一時の逃避行
穏やかな春の陽射しとは相反し、険しげな面持ちの女が、縁側に一人。
その手にあるのは朱色の書物。
慰み物としてはやけに厚く、それ故か女の顔は至極厳しげな色を滲ませている。
傍から見ても声をかけてくれるなとばかりの空気をまとう彼女に、それでも声をかけた者がいた。
「エナガ殿。」
呼びかけるも、案の定、返事はない。
それでも諦めずにもう二、三度声をかけると、エナガはやっと顔を書物から話して声の主を見上げた。
「幸村さん?どうかしたんですか?」
「いえ、どうというわけではありませんが…その、何かなければ声をかけてはいけなかったのでしょうか?」
「え、あ、いや、そういうわけじゃなくて…。」
エナガが集中して何かをしている時、いつもなら幸村はそれを妨げるようなことをしない。
それが今日はどういうわけだか違う。
そのことでエナガは不思議に思っただけなのだが、当の幸村はというと、エナガの返す言葉の歯切れの悪さに今度は逆に彼の方がやや戸惑うような態をみせた。
「すみません。少し嫌な言葉を返してしまったでしょうか?」
「え、何で?別に何かがなくても問題ないですよ。ただ、いつも私が勉強している時、幸村さん、私の区切りがつくまで声をかけたりしなかったから。」
「ああ、そうでしたね。」
「だから今日は何か大変な問題があったのかって。」
「問題はありません…が、そうですね、気になることはあります。」
「気になること?」
それはある意味問題があるということではないのだろうか。
エナガの不安げな面持ちに、幸村はやや言いよどむも、逡巡の末にエナガの様子を伺いながら口をゆっくり開いた。
「ここ最近、エナガ殿のお顔が優れないようでしたので。」
「私?体調は別に悪くないですよ。」
「その、体というよりも……。」
「あ、あー。そういうことかぁ。」
思い当たる節はある。
それも、かなり。
原因は今もエナガが手に持って離さないこの分厚い書物。
身なりでは分からないものの、エナガはこの世界の住人でない。
何の因果があったのか幸村とは異なる世界からやってきた異邦人である。
とはいえ、住む国土はどうやら似たような環境らしく、幸いにも見た目に差異はない。
問題があると言えば、生きていた時間軸、時代がエナガ進んでいるということだろうか。
エナガの世界において、彼女の社会的立場は学生、それも受験生。
幸村の世界にエナガが迷い込んだのは、エナガが高校2年の秋、塾の帰りのことだった。
最低限必要な受験道具を持っていたのは、幸いなのか不幸なのか。
所持しているからには嫌がおうでも見ないわけにはいかないし、かといって紙や筆記具等有限な資源は無駄に使えない。
しかし、その有限な資源を使わず、ただ黙読するだけの勉強は、いずれ限界がくる。
今は春。
受験は冬といえども受験生にとっては既に本試験まで1年をきっている。
焦らないわけがない。
いつ帰ることができるのかも分からない、帰れたところで他の受験生に追いつけるかも分からない。
先の見えないことだらけの状況の中、悲壮感と危機感が表情に現れていてもおかしくはなかった。
困ったようにエナガが笑うと、幸村の表情は曇るばかりだった。
「勉学を放棄しろとは言いません。ですがたまには息抜きも必要だと私は思います。」
「そこまで煮詰めているように見えた?」
「ええ、私だけではなく兼続殿や三成殿も心配されていましたよ。三成殿は『引き籠っているから気が滅入るのだ。引きずり出せば少しは良い刺激にもなるだろう』と。」
「三成さんに言われるなんて、私、相当だね…。」
「そう思うのでしたら、早速気晴らしにどこか私と出かけませんか?」
幸村の提案にエナガは躊躇いを残しつつも、頷いた。
胸にずっと渦巻いている不安は、消えるどころか日に日に肥大化している。
それでも、一時くらいはそれを見ぬふりしても罰は当たらないだろう。
視線を向けた先に見える幸村の微笑が、不思議とエナガを少しばかり前向きな気持ちにさせた。
縋るように恐る恐る幸村へと手を伸ばせば、期待を裏切ることなくしっかりと握り返される。
大丈夫、私がついています。
声にはされずとも、ぎゅっと握られた手がエナガにそう告げていた。
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2017/4/30
休憩の無双ゆきさんバージョン。
ゆきさんには人を癒す力があると思う。
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