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いつもより早めの起床。昨日のうちに準備しておいた荷物を持って、待ち合せのルブランに向かう。外は晴れ、少し暑い。ルブランの前には既に三人が揃っていた。
「おはようございます」
「瀬那、おはよ!」
少し離れていたところで屈んでいた双葉ちゃんが駆け足で寄ってきた。色々あったが、今日を楽しみにしていたらしく声が弾んでいる。逆に声に抑揚がないのが惣治郎さんだ。心配事が絶えないようだ。
「いいか、双葉と瀬那ちゃんのこと、よろしく頼んだぞ。変なヤロウに声かけられないよう、しっかり見といてくれよ」
「側にいます、大丈夫です」
「……お前が変なことするなよ」
はっきりと言い切る暁くんに不審な目を向けている。中々終わらない見送りに双葉ちゃんがしびれを切らせた。
「ねー、もう行っていい?」
「わたしもいますから、安心してください」
「ああ……三人とも気をつけて行ってこいよ」
惣治郎さんに手を振って、元気よく双葉ちゃんが先頭を進む。電車で日帰りの距離だ。そんなに遠くはないけれど、天気も良く、夏休み最後という状況に同じく海に向かう人々が増えていった。降りた先の駅で他の皆と合流し、無事に目的地にたどり着く。
着替えが個別でよかったけれど、海へと続く出口で待っていた高巻さんがわたしの姿を見て不服そうだった。
「それ何! いつの間に買ったの?!」
指を差したのは、わたしが水着の上に着た四角い白の羽織ものだ。何とか布面積が多めのものを購入したのだが、抵抗が拭えず、こっそり購入したのだ。少し透かしが入っていて、そこまで重苦しくなく日焼け防止にもなる。
「すみません、やっぱり少し恥ずかしくて」
「うーん、可愛いけど……男子には当日、お楽しみにって言っちゃったのになあ」
「そんな期待させるようなこと、言わないでください……」
「なに、瀬那もなの?」
着替えた新島さんが背後から声を掛ける。振り返ると彼女の後ろに、包帯をぐるぐるに巻いて顔が球体になった女の子が覚束ない足取りでこちらへ向かってきた。
「むぐぐ」
「気づいたら双葉、これだったのよね……」
「むー」
右手の親指を力強く立てているが、何がどういう意味でのサインなのかさっぱりだ。暁くんたちを待たせてしまっているので、とりあえずこのまま連れて行かれた。
人目に慣れている高巻さんと新島さんは躊躇うことなく、陽の下に出ていく。坂本くんの笑い声が聞こえるが、多分感想を言っているに違いない。どうしよう、変に緊張してくる。躊躇っていると後ろから双葉ちゃんに押されてしまった。
「きゃっ」
「むぐむぐむぐぐう」
「はあ!?」
その異様さに坂本くんが声を上げ、固まってしまった。前が見えないため、ふらふらと両手を伸ばして進んでいく。危なっかしいにも程がある。坂本くんの肩に腕を乗せて、高巻さんが呆れていた。
「あらら、瀬那大丈夫?」
「……はい」
「もう、全然完璧じゃないわ。ちょっとじっとしてて」
明後日の方向へ行ってしまいそうな双葉ちゃんを捕まえて、新島さんが包帯を丁寧に取り去った。明るい長い髪が露わになる。
「うん、これでよし」
不安気に俯いて辺りを見回す。人混みはまだ怖いのだろうか。しかし、目の前で微笑む暁くんを見つけると、その表情も一瞬で和らぐ。彼がいれば本当にもう大丈夫だ。わたしが居なくなっても、何も心配することはない。胸に過るのは安堵だ、それ以外考えられない。
「――瀬那?」
「は、い……? ……皆さんは?」
「ぼーっとしてたから、置いて行かれた」
気づけば周りにいたはずの皆はおらず、暁くんがわたしの顔を覗き込んでいた。ガラス越しではない、深い黒の瞳がわたしを映している。咄嗟に視線を下へとずらすが、何も身に着けていない上半身が情報として入ってきてしまい混乱してしまった。ここは海だ。水着を着ているのだから上半身裸なのも、伊達眼鏡をつけていないことも、落ち着いて考えればごく当たり前のこと。なのに、頬に熱が集まる。動悸が速すぎて、倒れそうだ。両手で羽織ものの胸の部分を押さえていないと、暁くんに聞こえてしまうかもしれない。
「これ、あげる」
「っ!?」
彼が持っていた何かを額に付けられ、勢いのままそれを受け取る。まだ冷たい赤い缶ジュースがわたしの手の中に収まっていた。
「顔、赤いから。熱中症予防」
「……ありがとう、ござます。本当……暑い……」
もう一度額に缶を当てて、視線を遮る。太陽のせいにして上手く誤魔化せただろうか。この冷たさだけでは、全然足りない。あっという間に温くなってしまいそうだった。
あとをついて、たどり着いた場所には既にビーチチェアやパラソルなどは設置されており、荷物を置いて海に入る準備は万端だった。
「よっしゃあ、海入んぞー!」
「あー待て、りゅーじ!」
「ちゃんと準備運動しなさいよ!」
大きな声で砂浜を走り抜けていく。日陰になったビーチチェアに腰掛けて見送っていると、指で額縁を作りわたしを覗いていたらしい喜多川くんが、勘づいて腕を下ろした。
「瀬那は行かないのか?」
「わたし、泳げないんです」
「ウソ!? ごめん……何も訊かないで誘っちゃって」
言う機会を逃したのはわたしの方だ。海に誘われた時点で言うべきだった。高巻さんのせいではないと、落ち込む彼女に伝えるべき言葉を一瞬呑み込む。昨日、暁くんに言われたことを思い出したから。
「いえ……見てるだけで楽しいです」
「……ホント? それならよかった」
ほっと胸を撫でおろしてくれた。上手く返答できたと思っていいだろう。どちらにせよ、荷物を見ている人間が必要だ。モルガナだけでも問題はなさそうだが、わたしも一緒に残ると告げる。喜多川くんと高巻さんがありがとう、と言って海へ向かった。が、途中でこちらを向いて暁くんを呼んでいる。
「双葉ちゃん、見ててあげてくださいね」
「うん。モルガナ、瀬那のこと頼んだ」
「まかせとけ!」
海に入ってしまえばわたしは双葉ちゃんの側にいられない。何もないとは思うが、一応暁くんへお願いすると、水着のポケットから手を出しモルガナを撫でてから皆の元に駆けて行った。
都会の喧騒とはまた違う騒がしさ。生ぬるい風も潮の独特の匂いのせいか、そこまで不快ではない。周囲の観察もそこそこに、横になってしまうと自然と瞼が下がるものだ。荷物はモルガナが見ている、と言ってくれたのでお言葉に甘えた。
唐突に、ビーチチェアが軋む。誰かが同じ椅子に座った、声もかけずに……誰? 日向との影の差が大きく、眩しくて中々目が開けられない。
「ねえ、一人で何してんの? 置いてかれたの?」
聞いたことのない声。ぼんやりとしていた体格のいい輪郭が、徐々にはっきりしていく。目の前に居るのは、知らない男の人だった。
「……誰かと間違っていませんか?」
「面白いこと言うね。せっかく海に来たってのに、一人で寝てるからさ。どうせなら俺と一緒に遊ばない?」
「一緒に来てる人、居ますので」
「でもハブられてんでしょ? 何考えてんだろうね。こんな可愛い子を置いてくなんてさ」
男の手がわたしの髪を一房掴み梳いていく。自分が自分ではなくなり、俯瞰していく感覚。随分と久しぶりだ。わたしの話などまるで聞いてはくれない。置いていかれたわけではないのに。空いた男の手が今度は大腿に触れようと手を伸ばす。しかし、一歩手前でわたしの腹部に飛び乗ってきた黒猫が毛を逆立てて威嚇し始めた。
「セナに触んじゃねー!」
「な、なんだ危ねーな」
「モルガナ、落ち着いて」
怪我をさせてしまっては、モルガナが悪いことになってしまう。気を悪くした男からも何かされないように、小さな身体を両手で抱き上げた。悪態をつきつつ、めげない男はわたしの手を掴んで無理やり起こす。そのせいでモルガナは地面に落としてしまうが、華麗に着地をきめたのが見えて安堵した。
「ご主人さま、ちょっと貸してくれよな。俺が楽しいこと教えてやるから」
「いえ、わたし……」
「おい! 離せっ――」
「――連れに何か用ですか」
誰かがわたしを掴んでいた男の手を掴む。驚愕し、男はわたしを離した。その隙に間に入ったのは何度も見慣れた背。
「連れに、何か?」
鋭い声が男を貫く。突然現れた第三者に面倒ごとになりそうな予感がしたのか、男はそそくさと何も言わずに去ってった。同性相手には強く出ることが出来ないなんて、多分年上なのに呆れてしまう。
「大丈夫……?」
「はい、大丈夫です、暁くん」
わたしをビーチチェアに座らせて、暁くんは目の前に屈み目線を合わせた。髪から雫が滴り、息も上がっている。海からはそこまで近い距離ではないのに、見ていてくれたのだろうか。惣治郎さんとの約束を律儀に守ってくれていた。なんだかむず痒い。不満げなのはモルガナだった、ゆっくりとした足取りで隣に戻ってくる。
「全く、おいしいところばっかり持っていきやがって」
「モルガナも、ありがとう」
「気にすんな」
誇らしげにモルガナが鼻を鳴らす。微笑ましい姿に二人で笑ってしまった。手を伸ばして持参したタオルを取りだし、暁くんの頭に乗せて、目に入りそうな海水を代わりに拭う。肌ざわりを気に入ってくれたのが、頬を摺り寄せてじっとされるがままだ。拭いている最中に閉じていた瞳が開き細められた。
「ありがとう」
「いえ……こちらこそ、ありがとうございます」
時刻はもうすぐ昼だ。まだまだ気温は上がるのに……本当に暑さで倒れてしまうかもしれない。
(2019/6/1)
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