椅子。その椅子に、誰かが居る。規則正しく机を叩く音が広い空間に響き渡っていた。

「……更生は果たされない」

低い、全てを見透かすような男の声。

「トリックスターは全て消える運命だ。それが人間の……お前の望み」

それは、わたしに言っているのか。望みとは、トリックスターとは……何のことなのか。

「また、お目にかかろう。その時はすぐ……」

あなたは、誰?  声にならない問は闇の中へと消えていく。男はこちらを振り向くことはなく、視界は霞み、牢獄との別れを告げていた。




昨晩、メジエドがニュースになってから世の中はそれ一色になった。テレビも電車の乗客も学校の生徒も、誰もが目に見えない存在について議論している。昨日まで金城という名だったのに、何とも単純だ。
とは言えわたしもメジエドを気にしている一人だ。この件について何か知っているであろう人物、双葉ちゃんから返信があったのは送った日の翌日午後だった。

『対応中』

短く必要事項のみの簡素な一言。それでもわたしにとっては返事をくれただけで十分だった。それにしても何をどう対応しているのだろうか。わたしの頭では彼女の思考は理解できない。とにかく危ないことだけはしないでいてくれれば……と思ったが、既に彼女は相当危ないことをしていたのだった。そちらの方面でわたしが心配する必要は、多分、ない。
明智くんはテレビ出演に忙しいのか、今日は学校に来ていなかった。女生徒たちは出演するワイドショーを知っているらしく、録画してきたとか楽しみだとか、そんな今時らしい会話を繰り広げていた。当の本人がいないほうが盛り上がっている気もする。気になるのなら話しかければいいのに、遠目で眺めているのがいいらしい。わたしには理解しがたい行動だった。
何も変わったことのない学校とアルバイトを終え、その帰り。渋谷の街頭の巨大なテレビでは相変わらずメジエドを取り上げている。同じ話題なのに飽きないなと思いつつ駅へ向かったのだが、慌てたようなテレビの音声に、周囲の人々もわたしも足を止めた。

『先程、メジエドのホームページに新たな声明が発表されました。メジエドは声明で、怪盗団に対する勝利宣言を発表しました。更に、怪盗団を称賛する一部の日本国民に対して称賛を止めるよう、警告を発しています』

「なに、どういうこと?」

「勝利って、怪盗団が負けたってことか?」

「ってゆーか警告って、あたしらメジエドに何かされんの?」

わたしは急いで携帯を開き、メジエドを検索する。見つけた画面は緑一色で長々と英語の文章が書かれていた。

『我々の質問に怪盗団は沈黙した。これで我々の正義が証明された。日本国民は怪盗団を崇拝してはいけない。崇拝する者には罰が下るだろう。その罰とは財産の没収である。私たちはメジエド、見えない存在。姿なき姿で悪を倒す』

国際的ハッカー集団であるメジエドなら、個人情報を奪うなど簡単にできるだろう。今まで自分たちと関係ないと外野で盛り上がっていた人たちが標的となる。これはメジエドの方が上手かもしれない。暁くんたちはこの件を知っているだろうか。簡単にメッセージを送って、一先ず四軒茶屋に帰ることにした。アパートに着いて携帯を確認すると暁くんから返信が来ていた。

『そのニュースならさっきまで皆で観てた。少し問題があって、できれば直接話がしたい』

理由はわからないが、携帯を通してできない話らしい。問題というのが気になるが、早く知ったからといって出来ることなど何もないだろう。明日は元々ルブランで手伝いをさせてもらう予定だった。わたしが聞いても構わないのなら、直接会ってからにしよう。それを入力し、最後におやすみなさい、と付け加えて送信ボタンを押した。




翌日、伝えていた通りにわたしは学校が終わった後足早にルブランへと向かった。授業中に遅くなるかも、と暁くんからメッセージが来ていた。また予定外のことが起こったらしい。どちらにしても惣治郎さんが居る間はできない話なのだから、遅くなる心づもりでいた。ルブランで手伝いをしつつ待っていると、こちらでも予定外の客がやってきた。

「いらっしゃい……ま、せ」

「お邪魔するわ」

色素の薄い長い髪を靡かせ、タイトな黒いパンツスーツで颯爽と歩いてきたのは検事の新島冴さんだった。どうして、またここに。言葉が何も出てこない。どうしていいのか戸惑っていると肩を叩かれ、驚いて振り向くと惣治郎さんが立っていた。

「瀬那ちゃんは食器洗っといてくれ。……注文は?」

奥に下がっているように命じられて、わたしは素直に従う。矢面に立たないように庇ってくれたのと、検事さんが用があるのは自分だと理解している行動だった。

「今日は客としてきたのではありませんので、結構です」

「前の件なら、何度聞いても同じだ。話すことなんかねえ」

一体何の話なのだ。検事である彼女が客として来たのではないということは、仕事に来たということだ。惣治郎さんが何をしたというのか。二人に背を向けながら食器を洗っていると、またドアベルが鳴った。このタイミングで来客は居づらいだろう、最悪だ。奥から顔を覗かせると、出入口に立っていたのは暁くんだった。惣治郎さんと検事さんも一瞬だけ彼を見たがすぐにお互い視線を戻した。

「手紙、読んでいただけましたよね?」

「アンタだな、こいつに双葉のことを吹き込んだのは」

双葉――その名を暁くんが知っている? 惣治郎さんが話すはずがないし、わたしも何も言っていない。

「余計なことしてくれたな。若葉のことなら話す気はねえからな」

「吹き込んだ……? なんの話です? ……まあとにかく、親権停止もやむなし。ということでよろしいでしょうか?」

「はあっ!?」

がちゃん、とカップを落としてしまった。慌てて拾って欠けていないか確認する。何がどうして、急にそんな話になる。性急すぎる流れについていけない。

「お宅の家庭状況に、お嬢さんの状態。有利なものは何ひとつありませんよ? 家裁に出ますか? 99.9%、我々が勝ちます。虐待の疑い……親権停止は免れないでしょうね」

「虐待だなんて! そんな事実ありません!」

黙っていられなかった。濡れた手もそのままに、検事さんに声を張り上げる。だって、わたしは知っているから。こうなる前の二人を。わたしを宥めるためか、惣治郎さんが検事さんとの間に入り視界を遮った。

「そこまでするか。アレのことは知らねえぞ」

「こちらも真剣ですから。『認知訶学』が、精神暴走事件と関わっている可能性がある以上……」

その単語には聞き覚えがあった。確か双葉ちゃんが言っていたものだ。それがどうして。惣治郎さんが舌打ちをして、頭をがしがしと掻きむしった。

「……降参だよ」

「では、後日また連絡します」

「アンタの聞きてえことは、多分、何にも出てこねえぞ」

「構いません。有用かどうかはこちらが決めますから。今度は、美味しいコーヒーを飲みにきますね」

勝ち誇ったように検事さんは綺麗に口角を上げる。一度も席に座ることなく、彼女は言いたいことだけ言ってルブランを去っていった。まるで嵐だ。何故、惣治郎さんがここまで責められなければならないのか。知らず両手でエプロンを握りしめていたわたしの頭に惣治郎さんの大きな手が乗せられた。緊張が解ける。

「塩まけ、塩!」

未だに立ったままの暁くんへ向かって指示をする。本気ではないだろうが、本音を言えばもう来て欲しくはないのだろう。わたしも同じ気持ちだ。惣治郎さんは気持ちを落ち着かせるためか腕を組んで目を閉じた。

「人を苛つかせる天才だな、あの女……」

「ただいま……」

帰宅の挨拶もままならず黙っていた暁くんがようやく口を開いた。その続きを紡ごうか悩み、きゅっと唇を引き結ぶ。視線の先は惣治郎さんからずっと動かない。それに気づいたのか、惣治郎さんは検事さんからの憤りをそのままに、彼を視野に入れた。

「……何だ、そのツラは? 言いたい事でもあるのか?」

「親権停止って?」

「お前には関係ねえ」

「佐倉双葉は娘なんですか?」

「いい加減にしろ!」

急な大声で身体が硬直する。

「追い出されたくねえなら、大人しく学校だけ行ってろ! ……わかったなら、店閉めとけ。俺は帰る」

惣治郎さんは大股でわたしの横を通り抜けてルブランを出て行った。バタンと戸の締まる音に膝の力が抜け、その場に座り込んだ。惣治郎さんだから大丈夫だと頭ではわかっていても、耳を塞いで、体を小さくし、出来るだけ衝撃に耐える準備を……と反射的に動いてしまいそうになる。胸に手を当てて、早鐘のような心臓を落ち着けるため深呼吸を繰り返していると、モルガナの白い前足がわたしの足の上に乗せられた。

「セナ、どうした?」

「……ちょっと……吃驚しただけです」

モルガナを優しく撫でる。その体温が冷えた指先を温めてくれた。側に来てくれた暁くんの手を借りて立ち上がり、ボックス席に横向きに腰掛ける。わたしの膝の上にモルガナが乗って、暁くんはカウンターの椅子を回転させて向き合うように座る。ひと悶着あったが、結果的に怪盗団の話が出来る条件が整った。

「メッセージで言っていた、直接会って話さないといけない理由って……何かあったのですか?」

「怪盗団の正体を知っているって奴から連絡がきた。どうやらメッセージログを見られているみたいだ」

携帯のメッセージ画面を差し出される。大きな口に牙がある黒猫のようなアイコンが一方的に話をしていた。こちらからは送信出来ないらしい。相手は自分を『アリババ』と名乗っていた。

「あと手紙だ」

「これ……」

住所も切手もなく、ただ『来栖 暁』と宛名だけ印字されていた。中身はただ赤い紙に大きく予告状と書かれているだけで、名前も何も書いてはいない。

「アリババにメジエドを片づける代わりに、心を盗めと言われた」

「これは、そのための『必要な道具』ってことだな」

「正体だけでなく、予告状が必要なことも知られているということですね」

個人のアカウントを特定し、システムの改変が出来るのだ。ログを辿ることなんて造作もないことなのだろう。

「改心させて欲しい人は誰なのです?」

「佐倉双葉」

「……え?」

「佐倉、双葉だ」

そうか、それで暁くんは双葉ちゃんの名前を知っていたのか。彼女を探していた理由もこのため。でも、何故アリババと名乗る人物が双葉ちゃんの改心を依頼するのか。その報酬はメジエド問題の解決。すなわち、メジエド以上の能力がある、ということになる。

「……暁くん」

「何?」

「ここで……一階で怪盗団の話、したことありますか?」

暁くんとモルガナは顔を合わせて同時に頷いた。

「そう、ですか」

以前にも話をしていないはずのことを彼女に知られていたことがあった。きっとこの会話も聞かれている。直接ルブランに投函でき、ルブランを訪れても不自然ではなく、ハッキング能力も高く、佐倉双葉を知っている人間。思い当たる人物は一人しか知らない。アリババは、佐倉双葉、本人だ。どうして、改心なんて。

「アリババに心当たりがあるのか?」

黙っていたわたしを真剣な顔で暁くんが覗き込む。双葉ちゃんから情報を得ようと安易に考えていた自分が浅はかだった。既に怪盗団に……暁くんに接触していたとは思わなかったのだ。

「瀬那は……佐倉双葉を知っているのか?」

「……わたしは……、何も……」

惣治郎さんが話したくないことを部外者のわたしが話せるはずもない。しかし、知らない、とは言えなかった。嘘でも彼女の存在を否定したくなかったから。だから、ただ口を噤んだ。わたしの様子からもう全てを察しているだろうが、暁くんはそれ以上追及してこなかった。
(2019/2/9)

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