亡霊は消えた

 青い空が広がる、雲ひとつない暑いほどの晴天。
 街から眺められるエメラルドグリーンの海。
 一種のバカンスにきたような光景であるが、しかし、アンジェがそのような景色を眺めることは一度としてなかった。

「人の消えた都市で500年動き続けた人形か・・・・」

 病院の入り口の目の前の壁に背中を預け、アンジェが目を通しているのは今回、神田とアレンが行った任務の、彼らが初めに渡されていた資料である。
 岩と乾燥に囲まれたマテールという都市は、昔、『神に見離された地』と呼ばれる程に劣悪な環境の中で人々が生活していた。しかし、ある時、絶望に生きる民達はそれを忘れる為に、人形を造ったのだという。踊りを舞い、歌を奏でる快楽人形を。だが、結局人々は人形に飽き、外の世界へ移住してしまった。けれど、置いていかれた人形はそれでもなお動き続けたという。なんと、500年も一度も止まらずに。
 人形の心臓にイノセンスが使われていたというから、その現象も彼女たちからしたら何ら可笑しなことでも、有り得ない話でもないのだ。
 だから、そこで一々驚いたりしなかったものの、何度研究を重ねても全ては分かり切らないイノセンスに対し、本当に意味不明で何でも有りの結晶だなとアンジェは自身も適合して所持しているイノセンスのサーベルを見て内心呆れたように感心した。
 そして、次に神田が書いた報告書に目を通し、アンジェは彼らの今回の任務についての概要を把握しようとしたところで。
 しかし、それにしても―――と、彼らの任務とは別の事柄へと思考を向けようとして、アンジェは顔を上げた。

「でも治った」

 すると、丁度、神田が探索部隊のトマと病院から出てきたところで、アンジェは彼の身体から今回受けた傷が綺麗に完治しているのを確認し、目を通していた報告書や資料を重ねて片手で持ち、神田とトマが近づいてくるのを待った。
 神田とトマが近づいてくれば、元帥に対して会釈したトマとは違い、視線だけ寄越してきた神田にアンジェは同じように視線だけ向けて、そして、アンジェも神田とトマと共に歩き始めた。

「で―――何の用だ。イタ電なら切るぞ、コラ」

 電話している内容は、電話に出ている本人ではないアンジェにはわからない。
 しかし、電話にしろ会って話すにしろ、余計な話がひとつもふたつも多い室長、コムイの性格を理解しているが故に、今回もまた関係ない余計な話をダラダラさせられたのかとアンジェは神田に対して同情する。
 けれど、そんな事を歩きながら考えていたところ、まさか神田が手にしていた受話器を自分に差し出されるとは思ってもみなかったアンジェは僅かに受話器を手にする動きが遅れてしまった。

「あんたに変われって」

「・・・・ああ」

 トマが背負う通信機と一定距離の線で繋がった受話器。
 僅かな間を置いて神田からそれを受け取ったアンジェは、コムイに言われそうなことを予想しつつそれを耳に当て電話を変わった。
 「先にモヤシのとこ行ってる」と、アンジェがコムイとの電話を変われば早々に告げて離れて行った神田の背を眺めながら、アンジェは口を開く。

「全治5ヶ月を3日で完治させたんだ・・・・まだ平気だろ」

<<・・・・本当に、そうでしょうか?>>

「まあ、前に比べて少しずつやはり遅くなってきてはいるがな」

<<しかし、それはやっぱりガタがきてるってことでは・・・・>>

「・・・・ガタか。まあ、そう捉えられなくもないか」

 電話の向こうの声は真剣そのもの。まあ、話している内容的にも、笑える内容ではないことは確かではあるのだが。
 神田の傷の治り方について考えるアンジェは、確かに今までの治りの早さから考えればコムイのような捉え方も出来なくもないなと理解はできるのだが、しかし、どちらかというと分野的には“そちら”を専門分野としているアンジェからすれば、まだその捉え方をするには神田の現状では早いだろうと思えた。
 どちらかと言えば、彼には“ガタ”が来ているのではなく、”普通の人間“への道が少しずつ開けてきているのではないだろうかとアンジェは考える。が、その考えをアンジェは口にする事もなく、口元だけで笑い、適当に相槌を打った。

「で、どうする。このままアレンを連れて帰ればいいのか?」

<<そうですね、回収したイノセンスもありますし・・・・>>

「・・・・つっても、あいつはまだその都市にいるんだろ」

<<・・・・人形が3日、歌い続けてるそうです>>

「でも、人間の方はもう死んでんだろ」

<<でも、約束したみたいなんですよ。人形を止めるのは死んでしまった彼だって>>

「・・・・甘いな」

<<そうですね・・・・でも、いいじゃないですか>>

 「そういう子も必要ですよ」と言うコムイの言葉に対し、アンジェは鼻で笑うとさっさと受話器をトマの背負う通信機へと戻して通話を切った。
 そうして、アンジェが神田に少し遅れて無人の古代都市、マテールへと足を踏み入れると―――

「―――止まったか」

 それまで、都市に近づくにつれ僅かに聞こえてきていた小さな歌声が、風の音に掻き消されたかと思えば、次の瞬間にはもう聞こえなくなってしまった。
 その小さな変化に気づき、アンジェはイノセンスにより動き続けていた人形が、500年の時を経て漸く己が人形としての機能を停止させたのだと理解する。
 トマと共に人形の元へと向かえば、そこには、止まってしまった人形を抱いて涙を流すアレンの姿があり、アレンは涙ながらに「神田・・・・」と言葉を発していた。

「それでも僕は誰かを救える破壊者になりたいです」

 そうして―――マテールから帰る道中の汽車の中。
 アンジェは本を捲り文章を目で追いながら、マテールでアレンが言っていた言葉を思い出し考えていた。
 『救える破壊者』なんて、彼の言葉は矛盾している。しかし、それが彼の葛藤であり、まだ白黒付けきれない少年らしい考え方なのだろうとアンジェは目の前に座るアレンを静かに分析してみる。
 電話では、コムイは彼のような考えも必要だと話していた。それに対して、反論こそしようとは思わないにしろ、アンジェはそれもそれでどうなんだと内心で考えていた。
 彼女自身、深く彼らに干渉するつもりがない為、どうのこうのとご丁寧に全て言ってやるつもりはなかった。だから、今回でもそれ以上何を言う事もなかったアンジェだったが、内心では、今はまだそう言う年齢だからいいのだと言えど、アレン・ウォーカーのその考え方は黒の教団という場所には必要とされることがないのではないかと思わずにはいられなかった。
 アレン・ウォーカーの葛藤も、矛盾も、甘さも、中途半端な考え方も、確かにそれらは彼の良いところでもあるのだろう。しかし、そんな彼はきっと、このままでは教団内外において混乱と争いの元になりかねない。
 その可能性をコムイも誰も全く想定していないところを見るに、そういうところこそが一番の危険性なんじゃないかとアンジェは思うのだが―――

(まあ、教団がどうなろうと知ったことじゃないしな。)

 教団の未来なんて知ったことかと思っているアンジェが、今回のような教団に対して思ったことを口にするなんて、一生かかってもあるわけがなかった。

「あの・・・・」

 結局は誰に聞かせるでもない分析や考察へと意識を向けていたアンジェだったが、不意に目の前から声をかけられたことで思考を一旦止め、目の前に座るアレンへと視線を向ける。
 すると、おずおずとこちらへと視線を向けていたアレンと目があって、アンジェは一先ず大して真面目に読んでもいなかった本を閉じた。

「なんだ」

「あ、いえ、その・・・・少し、聞いてもいいですか?」

「・・・・質問にもよるが」

 答えたくない問いには答えないとアンジェが主張したことで、アレンはそれを『質問OK』と理解したらしく、躊躇いがちに質問しはじめた。

「その・・・・元帥は師匠と兄妹だと聞いて・・・・・」

 アレンの師匠。それはアンジェの兄にあたる男―――クロス・マリアンのことである。
 しかし、アンジェは兄であるクロスをこれでもかと言うほど毛嫌いしており、黒の教団内では暗黙の了解で、彼女にクロスに関する話をすることはご法度とされているほどだった。
 弟子としてそれなりの時間をクロスと共に過ごしたことで、ある程度はアレンも、アンジェがクロスを嫌うことに対して理解できなくもなかった。
 けれど、そうは言っても二人は間違いなく血を分けた肉親であることに変わりはない。
 家族を知らないアレンからしたら、なにもそこまで毛嫌いするものかと疑問に思わないわけがなかった。
 だからこそ、ほんの少しでも話を聞けたら、と思って勇気を振り絞って話題を上げてみたというのに。

「・・・・・」

 目に見えてわかるほどに、アンジェの表情が険しいものになったのを見て、アレンはやはり後悔するのであった。
 しかし、地雷を踏みぬかれ、不快感を露わにしたにも関わらず、以外にもアンジェは無視をするでもなく、睨みつけてキレだすでもなく、アンジェは黙ってアレンへと問いの続きを促すように視線を向けた。
 そして、その視線を受け、アレンは恐る恐るアンジェと視線を合わせながら口開く。

「どうして元帥は師匠を・・・・その、嫌ってるのかな、というか・・・・あはは」

 言葉を続けていくにつれ、アンジェの視線がどんどん鋭くなっていくのを感じ、終いには言葉尻にアレンは引き攣った笑みを零すことしか出来なかった。

(この人・・・怖すぎる!!)

 内心冷や汗の止まらないアレンだが、それでも、視線は鋭くとも、やはりアンジェがあからさまに怒りを露にすることはなかった。
 アンジェとしては、アレンの質問なんぞ答えてやる義理など一切ないので、この際無視してやっても良かったのだが。かと言って、周囲が勝手に察してそうしているだけで、別段、クロスの話題が一切のタブーというわけでもないのだ。ならば別に、話してやったっていいのではないかとアンジェは考えた。

「・・・・別にそこまで嫌ってるわけじゃない」

「えっ、そうなんですか!?」

「とはいえ好いてるわけでもないが」

 それは嫌いと何ら変わらないのでは、と考えたアレンだったが、ここで更に睨まれては、教団に帰るまで自分の精神がもたないと考え、決して口にすることだけはしなかった。

「どうせ、家族として生まれてしまったからには今更事実は変えられないしな」

 言外にクロスと兄妹であることに不満を持ってないわけではないと聞こえるが、それでも既に変えられない事実ならば譲歩して諦めるしかないだろうと言っているようにも聞こえて、アレンは内心、やっぱりそれは嫌いなんじゃ・・・と心の声を吐露する。
 しかし、そんなアレンの心の声も他所に、不意にアレンから視線を外したアンジェは汽車の窓の外へと視線を向けて、ほんの僅かな間を置いて溜め息をひとつ吐き出した。

「でも、兄妹であるからこそ、ある程度は信頼も信用もしているつもりだよ」

「アンジェ元帥・・・・」

「ただ、あの男に家族を大切にしようと思う心があるかどうかは定かではないけどな」

「あー・・・・あはは、た、確かに・・・・・」

 弟子でさえ、教団に行きたくないからといった理由で頭をぶん殴って置き去りにするような男なのだ。確かに家族に対する気持ちがきちんとあるようにも思えないな、とアレンは理解し、頷いた。

「まあ、アレもアレで、割と不器用なところもあるからな・・・・」

 どこか呆れたふうな口ぶりで、アンジェは再び視線をアレンへと向ける。

「恐らく、愛情が無いわけではないんだろう。お前を見てると、そう思わされる」

「え・・・・?」

 疑問そうに首を傾げたアレンだったが、アンジェはそれ以上言葉を口にすることはなかった。
 話すことは全て話した、と言わんばかりに再び手元の本を開いて視線を落としてしまったアンジェ。
 結局、アレンがそれ以上詳しく聞くことはかなわなかった。
 そうして、そのまま汽車は帰路についていくのであった。