閑話 「記憶」



 昊希がはじめに思い出したのは、深い赤色の記憶だった。
 これは――血だ。人と言う血袋に詰まったものをぶちまけたような、血。どこで、見たのだったか。
 彫刻刀でザックリと切ってしまった指から垂れていくそれを口に含み、傷を確かめるように舌先でなぞれば、刺すような痛みが指先に走った。

 うーん、仗助君に頼むかな。しかし彼に頼んでは、ドジ踏んだことがばれて格好がつかないな。
 そんなことを考えて、はて、『仗助君』とは誰だったかと疑問を抱く。いや、仗助君は近所に住む二つ年下の幼馴染の男の子だが、親が転勤続きで引っ越しばかりしていた自分に幼馴染なんて存在はない。そう、今生では。

 ――思い出した。
 『幼馴染の仗助君』がいたのは、前世の自分だ。連鎖的に思いだされていく、『前世』の記憶。そして――

「あ」

 あの赤は、自分の血だ。金属が焼け溶けるように、溶けていく身体。刺さった矢。
 その矢を向けたのは、己が友だと思っていた存在で。

「ひ、」

 逃げようとして、射られて、息が苦しくなって、足掻いて、助けを求めるように形兆を見て、見えた形兆の顔は、憎悪に歪んでいて――
 思わず、肩を抱き抱く。身体の震えが、止まらない。息が上手くできない。こみ上げる吐き気に嘔吐し、昊希はそのまま意識を失った。


 ――昊希が小学一年生の頃、図工の時間のことである。








「矢を向けられた理由、か」

 画面に映るスレッドの文字列を目線でなぞりながら、スレッド主である「僕だよ」こと木村昊希は呟く。
 つらたん、と打ち込んだところでEnterキーを押し、画面から一度目を離した。両手を組み宙を見上げれば、天井に取り付けられた回転するファンが視界に入る。くるくる、くるくる。
 彼に矢を向けられた時のことを、昊希は思い返す。確か、直前までしていたのは、そう、進路の話だった。時期は春、高校三年生になってすぐの頃。四月だというのに仙台の空気は冷え込んで、形兆の吐く息も白くなっていたのを憶えている。

 ……己の言葉の、何が引き金となったのかは、容易に推測できた。その時の彼が、どんな思いでその弓矢を手にしたのかまでは、分からなかったけれど。
 昊希はその時、県外の大学に進学することを彼に伝えたのだった。


 彼はさもそれが当然のことのように、ごく自然な動作で弓矢を手に取った。そのまま、何百何千と今まで行ってきたことをするように、弓に矢を掛け、昊希に向ける。
 彼の表情は、その時だけは優しかったような気がする。いや、悲しそうだった? 冷たかった、ような気もする。少なくとも楽しげなんてものではなく、その目だけが、昊希をギラギラと見据えていた。
 昊希は弓矢を構える彼に、色濃い死を見た。この矢が刺されば、己は死ぬと、本能的に理解していた。
 脂汗が浮き、内臓が急に無くなったかのような所在なさを感じる。そのまま、背を向け走り出した昊希の背に、突き刺さるのは死の宣告。心臓ど真ん中をぶち抜いたそれに、流石だななんて考えて。ああ。
 理解したくはなかった。何がこんなに、己のしがらみとなっているのかを。

「僕は、形兆が、怖いのか」

 死の恐怖が、未だに己の心臓を掴んでいる。
 昊希は、形兆を怖がりたくはなかった。彼を怖いなんて、思いたくなかった。覚えた恐怖を、嘘だと言いたかった。友人に恐怖を覚えたなんて、そんな事実を認めたくはなかった。

 消えてくれないしがらみが、ままならない感情が、その恐怖を否定させてくれない。自分勝手に傷付いて、沈みそうになる気持ちに、昊希は首を横に振った。

 彼との友情に、勝手に失望するのはやめておこう。昊希に矢を向けた彼と、彼に恐怖してしまった昊希。果たして、落ち度はどちらにあるか。彼のことも、自分のことも、昊希は責めたくはなかった。
 怖いものは怖かったんだから仕方ない。それでいいじゃないか。君それ怖いよ、といつもみたいに笑って、話はそれでおしまいにしてしまいたい。
 ……できないから、僕は困っているんだよなと考えつつも、まあ今は今日あったことについての書き込みだと昊希は画面に向き直る。

 この後、今日の出来事を書き込もうにも言葉にできず、昊希はまた回転するファンを眺める羽目になるのだが、それは別の話。








 照れ隠し、の文面に昊希は目を細めた。
 照れではないが、優しさを受け取るのは確かに、苦手かもしれない。

 人と話すことは、別に苦ではない。得意かと問われれば、昊希は首を傾げるが。
 昊希は、言語を用いたコミュニケーションはとれても、『人と心を通わせる』ことは不得手だった。

 形兆を数に入れなければ、前世において昊希に友と呼べる人間はいない。知人の範囲が広く、友人の敷居が高い人間だった。
 そのことをスレッドに書き込もうとして、止めた。この内容では、まるで自分が寂しい人間のようだ。書き込めば、からかわれるのは目に見えている。孤独を感じていたわけでもないのに、スレ民達にからかわれるのは癪だった。
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