閑話 「感情」



「『人間は考える葦である』と言うけれど、『人間は感情の獣だ』と、僕は思うんだ」

 いつだったか、彼がそう口にしたのを、形兆は憶えている。


 彼――棚夏昊希は、“感情で生きている”、そのことを隠すのが上手い男だった。常に冷静で、理詰めで動いているように見えて、その根底にはいつだって感情の色があった。

 人間が感情の獣なのだとすれば、その獣を飼いならすのが理性なのだろう。彼は、その行動に感情を乗せる術に長けていた。彼のしていることは、飼いならした獣に指示を与え、獲物に飛びつかせることにも似ている。要は、感情のベクトルの舵取りが上手かったのだ。

 直情的なのに、感情的ではない。感情で動いているのに、理性的である。
 矛盾しているはずのそれが、彼の中ではごく当たり前のことのように共生していた。
 形兆が彼に目をつけたのも、彼のその特異な精神性があってのことだった。形兆は彼を、『形兆の目的』を果たし得るスタンド使いになる「候補者」として見ていた。

 彼の方から形兆に接触してきたことは、形兆にとってみれば誤算でしかなかった。
 なまじ関わりのある相手を弓矢で射て、その相手が死ねば、行方不明者として警察に届け出を出された時に形兆にまで事情を訊かれる可能性がある。それだけならば、幾らでも誤魔化しはきくが、もしその捜査の手が形兆の『家』のことにまで伸びてくるようなことがあれば――『父親』について、探られるようなことがあれば。
 それだけは、あってはならなかった。

 弟の億泰と、早い段階に繋ぎをとられたことも、彼を射ることのできない理由になった。
 何が目的で、近付いてきたのか。形兆は警戒していたが、彼は特に何も要求することなく、ただ、形兆によく声を掛けては、行動を共にするようになった。




「君は僕を、機械か何かと勘違いしているんじゃないか」

 ある時、彼がそう言ったのは……、そう、形兆が彼の在り方を、『感情の手綱を握っている』という風に表現した時で。機械だなど、形兆は少なくとも、彼を理屈屋だと言う者よりは、彼を情のある人間として見ていたつもりだったのだが。
 彼が言いたいのはどうやら、そういうことではないらしい。

「僕は獣と言ったんだ、家畜でも猟犬でもない」

 感情の手綱など、握れるようなものではないと、彼は語った。

「人間の脳は、行動を司る部分と感情を司る部分が直結している。そして脳は、感情に支配されやすいようにできている。抑制された状態でもなければ、感情は扱えたものではないよ」

 そこまで述べたところで、彼は開いていた本に栞を挟んで閉じた。
 そういう言い方が、彼が理屈屋だと言われる所以なのだと形兆は思ったが、指摘はしなかった。

「人間の脳という機能には、実は無駄が多いんだそうだ。ただ効率だけを求めるなら、脳の電気信号の処理はもっとシンプルで、感情に関わる機能は縮小化されていいんだとか。実際は、効率なんて文字はなくて、余計な処理や機能のせいで、より強い感情が行動に反映されやすい、なんて仕組みになってしまっているのだけれど。
 要するに人間という生き物は、理屈で考られるようにはできていないのさ」

 尚も彼が語る知識は、どこでそんな話を仕入れてきたのかと思う種類のものだ。いや、仕入れ先は大方、彼がよく広げている科学雑誌にでも載っていたのだろうと推測がついているのだが。

 これは別に、彼が科学の方面に明るいというわけではなく、彼には妙に多趣味…というか節操なしなところがあり、その興味の向くままに、変な雑学ばかりを仕入れている、というだけの話である。彼は、なかなかに引き出しの多い人間だった。
 形兆が初めて彼に話し掛けられた時も、彼が抱えていた書物は、ミリタリー関係の雑誌とタロット占いの本という繋がりのよく分からない取り合わせだった。感情の赴くままに手にとったことが想像できる。




 ……そう、感情だ。
 あの時形兆が弓矢を手にとったのに、理屈なんてなかった。

 彼が形兆に背を向けたことに、形兆は妙な苛立ちを抱き、裏切られたような気分になった。そちらから近付いてきた癖して、逃げるのか、と。
 いつも悠然と微笑んでいた彼の姿はそこにはなく、彼の顔は彼らしくもない、恐怖と混乱に染まっていた。

 彼は形兆から、逃げ出そうとしているようだった。
 助けを呼ぶなり、大声を出すなり、してみればいいものを。第三者に介入されれば形兆が困るのを知って、律儀にも声を殺すあたりが彼らしい。それだから、死ぬことになるのだ。

 あの時、形兆を突き動かしていたのは、他ならない感情で。
 ――離れるものを引き止めたい、同じところに引きずり込みたい。
 そんな、執着だった。


 彼の背に矢が突き刺さると同時に、彼からくぐもった声が漏れる。その両手で口をおさえたのは、悲鳴を上げないためか。実際、彼の口から悲鳴が上がることはなかった。それ以上、声が発されることも、なかった。
 彼はただ、泣きそうな顔をして、形兆を見つめるばかりだった。その顔も、直ぐに形を失い、後には赤い染みが作られる。
 期待を裏切られたような、取り返しのつかないことをしたような、そんな心地で、形兆はその血溜まりを見た。

 彼、だったもの。
 ――もう、彼ではない。

 こうなるような、予感はしていた。彼がスタンドに目覚めない可能性など、彼と過ごしている間に何度も考えてきた。彼の精神は特異だったが、彼自身はごく普通の人間だった。

 形兆は、矢を拾い上げる。
 考えていた事態、予想していた結果。これはただ、そうなるように、終わりが迎えられただけに過ぎない。
 それでも何故だろうか。形兆の胸の内にあったのは、何かが喪われてしまったような感覚だった。

 まだ冷たい春の風が、彼の遺した鉄錆のにおいを攫っていった。
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