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「よお、おかえり」

シルバーのキャリーケースを引いて暁くんが修学旅行から帰ってきた。六日ぶりにルブランにいつもの顔ぶれが揃う。カウンターの椅子に背もたれを向けてモルガナが乗り、ボックス席で両膝を抱えて座る双葉ちゃんと向き合っている。

「これ」

「ハワイの豆か、わざわざすまんな」

「キーホルダーとチョコ……、ベタなものを」

早々にお土産を渡されて、嬉しそうな惣治郎さんと相反するように双葉ちゃんの口調はとげとげしかったが口元は弛んでいた。

「ちょっと焼けたな?」

「杏に日焼け止め借りたんですけど……」

「どうだった? ハワイ」

「面白かったよ。海が綺麗だった」

回答が済む前に次々と問われ、顔を左右に振る。まだ日がある午後だというのに、その顔には疲れが見えた。日本とハワイの時差は十九時間、それに加えて長時間移動だ、しようがない。

「オマエらが遊んでる間に、厄介なことになってるぜ」

惣治郎さんが指したのは備えつけのテレビだ。メジエドの件が少し落ち着いたと思っていた次の話題はこれだった。

『……な売れ筋の商品が、『マスク』や『予告状カード』らしいんだって? こちら、グッズを取り扱っているお店の収益をグラフ化したものです』

『去年の倍!? これはもう、怪盗特需だよね』

批判的だったテレビの中の人たちが世の中に合わせて盛り上がっている。喜多川くんがデザインした怪盗団のシンボルを真似た物が多数製造され売られているようだ。双葉ちゃんもこれには驚いていた。

「こんなの売ってたんだ」

「うちでもやってみる? 怪盗グッズ」

怪盗カレーとか、と言ったはいいものの、娘から冷たい視線を向けられて、冗談だよ、とバツが悪そうに頭を掻く。

「泥棒が警察や政治家を押しのけて大人気か。世も末だな」

そそくさと逃げるように惣治郎さんは奥の流し台へと隠れた。暁くんは立ったままテレビを見つめている。その瞳に映っているのは、名探偵と呼ばれている人だ。

『巷のこの現象を、出演者のみなさんは、どのようにとらえているのでしょうか?』

『明智くん、どうかな?』

『そうですね……、彼らには、いわゆる義賊っぽさ、それを感じるんです。大衆が無言のうちに感じた鬱憤を、彼らが巧みに汲み取って、晴らしている。それが人気の秘訣なんじゃないかと』

彼は簡単に言うと敵対関係だったはずなのに、肯定的な意見だ。何か思うところがあったのだろうか。司会も同じことを思ったらしい。

『意外だね、前と言ってることが変わったけど?』

『危険な存在であることは変わりありません。でも……いやこれ以上言うと……』

『いいよ、言っちゃおう』

『ダメですって、乗せられませんよ? 前の炎上で懲りてるんで……』

当たり障りのない笑顔で執拗な追及を躱し、時間がきたのか司会は次の話題へと進行し始めた。テレビへの関心を失くした双葉ちゃんが暁くんへと進言する。

「解析、終わってる……例のデータ。これから集まる?」

しかし、先ほど真面目な顔でテレビを観ていた彼はもういなかった。欠伸をし、今にも瞼が閉じられてしまいそうで、船を漕いでいる。

「時差ボケかよ。なら、明日」

じゃあな、と言って、モルガナをひと撫でし双葉ちゃんは帰宅した。客もおらず、二階に寝泊りしている部屋主に配慮してか、早々にわたしに戸の看板を返すように指示し、惣治郎さんは店じまいをはじめた。通りがけに通路に立ったままの暁くんに声を掛ける。

「明日、学校あるんですよね? もう休んだ方がいいですよ」

「……惣治郎さん帰ったら、ちょっと上に来て」

キャリーケースを持って、暁くんは二階へ行ってしまった。黒猫も後を追う。惣治郎さんがいると不都合があるのだろうか。用があるので残ることを告げ、困った顔で遅くならないようにと頭を撫でる惣治郎さんを見送った。エプロンを外し、制服のシャツとネクタイを整えて二階へ上がった。
階段すぐの机でモルガナが丸まっている。やはりこの部屋は落ち着くのだろう。開かれたキャリーケースが床に置かれ、近くのソファに暁くんが腰掛け目を閉じていた。眠ってしまったのなら、声を掛けないほうがいいかもしれない。階段を上りきり一歩踏み出したとき、ぎしっと家鳴りがした。ゆっくりと暁くんが瞼を開ける。

「ごめんなさい、起こしてしまいました?」

「いや、大丈夫。起きてた」

隣に腰を下ろすと、彼は大きく伸びをしたあとにキャリーケースの一番上に乗っていた紙袋を差し出した。

「これ、皆から瀬那にお土産」

「ありがとうございます、あとでお礼言っておきますね」

「うん」

チョコレートの箱と丸いリップクリーム、海が描かれた小さなキャンパスが入っていた。わざわざ買ってきてくれていたことが嬉しい。もしかしたら、海の絵は喜多川くんが描いてくれたものかもしれない。寝ずに待っていてくれた暁くんにも感謝しなくては。口を開こうとしたとき、目の前に光る物が揺れていることに気づいた。銀の小さなリングがチェーンに通され、暁くんの大きな手がそれを持っている。

「……これは?」

「これは、俺から」

「暁くんから?」

先ほど貰ったばかりの紙袋に視線を移す。皆から、と言っていたのだから、彼も入っているのではないのか。

「こっちは、俺個人の」

「そんな、高価なもの……だって、これ」

「いや、そんなに高いものじゃないよ。瀬那に似合うと思ったから、貰ってくれたら嬉しい」

どうみてもネックレスだ。観光地のアクセサリーなんて、安くは買えないと思う。でも、わたしのために選んでくれたものを無下に断ることはできなかった。

「付けてもいい?」

「……自分で付けられます」

「俺がやりたいんだ」

返事を聞く前に、ネックレスの金具を外した彼の手がわたしの顔を横切っていく。髪と首の間を通り抜けて、目の前に暁くんの制服の白で視界が埋められた。どこを見ていればいいのかわからない。頭上から落ち着いた声が降ってくる。

「ムーブリングって言うんだ。模様に意味があって、この花はプルメリア、幸せを願って送る花って言ってた」

可愛い名前の花だ、と思った。同時に、重たい意味だった。

「……出来た」

首元に輝くリングには花ともう一つ模様があるように見えた。不規則に線が描かれている。丸まっているものと、波打っているもの……海の波か、これは何を意味するのだろう。暁くんは説明してはくれないが、きっとわたしを心配してくれているに違いない。自惚れかもしれないが、それだけで充分だ。充分、幸せだ。リングを強く握りしめて、その想いを噛みしめる。

「暁くん……ありがとう」

不意に額に柔らかい何かが触れ、視線を上げると、目の前に暁くんの顔があった。呆然としながら数度の瞬きの後、何かに気づいたように口元を手で隠す。

「――っ!?」

「……どうかしました?」

「いや、何も、ない」

「顔真っ赤ですけど……」

「あんま……見ないで」

はあ、と大きなため息をつきながら、わたしの肩に頭を乗せた。癖の強い髪に手を添えてみる。滑らかさがあるモルガナとは違い、意外にふわふわしている。

「もう休んだ方がいいんじゃないですか?」

「うん……」

「そういえば、写真、送ってくださってありがとうございました」

「綺麗だったから、瀬那にも見せたかったんだ」

「そうですね、とても、綺麗でした」

結局メッセージには返信することができなかった。暁くんは何も言ってはこなかったので、お礼だけを伝えて終わらせる。わたしにとっては有難いことだったが、優しさに甘えて打算的な話だ。心配と申し訳なさ、どちらが勝っていたのか。先日、彼にしてもらったように軽く頭を撫でる。あのとき、わたしは安心して眠れたから。心地よさを分けられたらいい。本当に寝てしまいそうだから、と暫くののち言われ、帰ることになった。また明朝に会う約束をして。
猶予している場合ではなかった。何故なら、また被害者が出たから。秀尽学園高校の校長が、警察署の前で車の前に飛び込んだらしい。若葉さんの件に似ている気がした。となれば、黒い服の大人たちの仕業、と考えるのが妥当だ。では何故殺されなければならなかったのか。ニュースの通り、鴨志田事件を学園絡みで隠ぺいしていたことと関係があるのか。問題になって損をする人間が他にいる、ということなのは確かだ。インターネットで予定を確認し、いつでも行動できるようUSBとキーピックを制服に忍び込ませておく。例え失敗したとしても、わたし一人が犠牲になるなら何も問題はない。
(2019/7/28)

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