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暁くんと話が出来ないまま期限の二十九日が明日に迫っていた。いっそこのまま何もせずにいれば、海にも行かずに済むし、彼との距離感も適度に保たれたままで別れられる。それが一番正しいというのに、わたしはこの期に及んで迷っていた。
アルバイトを終え、渋谷駅の階段を上る。夕方だというのに、陽はまだ落ちずに日中の熱気が漂っていた。それでももう夏が終わろうとしている。そうすれば秋、冬が来て、あっという間に春だ。後、たった半年でわたしは。

「瀬那」

不意に名前を呼ばれる。反射的に足を止めると、腕を掴まれた。どうして、ここにいるんだろう。約束なんてしていないし、今日の予定も聞かれていない。ゆっくりと振り向くと、うっすらと額に汗を滲ませた暁くんがいた。

「どうして……」

「今日、花火するって、ルブランで。だから誘いにきた」

花火? それだけのためにここに? 呆然とするわたしの視線を真っすぐに暁くんは受け止めた。

「あと、話、したくて。待ち伏せは……ちょっとやりすぎだった、かも」

帰宅するのを待っていたのか。わたしが避けていたと気づいて、何も言わずに。ごめん、と謝る彼に首を振って答えた。渋谷駅の利用者が改札前で向かい合うわたしたちを横目に通り過ぎていく。

「邪魔になるから、移動しよう」

どこか座れるところを提案されたが、改めて腰を落ち着けて顔を見ながらなんて出来るとは思えず、人混みを避けた場所で話をすることにした。スクランブル交差点が見下ろせる連絡通路。双葉ちゃんが怪盗団に加わる前まで集合していた場所だと聞いている。ここなら、往来の邪魔にならない。二人で外を眺めていたため、ガラスに反射している。彼の表情までは読み取れない。

「どうして、放っておいてくれなかったんです?」

夏休みの浮き足だった喧騒とは真逆で重苦しい。何も選べない生き方を誰かに見透かされたようだ。

「わたし、冬が終わったら、ここから居なくなるんです」

誰にも何も言わずに、そういう決まりだった。本当なら破ってしまうと躾けがある、しかし、今聞いているのは彼とわたしだけ。

「だから、暁くんが遠ざかってくれてよかったと思ったのに……嫌われた方が簡単に別れられるって」

「瀬那は、俺と一緒に居たくないの?」

そんな聞き方、ずるい。わたしが首を横に降ると、確信しているのに。

「……よかった」

恐る恐る視線を上げると、暁くんはふっとはにかんだ。久しぶりに真正面からちゃんと彼の顔を見た気がする。どうしようもなく胸が苦しくて、スカートをきつく握り奥歯を噛みしめた。

「俺だって、瀬那といるのが嫌になった訳じゃないんだ」

「そんなの…………」

嘘、咄嗟に出そうになった言葉を飲み込んだ。ではあの隔たりの意味は?

「すみません、責めるつもりはないんです。わたしが――」

「違うんだ。瀬那は何もしてない。俺が、臆病だった」

そんなことはない。彼が真っすぐにわたしを見てくれたから、信じられるかもしれないと思っただけ。最初に出会ったときから、わたしは打算で動いていた。それも、暁くんはきっと気づいている。彼はわたしの仮面を外そうとしているのだから。そんなことをして、何の意味があるというのか。

「双葉のパレスから戻ったあと倒れてるのを見て、また同じことが起こったらどうしようって、怖くなった。隣に居てくれるのが当たり前になってたのに、急にいなくなってしまったら……君を、傷つけてしまったら……」

あの時眠ってしまった原因は未だに不明のため、防ぎようがない。ましてや、暁くんのせいではない。それに、傷つけたのはわたしなのに。わたしが居なければ、彼も傷つかずに済んだのに。どうして、わたしを責めないの。

「そんなこと考えてしまって、遠ざけてた」

「やめてください、わたしのこと、庇わないで……」

そんなことをされる価値はない、必死に頭を振って否定する。暁くんが何を考えているのかわからない。

「皆がわたしのこと、友達と言ってくれて、いい思い出が出来ました。それだけならよかったのに……あなたが、どんどんわたしを『わたし』で無くしていくから」

わからないことに気づきたくなかった。人間らしさを求めたけれど、人形に戻れなくなってしまう。他の生き方なんて知らない。

「暁くんは、わたしを……どうしたいの?」

「俺は……瀬那と対等でいたい。卑下する必要なんてないんだ。瀬那も俺たちと変わらない、ただの女の子だから」

「……ぅ」

止められなかった感情が溢れて零れる。逃げても苦しいだけだった。仮面を使い分けて、顔も心も隠してきたのに、暁くんに取り上げられてしまったのだ。見られたくなくて、俯いたまま彼の胸に寄りかかる。一瞬身体が大きく揺れたが引き離されることはなく、ふわり、と大きな手がわたしの頭に触れた。怖くない、暁くんだってわかっているから。

「俺は、何があっても瀬那のこと……嫌いになったりしない」

その言葉を聞いて、やっと肩の力が抜けた。恐怖心よりも安心感で満たされていく。胸の苦しさがほんの少し残っている理由はやはりわからないけれど、頭が混乱するほどではなく、心地いいものだった。わたしが離れるまで、暁くんはそのまま待っていてくれた。こんな街中で泣いてしまうなんて、子どもではないのに恥ずかしい。
さっき言ったことは本当だけど、と前置きをして、彼は今日どうして駅で待っていたのか教えてくれた。

「話す機会は伺ってたんだけど、遅すぎだって双葉に怒られたんだ。今日中に瀬那の誤解を解いてこないとルブランに入れないって」

双葉ちゃんが気を遣ってくれたおかげで、こうやって暁くんと話が出来た。二人の本当の兄妹のようなやり取りを想像できて、思わず笑ってしまう。

「もしかして、花火は口実?」

「うん、まあ……でも、瀬那が来てくれないと、俺、本当にルブランに帰れないかも」

「じゃあ、早く行かなきゃ」

改札へ歩を進めようとしたが、一つ忘れてはいけないことを思い出した。くるりと反転して、暁くんと向き直る。

「今日の話、誰にも言わないで」

「双葉にも……?」

彼女に話掛けたのはただの気まぐれだった。小さな少女が蹲って迷子になっていたのが、自分と重なったから。どちらに行けばいいのか、わからないのは今も昔も一緒だ。だからあの人に従うのが、わたしの生き方。

「瀬那が居なくなったら、寂しがるよ」

「惣治郎さんと、今は暁くんたちがいるから……大丈夫」

「……わかった、でも、黙っていなくならないって約束して。住所、知りたいし」

「うん……約束ね」

やはり、彼はわたしが実家かどこかに引っ越すのだと思っていた。言葉通りいなくなるのだ、御守瀬那、という存在は消える。守れない約束をするのは、浅はかだと理解していた。けれど、彼にしてもらった分は出来るだけ返したい。不思議と離れることへの恐怖は消え去っていた。




ルブランでは既に花火を揃えた双葉ちゃんが、店の前で仁王立ちして待ち構えていた。暁くんの後ろに付いてきたわたしを見て、一つ大きく頷き、よくやった、と言って店内へ入っていく。あとでちゃんとお礼を言っておかなければ。
陽が落ちて、風が心地いい冷たさを運んでくる。双葉ちゃんが一人で買ってきてくれた花火を惣治郎さんとモルガナも含む五人で楽しんだ。特訓の成果が表れている、もう一人でも双葉ちゃんは大丈夫だ。立ち上がったまま両手に一本ずつ持った花火を回してモルガナに見せびらかすのを、惣治郎さんは苦笑しながら眺めていた。

「必殺、二本取り! うりゃあ〜!」

「ワガハイに煙かけんな!」

「動物に火近づけんなよ」

少し離れた位置で見ていたわたしに、暁くんは細いこよりのような花火を手渡す。線香花火、と教えてくれたそれは、燃えた先が丸くなってパチパチと小さな音と共に火花が散る。名前の通り小さな花が、二人の手元に咲いた。

「綺麗ですね」

「動かないのがコツかな」

先の火球が燃え尽きるか、落ちれば終わりだ。話ながらだとどうしても動いてしまうので、ただ火花を見つめる。暁くんが、ひとり言のように呟いた。

「夏休みの予定も明日の海で終わりか」

「あ」

「え?」

色々あり過ぎて忘れていた。無意識に声が出て動いてしまったので、火球が地面に落ちる。もう少し燃えていそうだったのに、残念だ。先が気になっているのか、線香花火を持っていた手を下ろして暁くんはわたしが話すのを待っていた。

「明智くんに遊びに行こうって言われてたんですが、結局何の連絡もないんです」

彼の眉間に僅かに皺が寄っていく。素直に答えたのがまずかった。明智くんは怪盗団を追う人間だ。個人的に付き合っているとわかれば、いい気はしないのは当たり前だ。それが社交辞令だとしても。だけれど、もう三年も続いている関係なのは暁くんも知っているはずなのに、今更疎遠になるのも不自然でしかない。

「今、メジエドのこととかで忙しいですから、それどころじゃないんでしょうね」

「今日、午前中ルブランに来てたけど」

「そうなんです? それなら、やっぱり冗談だったんですね」

「話し方も戻ってるし、まあいいけど…………、あのさ、ゲームしない?」

そういうと、暁くんは袋から再び自分とわたしの分の線香花火を一本ずつ持ってきた。

「先に線香花火が落ちたり消えた方が、負け」

「いいですよ」

簡単な決めごとだ。動かなければわたしでも勝てるかもしれない。双葉ちゃんのはしゃぐ声が聞きながら、同時に火をつけて口を噤んだ。こんな静かな競い合いもあるのだな、と感心していると、火花は散り終わり、火球が小さくなって燃え尽きた。落とさずいられたが、視界の向こうにはまだ赤い球が付いている花火があった。

「俺の勝ち」

「……残念です」

落とさなくても負けてしまったが、彼が楽しそうなのでそれでいい。花火を棄てるため立ち上がると、それじゃあ、と背後から声が追いかけてきた。

「今度、一日俺に付き合ってよ」

「暁! 次は十本取りで、もっと大きいの作るから、見てて!」

「今行く!」

誘うだけ誘って、わたしの返事は聞かないのは明智くんといい何故なのだろう。ただ二人の違いは、暁くんの言葉が何の思惑もないこと。対等でいたいとわたしに求めた彼との接し方を考えておかないと。
(2019/5/26)

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