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――お前を苦しめていた男は改心させられた

瀬那は考えた。誰のことだろうと。ぼんやりとした頭は簡単な答えさえ導き出すのに時間がかかった。

――しかし、更生は果たされない、間もなくお前の願いは叶うだろう

ふわふわと身体が浮いている。ここはどこなのだろう。あの低い男の声が聞こえるということは、今自分は夢を見ているのだろうかと、瀬那は思う。ゆっくりと思い瞼を開ける。すると、目の前には四角いブラウン管のテレビがあった。そこには渋谷のスクランブル交差点が映し出されており、たくさんの通行人がその画面に釘付けになっている。いったい何が始まるのだろう。身体を浮かせたまま、瀬那は画面の中の人たちと同じように画面の前に居座った。




スクランブル交差点の街頭モニターには獅童正義が後ろに取り巻きを引き連れて映っていた。その取り巻きが万歳を何度も繰り返しているところを見るに、選挙で圧勝したらしい。ハンドマイクを持った獅童が恭しく、今回の選挙は国民の皆さまのお陰だという定式的なことを話し始めた。通行人は獅童に決まって納得しかないようだ。選挙をやる意味までない、そんな言葉まで聞こえてきた。

「それだけに……それだけに私は、自分が許せないのです!」

獅童の表情が苦悶に変わる。いったいどうしたのかとも思ったが、これは改心の影響だ。先ほどの声の言っていることが本当ならば、怪盗団は獅童のオタカラを盗むことに成功したのだ。

「奥村氏が他界したのは……いや、氏を葬ったのは……私です」

控えていた取り巻きが慌てだす。それもそうだ、殺人の罪を告白し始めたのだから。獅童の告白は止まらない。

「一連のショッキングな事件を、怪盗団の仕業だと情報操作したのも、この私です。人の心を操作し、自分の手を汚さぬまま、多くの被害者を生み出していたのは……私なんです」

マイクには放送を切れ、演説を止めさせろ、と遠くから声が入っている。その慌ただしさと獅童の泣きそうな表情と、背景のパネルの赤い花との対比が滑稽で瀬那は少し笑ってしまった。本当に全ての罪を認める時が来たのだと。

「全ては私自身の出世……いや、私利私欲のためでした。全て告白します! みなさん、どうか私を裁いてください!」

食い気味に画面が、青空の澄んだ背景にしばらくお待ちください、の文字が書かれたものに切り替わった。それでももう遅い。獅童は罪人として裁かれることを望んだことが多くの国民に知れ渡ったのだ。これから平穏な時が訪れるのか、でも生活はどうなるのか。自分の置かれた状況がわからない今でも、瀬那はこの身可愛さで考えてしまう自分を嘲笑った。




ブラウン管のテレビが砂嵐になり、これで終わりかと思えば、画面は新しく何かを映し始めた。瀬那がよく見知ったそこはルブランだった。怪盗団の皆と、惣治郎、冴がルブランの一階のボックス席でグラスを片手に寄り合っている。何日会っていないのかよく覚えていないが、瀬那は無性に懐かしく感じた。

「いいか、議員バッジなんか二束三文だからな。文句は獅童に言え」

どうやら獅童のオタカラは議員バッジだったらしい。総理の座にしがみついていた人間には相応しいものかもしれない。あんなもので人の価値なんか変わらないというのに。馬鹿げている。

「じゃあ、諸悪の根源、獅童正義をついに……」

惣治郎の演説が続いていたが、双葉が唐突にそこに割り込む。

「お母さんの仇、とれた。みなさんの、おかげ、です。ありがと……うっ……うう……」

「私も、お父様の……無念を、晴らせました……」

楽し気な雰囲気から一変し、双葉と春が泣いている。獅童のせいで親を亡くしているのだから当たり前だった。隣に座る杏が春の背中を撫で慰めている。

「獅童は有罪なんでしょう、お姉ちゃん?」

「……今すぐ起訴するのは難しいわ。でも余罪の因果関係が立証できるまで、徹底的にやるから。きっと若葉さんの研究結果が、日本を救うことになる」

「なあ、こいつはもう学校行ってもいいんだよな?」

「ええ。関係者に顔は割れているけど、いきなり捕まえにくるような、強硬手段には出ないと思う。少なくとも、獅童の自白の混乱と自殺報道の騒ぎが収まるまではね」

「おかげで瀬那も病院に移せました」

「いずれ、私と貴方がやり玉に挙げられる事態は避けられないでしょうけど……」

そうか、今自分は入院しているのか。確かにあの大怪我では当たり前かと瀬那は思った。痛み止めで誤魔化しきれない痛みだったのだから。それなら、ここにいる自分は何なのだろう。やっぱりいつもの夢なのか。それにしてはテレビの中の映像はいやにリアルだった。
怪盗団の皆、惣治郎、暁……、あんなに会いたいと思っていたのに、今は会うのが怖かった。瀬那が自分から獅童の元へ戻ったこと、それで大怪我を負ったこと。全てがただ迷惑だったのではないかと考えたのだ。そして一番は獅童の養子だと知られたことで、きっと拒絶されると瀬那はわかっていた。
わかっていても……恐る恐る手を伸ばしてしまう。あの楽しかった日々に、仲間に自分も戻れるのではないかと、目の前にして錯覚してしまった。ブラウン管に触れるか触れないかの瞬間、画面が無常にも別の場所に切り替わり、瀬那は無意識にため息をついた。やはり戻るだなんて虫のいい話は無理なのだと思い知らされたかのようだった。




「まさか、獅童さんまで改心させられるなんて……」

唐突に聞こえたのは知らない男の戸惑う声だ。ブラウン管を見るとどこかの会議室でスーツの男二人と白衣の男が慌てている。

「今の私たちの地位があるのは彼に邪魔なヤツを消してもらったから……。このまま、もし立件でもされたら……私たちのことまで明るみに……」

白衣の男が俯いた。どうやら獅童の取り巻きらしい男たちは今後の動きについて相談しているらしい。そんなところを見せて何の意味があるのだろうか、瀬那は不思議に思う。

「新島って検事が、獅童さんの立件に本気らしいな!?」

「あなたの管轄でしょう? 何とかしてください!」

二人が一人のスーツの男を睨みつける。新島検事の上司にあたる人物なのだろう。男は静かに頷いた。

「ああ、新島は大丈夫だ。しかし大衆の方はどうする? あんな醜態を見せた後だぞ……!?」

「『富国』政策を引き継ぐしかないだろうな……」

もう一人のスーツの男……いつか瀬那はこの男を見たことがあった、議員バッジをつけていた気がする。その議員の男が呟いた。

「人の心を操って有利な外交を進めるという……犯罪国家創設の計画のことか……?」

「あの計画を引き継いで、邪魔者を『あの世界』を使って排除し続ける。表向きは『強い国』を創ると今まで通りに訴える。獅童さんへの期待を……我々で引き継ぐんだ」

獅童の計画に瀬那は驚愕した。まさか若葉さんの研究をこんな国を、果ては世界をも巻き込む犯罪に利用しようとするだなんて、と。思わず画面に触れた手に力がこもる。

「なるほど……でも大衆の騒ぎは、どう黙らせます?」

「幸い、獅童さんへの支持は健在だ。志半ばで倒れた英雄として、マスコミに発表しよう」

「指導者を失って混乱している大衆なら、一気に飛びつくかもしれない……」

白衣の男の問に議員の男が答える。その顔から少しずつ不安が消えていくように見えた。

「大衆まで敵に回したら……我々は終わりだ」

「もう引き返せない……というわけだな」

「皆、一蓮托生だからな? そのことを忘れるんじゃないぞ?」

三人の男たちが同時に頷いた。何なのだ、こんなものが本当に現実で行われているというのか。どうにもできない歯がゆさと、自分もそちら側だったのだという事実にジレンマが沸く。息苦しさに肩で呼吸をする瀬那に、またしてもブラウン管は違う映像を見せてきた。一つ前に聞いたのと同じ、懐かしい声が瀬那の耳に届く。このテレビはとても残酷だった。




場所はまたしてもルブラン。そこで春の怒声が響いていた。

「精神鑑定って、そんなわけないのに!」

「取り巻き連中が、周りに圧力かけたんだろ」

獅童の周囲をよく知るらしい惣治郎が渋い顔をしている。どうやら獅童に精神鑑定がかけられるようだ。それは時間稼ぎにも、結果次第では取り巻き側にいいように出来る。

「どうにかならないの?」

ボックス席で足を組み替えながら杏が問うと、一瞬の間の後、真が口を開く。

「獅童の責任を追及しろっていう世論が高まれば、立件できるかもって、お姉ちゃんが……」

「それも、メディアを使った情報操作でほぼ潰されたんだろう?」

暁の言葉に真は静かに目を閉じて俯いた。

「事件の主旨を『目に見えぬオカルト』と言い切って、『無かったんだ、惑わされるな』って印象操作……結果、この期に及んでも『怪盗は悪者』……」

「ネットを見ても、非難の嵐……残党を捕まえろ、処刑しろって……」

双葉は携帯の画面から目を離さずに指を走らせている。滅茶苦茶だよ、杏は吐き捨てた。

「どいつもこいつも簡単に騙されやがって! 何のために命賭けてきたんだよッ!」

「竜司の言う通りだ。このままでは認知を操って、国中意のままに動かせる……そんな事態になってしまうぞ」

「これじゃあ……パレスの中と何も変わらないわ」

徐々に真の顔が険しいものに変わっていった。怪盗団では変えられない現状にだんまりになる中、ルブランにドアベルが
音を立てる。テレビの視点が出入口を映すと、そこに立っていたのは新島検事だった。

「……ごめんなさい。有志の精鋭を集めて立件に取り組んだんだけれど……捻り潰された。このままじゃ、獅童の無罪だけじゃすまない。悪い方向にどこまでも転がり落ちるわ……。異世界を利用した犯罪が国家レベルで継続される可能性がある」

いつもの覇気が感じられない。前にテレビが映していた新島検事の上司が何か行動を起こしたのだと瀬那は知っていた。敵が身内にいるのならば、それが自分よりも上の立場の人間なら、動きようがない。それが国というものだ。

「いえ、伝えたいのは、事実を知る私たちの身が危険だってこと。正直、拘束は時間の問題よ」

ありえねえよ……、竜司の呟きは儚く消えていく。他の怪盗団も俯いて言葉は続かない。しかし、新島検事だけはまだ何か策があるようだった。

「私たちの力では、もう、どうにも……。だから……貴方たちの力を借りられないかと思って。言えた義理じゃないのはわかってる」

「そんなの!」

杏が新島検事の言葉をすぐさま否定する。怪盗団に向き直ると、取り巻きを一人ずつ改心させていく提案をするも、双葉が調査するにも時間がかかりすぎると真に言われてしまう。

「しょせん個人を狙う俺たちでは、国家権力に歯向かうのは無理なのか……?」

落ち込む祐介に回りも言葉に詰まった。案は何かないものか、腕を組んで考えるも何も浮かばさそうだ。もうこのまま、獅童の思うままの世界が作られるしかないのか、そう瀬那は思った。その時静かになったルブランに、メメントスだ、というハチワレの猫の泣き声が響いた。

「メメントスを使えば、何とかなるかもしれない」

今まで黙っていたモルガナの提案に、皆ぱっとしない表情をしている。瀬那も何故メメントスなのか、すぐには理解できずにいた。

「いいか、メメントスは『大衆のパレス』だ。ニンゲンの『集合的無意識』が持つパレス……全ての歪みの源でもある」

「もしかして……メメントスにも『オタカラ』があるっていうの!?」

「マコトの考えてる通りだ。メメントスが崩壊すれば、大衆みんなに影響が及ぶはずだ……世の中の情勢だって変わるだろう。みんなの心が『シドーを許さない』となりゃ、良い方向に動き出すんじゃないか?」

「大胆だが、面白い案だ」

「……けどな。こいつをやるなら、ひとつ覚悟をしてもらう必要がある」

頷く祐介に対して、モルガナは一層緊張感を漂わせる。民衆の心の変化を求めるために民衆のパレスから『オタカラ』を盗むというのは分かった。『オタカラ』を盗まれたパレスはどうなる? それが覚悟、ということなのか。瀬那にはわからなかった。

「そもそも何故、人間の認知なんてもんが、実体ある別世界として存在しちまってるのか。メメントスには、そうなった原因が多分眠ってる。……そいつを壊すことになるんだぜ?」

「……ハナシが見えねーぞ?」

「実体が無くなんだから、忍び込んでオタカラぶっこ抜いたり出来なくなるって事だよ! もう悪党がいても力づくで改心させたりは出来ない」

一呼吸置いて、モルガナはぽつりと告げた。

「『怪盗団』は……店じまいって事だ」

皆に驚きと戸惑いの表情が広がった。獅童を断罪するには怪盗団を捨てなければならない。今の自分たちがいるのは怪盗の力のお陰である彼らにとって、それは悩ましい選択肢だろう。理不尽な理由で他人を虐げる大人を倒す力がなくなってしまえば、あとは現実の力のみで戦っていくしかない。こんな子どものちっぽけな力で一体何が出来るのか。

「それでも……やるべきだって思うのが怪盗団、ですよね?」

瀬那は無意識に呟いていた。指でなぞるのは暁の姿。こんなところで逃げては怪盗団の存在意義を失くしてしまう。その独白に合わせるように、暁は皆を見回して笑うのだった。

「わかった……やるしかない、だろう?」

その言葉に瀬那は無性に泣きたくなった。会いたいその姿を眺めて、拒絶されることを恐れて会いたくなくて。それでも何を考えているのか、何となく予想できてしまうことが嬉しいのか苦しいのか、息ができなくなる。矛盾が瀬那の思考をぐちゃぐちゃにしていく。

「こんな気持ち、いらなかった……、ずっと誰かに任せていれば……よかった」

一時の感情かわからない瀬那の声は闇に溶けて光を放ちだす。眩しさで手で遮ると、向こう側に金色に輝くものが見えた。徐々に大きくなるそれは、大きな、とても大きな、ビルくらいの大きさの黄金の杯だった。
(2021/9/23)

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