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養父、獅童正義の家に連れて行かれて数日。わたしは例の自室に入れられたまま養父に会うことなく過ごしていた。多分選挙活動で忙しく、わたしに構う暇がないのだろう。処分は終わってからでも出来る、そう養父なら考えそうだ。自室は明智くんと鉢合わせたときのまま、薄暗く、埃っぽく、誰も足を踏み入れていない状態。ということは、わたしがベッドマットレスの下に隠したキーピックとUSBも、そのままだということだ。廊下へ続く扉は、鍵がかかっているのは確認している。あとは外に見張りがいないことを祈るのみ。養父はわたしが逃げ出すなんて考えてもいないと思う。従順な人形はそんなことをしないのだから。
今日も選挙活動で養父と秘書たちは出かけていくのが聞こえる。扉に耳を当てて、外の様子を伺ってみると人の気配は感じられない。屋内は手薄になっているらしい。連れてこられて数日、選挙まで時間がない。USBを届けられても、怪盗団が捕まってしまっては意味がない。

「……今しかない、か」

引き出しにしまってあったお金とマットレスの下から取り出したUSBはポケットへ、キーピックを慎重に使用し扉の鍵を開ける。カチンと気持ちのいい音がして、わたしは外の光に目を細めた。予想通り部屋の前にも廊下にも見張りのような人はおらず、難なく屋外へ出ることが出来た。目指すはルブラン、暁くんのところ。拒絶されるかもしれないけれど、もう恐れている場合ではない。全てを告白し、USBを渡さなければ。
その前に念には念を入れて洋服屋へ足を運ぶ。通常よりも高めの声で来店を歓迎する店員に欲しい服装の印象を伝え、試着した。黒いブーツと膝上の靴下、短パンに白いシャツと緑のコート、髪は纏めて帽子の中に仕舞う。これで髪以外は双葉ちゃんだ。背格好が似ているため隠れ蓑には丁度いい。露出が多めなのが気になるが、そんなことは気にしていられない。着ていた服は包んでもらって途中の駅のロッカーへ。そしてわたしは人目を気にしながらもルブランへ走った。




ルブランでは惣治郎さんが新聞を読んで暇を持て余しているようだった。本当ならすぐにでも店内に入って声を掛けたい。しかしぐっと堪えて見つからないように店の前を足早に通り過ぎる。暁くんでなければ意味がないのだ。近くの路地で身を隠し、彼が帰ってくるまで息を潜める。携帯がないため連絡がとれないし、時間もわからない。とにかく目的を果たす前に見つかることだけは避けなければ。
日は沈みかけて惣治郎さんもお店を閉め、こどもの帰路に着く声が聞こえるようになった頃、見覚えのある背中がルブランの扉の前に立った。その瞬間、自分がどれだけ暁くんに会いたかったのか思い知った。何も考えずにただ駆け寄り、背中に抱き着くだなんて想像もしていなかったのだ。

「っ何だ!?」

「ジョーカー、ヒトだ、女の子だ! フタバみたいな恰好だけど……フタバじゃないぞ!」

慌てふためく一人と一匹の声に安堵しつつも、早く人目につかないところへ誘導するため、わたしは声を発する。

「暁くん、瀬那です。お願い、中に入れて」

「……瀬那?」

少しだけ帽子の鍔を上げて見上げると、暁くんが背負った学生鞄から覗いたモルガナの青い瞳と目が合った。

「セナ、本当にセナなんだな」

「少し事情があって――」

わたしが説明をしている途中にルブランの扉が開かれ、勢いよく閉められたせいでベルが静かな店内に鳴り響いた。中に導くために強く引かれた腕はすぐに放され、そのまま暁くんの腕の中に閉じ込められる。きつく抱きしめられ仰け反ったことで、被っていた帽子は落ちて、長い髪が顕わになった。久しぶりの体温、懐かしい匂い、安心する声。喉の奥がぎゅっとなって、思わず彼の背に手を回し、肩口に顔を埋めた。

「勝手に居なくなって……ごめんなさい」

「いいんだ、無事でよかった」

「アパートの部屋も携帯ももうないんです、明智くんの監視もあって中々ここには来られませんでした」

「やっぱり明智が犯人なのか」

腕の力を緩め、わたしの顔を覗き込んだ彼は確信を持っているようだった。既に何かの情報を掴んでいるのかもしれない。頷くと、そうか、と少しだけ寂しげに呟いた。いつの間にか鞄から出ていたモルガナがカウンターの椅子に座るように促したので、その言葉に甘える。見届けたモルガナは階段の上へ消えて行った。

「でも明智くんは実行犯に過ぎません。他に指示を出している黒幕がいます」

上着の長い袖を握りしめた。やはりこの人物の名を口にするのは勇気がいる。俯き目を閉じて、決心を固めてから暁都くんと目を合わせると、動揺のひとつもしていなかった。先ほどの明智くんの名前を出したときと同じ。

「もしかして、獅童正義?」

「やっぱり……全部、知っていたのですね。わたしのことも」

「瀬那の、こと……」

無意識だと思われるが軽く視線を逸らされ、ああ、全部知られてしまったのだと理解した。流石は双葉ちゃんだと感心してしまう。しかし、本当は知られたくなかった。わたしの養父が暁くんを貶めたのだと、わたしが以前から知らないふりをしていたことも。だけれど、もう隠している意味はない。それはただのわたしの我欲だ。

「わたしは獅童瀬那、獅童正義はわたしの養父です。御守という姓は孤児院の施設長のもの……。ずっと騙していてごめんなさい、わたしはあなたに優しくしてもらう権利なんてなかったんです」

決心を鈍らせないため一気に捲し立てる。反論も拒否も肯定ですら、返ってくる全ての反応が恐ろしい。重い空気の中、席を立ち、当初の目的のUSBをカウンターに置いた。あまりのんびりしている時間はない。家から抜け出したことを知られても構わないが、ルブランを訪れたことを知られるのは避けたかった。

「それは?」

「双葉ちゃんに渡してください。怪盗団のお役に立てればいいのですけど……」

「わかった。それより、どこに行く?」

「怪しまれる前に家に戻ります」

相変わらず暁くんは通路に佇んだままで、わたしが扉に向かうのを阻止していた。開いていた距離が一歩、また一歩と近くなり、それでも彼は微動だにしなかった。

「戻る必要なんてない、瀬那もここにいればいい」

そうすることが出来ればどれだけいいか。家に戻ったあとに何があるかなんて知れている。それでもわたしは暁くんに甘えることは出来ない。甘えてはいけない。彼らが、捕まるようなことをしてはいけない。

「いいえ、わたしは戻ります。これ以上暁くんに迷惑はかけられません。それに明智くんの立場も悪くなってしまうから」

「迷惑なんて思ってない! それに、どうして明智を庇う?」

夢を、見たから。真っ向から信じているわけではないけれど、妙に現実味を帯びていた、暁くんと明智くんが……傷つく夢。あんな最悪な事態は起こしたくない。

「そうではないのです……。わたしは、明智くんから居場所を奪ったから……わたしがあの人にされることは全部わたしの罪なのです」

「罪って……だからって何をされてもいいわけじゃない」

暁くんの口ぶりから、わたしが何をされていたのか、察しているようだった。

「それだけじゃありません。下手をすれば明智くんも殺されてしまうから……だからお願いです、わたしではなく、明智くんを助けてください」

復讐のためにだけ生きてきた彼を、暁くんたちとのことを楽しそうに話す彼を。あの人の呪縛から解き放てるのは、きっと暁くんだけだ。そっと暁くんの手を取り、両手で握りしめる。わたしを見下ろす顔は苦虫を噛み潰したようなものだった。

「わたしは本当は知っていました。知っていて見ないふりをして、全て言われるがまま流されて生きて行けば苦しむことなんてないと信じていたのです。でもそれこそが罪でした、怪盗団に裁かれるべきなのはわたし……」

「そんなことない、瀬那だって自分勝手な大人たちに苦しめられていたじゃないか」

「わたしの苦しみなんて……自分の利益を取って望んで飛び込んだものです」

孤児院の生活から抜け出すため、その後も暮らしに困らない生活を続けて行くため。浅はかな行為そのもの。

「瀬那、獅童正義はこのまま全ての罪を怪盗団に着せて、自分たちは国を乗っ取るつもりだ」

「次の本当の狙いは、新島検事ではなく獅童正義なのでしょう?」

「だからだ。怪盗団と繋がりを持ってたなんて知られたら……」

「わたしには祈ることしかできませんが、どうか気を付けてください。あと、これを」

暁くんの言葉を遮り、離した手を自分の首の後ろへと回す。容易に外せた金具を止め直し、再び円に戻ったペンダントを暁くんの手のひらに乗せた。

「お返しします。きっと持っていても捨てられてしまうから」

「……預かっておく」

頭を振って精一杯微笑む。

「たぶん、もう会えません。今までありがとうございました」

引き止められないと悟ったのか簡単に彼の横を通り抜け、ルブランの扉の前に立つ。ここはいい思い出がたくさんあって離れがたい。最期に惣治郎さんや双葉ちゃんにも会いたかった。暁くんに会えたのだから我儘をいってはいけない。わたしにとって特別で、大切な人。振り向くも、彼は扉に背を向けたまま、顔を見ることは叶わない。でもその方がよかったのかもしれない、決心が鈍ってしまうのは嫌だった。

「暁くんに出会えて……わたしは、幸せでした」

その言葉を残して、ルブランから静かに出て行った。




帰路に着く前にロッカーから服を取りだしトイレで着替える。視界が滲まなかったことに安堵し、着ていた服は畳んでゴミ箱へ捨てた。渋谷から歩いて帰るために駅を出たとき、肩を力強く掴まれ、痛みで顔が歪む。

「見つけました、はい、渋谷駅です、はい」

わたしに声を掛けることもなく携帯で誰かに報告をするのは、獅童についている黒服の秘書だ。有無を言わさず車に連れ込まれる。正直歩いて帰ることにならなくてよかった。大丈夫、覚悟は出来ている。

「こちらで大人しく待っていてください」

家に着いて早々自室に戻され、椅子に座らされる。忠告の上、秘書がいなくならないということは、そういうことだ。廊下から数人の足音が聞こえ、扉の前で止まる。入ってきたのは一人の男。鋭い目つきに眼鏡をかけた髪のない頭でおよそ政治家には見えない風貌。これがわたしの養父である獅童正義だった。部屋に入ってきた勢いそのままに、わたしに近づき掌を振り下ろす。椅子から落ちた拍子に近くにあった机に額をぶつけ、頬に熱さと痛みが走った。頬を伝って床にぽたぽたと雫が落ち、以前の傷口が開いたのかもしれない、なんて冷静に赤い染みを眺める。

「抜け出してまで男にでも会いに行ったのか、この売女め」

髪を捕まれ、無理やり上を向かされる。そこには獅童の怒りに歪んだ顔があった。覚悟は出来ていたはずなのに、やはり身体が震える。口の中が血の味がした。

「人形のくせに私に歯向かうとどうなるのか、思い知るといい」

吐き捨てるように言うと、わたしは床に放り投げられ顔を擦る。立ち上がる気力は見せない方がいい。秘書の言う通り大人しく嵐が過ぎるのを待った。獅童はそれ以上何もすることなく、秘書と共に部屋を出ていく。久しぶりの痛みに身体を動かすのに時間がかかったが、何とかはいずりながらも引き出しからハンカチを取り出し、ベッドに横になる。埃っぽくても床よりはマシだ。額の傷口をハンカチで押さえて止血をする。今はまだわたしを消す時ではないらしい。その時までは夢を見るくらい構わないだろうか。ルブランにいた頃を思い出しながら、わたしはゆっくりと瞳を閉じた。
(2021/1/15)

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