(H)EL(L)Salem's Lot



 突如として襲ってきた無重力に、空中に放り投げられた昊希は、そのまま噴水の水溜まり内へと転げ落ちた。水の冷たさに目も覚める思いで、思わず驚きの声を上げてしまう。
 幾許かの視線が集まったのが分かった。が、すぐに興味を失ったようで、ほど経たずそれらは霧散する。

 水を吸って重くなった衣服を引きずりつつ、噴水を出る。ぐぽぐぽ鳴るスニーカーは、一度脱いでしまうことにした。ついでに衣服もなるべく絞ってしまう。濡れてしまった石畳敷きの道に、通行人が迷惑そうな顔をしたのを見て、慌てて芝生のあたりへ移動した。まとわりつく衣服は不快だが、砂避けの布を脱げば多少はましだ。

 近くにあったベンチに腰掛け、息を吐く。少しの肌寒さと、ここしばらくは縁遠くなっていた湿度。日本の梅雨の時期を思い出す空気だ。
 風邪はひきたくないのだが、服を乾かすにはあまり向かない天気らしい。雨でも降るのだろうか。
 エジプトの夜は相当に冷える。日が暮れるまでに館に帰らなければならない。と、そこまで考えて、昊希は首を傾げた。

 これではまるで、自分がエジプトで暮らしているようではないか。
 ――いや、確かに暮らしていたのだ。半月だかひと月ほど前から、エジプトの首都・カイロで。他ならぬ、DIOの館の住人として。

 がつん、と頭を殴られたかのような衝撃だった。
 あれは昊希の認識で、三度目の転生、四度目の人生となった時のこと。昊希が産まれたのは、奇しくも二度目の人生と同じ年――ジョジョ第四部の頃には東方仗助の二つ上、高校三年生となる時節の年だった。
 両親の顔にも見覚えがあり、住む町の名が杜王町だったこともあって、昊希はその世界が二度目の人生と同じ条件であるものだと思い込んでいた。いや、実際にも、世界は昊希の知るそれと同じで、原作を辿っていたのだ。

 歯車の狂った原因は、二度目と違い、昊希が生まれながらのスタンド使いであったことにある。
 百年の眠りから覚めたDIOは、スタンドという新たな力を身につけた。そして、いずれ己の道を阻むであろう自身の因縁――ジョースターの血を引く一族とその仲間達への刺客として、世界中からスタンド使いを集めた。
 昊希が目を付けられたのも、その時だ。当時七歳だった昊希は、前世やその前の記憶もおぼろげで、ただ漠然と以前の人生があったことを理解しているような状態だった。記憶に完全に蓋がされていなかったせいか、不思議とスタンドの扱い方は分かっていたし、普段はスタンド使いであるのを隠すことが癖になっていた。

 ただ、命の危機の時ばかりは、そうはいかない。前々世では遭遇も何もなかったというのに、スタンド使いは引かれ合うというのか、昊希は吉良吉影の犯行現場に出くわしてしまったのだ。
 昊希の行動は早かった。吉良吉影にスタンドで触れ、その手が触れようという、すんでのところで動きを止めた。そうして硬直を維持しながら、子供の足でも彼から逃げ切れるだけの時間を稼ぎ、追いかけてこないように『お願い』した後、走って走って距離をとる。
 危機は去ったかのように思われた。……その後、吉良吉影の父親・吉良吉廣を通してエンヤ婆、ひいてはDIOに自分の情報が渡ることになるなど、思ってもみなかったのである。

 DIOの元に集められたスタンド使いの情報の中でも、どうやら昊希は、悪目立ちしてしまったらしかった。精神的に未熟な子供が扱うには、スタンドのコントロールが精密すぎたのだ。
 スタンド像を意のままに動かし、スタンドの特殊能力を発揮することができる。使う様子からは、自身のスタンドの特性すら理解していることが伺えるとくれば、目を付けられるのも仕方がなかった。

 幼ければ洗脳も容易だと思われていたのもあっただろう。DIOの忠実な僕になることを望まれ、エジプトまで攫われた昊希は、しかしそれを受け容れられるはずもなく、全身全霊で拒否した。命より大事なものもあるのだ。精神衛生とか。
 前世のディオとはほどほどに仲良くなっていた昊希だが、今生で対面したDIOはどうにも生理的に受け付けなかった。いい匂いでもダメだった。
 何がいけないのやら、自分でも不思議だが、ともかく。七歳児の涙目でのイヤイヤは効いたらしい。DIOは機嫌を一気に損ね、昊希に肉の芽を植え付けると、自分の興味の外に放り出した。

 肉の芽を植え付けられてからの昊希は――、脳が思い出すことを拒否している気がする。少し辿ったところで、DIOを弟として神聖視し、守ろう可愛がろうと奮闘する自分が見えた気がして、そっと思考を取り止めた。こわい。
 寒さのせいか、恐怖のせいか。昊希はふるふる震えつつ、現在の状況に繋がる『何か』の核心へと、少しずつ近付いているような、そんな予感を募らせる。

 昊希が肉の芽から解放されたのは、第三部も終盤、最終決戦の直前というところだった。
 どうやら昊希は、テレンスの前座のような立ち位置で、館への侵入を阻むように承太郎一行と対峙したらしい。そうして昊希は、彼らに仲間同士殺し合うよう『お願い』した。
 ――昊希がスタンドで誰かを傷つけるよう『お願い』すれば、その傷は何倍にもなって昊希に返ってくる。肉の芽を植え付けられた昊希からすれば、DIOに対する捨て身の献身だったのだろう。自己犠牲に酔っていたのかもしれない。普段では考えられないことだ。

 承太郎一行には、心底同情する。昊希にしてみれば、操られていた期間のことを後で人づてに聞いたがために他人事のようにいられるが、何をどうしてこんな、精神的に打撃を与えることに労力を極振りしたスタンド使いを相手しなければいけないのか。
 星屑十字軍達にとっての脅威は決して、お互いが負う怪我ではないのだ。
 自分の意志に反して動く身体は、仲間を傷つけるのを止められない。肉の芽を植え付けられて、自分の意志ではなく戦わされている七歳児は、目の前で怪我を負い、血だらけになっていく。先に昊希が自滅して死んだところで、残るのは彼らがDIOの被害者を救えなかったという事実だ。
 大変、大変心に宜しくない。精神衛生上、遠慮しておきたい展開である。当事者にだけはなりたくない。いや、一応昊希も当事者だが。

 何はともあれ、昊希の肉の芽は抜かれた。スタンドの影響下であっても『お願い』以外のことができないわけではないと見抜き、昊希を気絶させる形でスタンドを解除したらしい。
 そうはいっても、『お願い』の方が優先順位を上に位置付けられるはずなので、相当な精神力を持って抵抗されたとみるべきだろうが。
 そうして自分を取り戻した昊希の側には、アヴドゥルとイギー、そしてポルナレフの姿があった。

 ――そうだ。承太郎と花京院、ジョセフはテレンスの罠に嵌って穴に落ちていったのだと、ポルナレフが告げて。フン、と鼻を鳴らしたイギーが、寄り添うように側にやってきて。
 それから、もう安心してくれていいと、アヴドゥルが言って。彼の昊希を撫でる手が、大きくて温かくて、胸が震えて、思わずその腕にしがみついた。
 このまま、中の探索なんてせず、承太郎たちが戻ってくるのを待とうという昊希の言葉は受け容れられず、それで、そうして。

 意識が途切れる前に聞いた、ガオンという音の残響が、未だ遠くに聞こえているような気がする。
 子供の体重で、大人を突き飛ばすのは難しい。果たして自分は、彼らを上手く庇えたのだろうか。昊希に確かめる術はない。

 さて、衝動的に動いてしまった過去の自分はどうしようもないとして、昊希には、今ここにいる自分の状況が分からなかった。
 何故、死んでいないのか。いや、死んだのだろうか。
 すでに転生を果たしていて、かつ、生まれる前のことを思い出した衝撃で今生の記憶が飛んでいる、だとか。そんな可能性も思い浮かぶが、衣服を見るにエジプトのあの時のものである。自分の血による汚れも見られた。まだ痛む傷もある。
 記憶の連続性と肉体の状態からして、あの時の続き、なのだろう。ただ、単純に続きとするにはおかしなところがある。
 昊希は自身が、ヴァニラ・アイスのスタンドで暗黒空間に呑まれた、と認識していたのだが。自分の手足が欠けた様子はなく、暗黒空間に呑まれていた間の記憶もない。自身の死の理由だけが、まるで無かったことにされたような気分だった。

 ――それとも、ヴァニラの暗黒空間は、摩訶不思議世界につながる亜空間トンネルだったのだろうか。
 先程から視界の端にちらつく通行人へと目を向ける。ここはどこか公園の一角のようで、芝生の上にはのんびりと脚を伸ばす三つ目の多足類の姿があった。石畳みを散歩するのは、玉虫色をしてネバネバした粘液を纏った犬らしきものと、サッカーボール大ほどの丸い体を縦に三つ連ねた上にヤギの顔を乗せたような姿の飼い主だ。明らかに人の形をしていない。宇宙人か、はたまた未来人だろうか。何にせよ普通ではない。
 人間がいないのかといえば、そういうわけでもないらしく、遠くのベンチで楽しげにランチボックスを広げているのは、やんちゃ盛りの男の子を二人抱える、ごくごく一般の域を出なさそうな夫婦だ。サンドイッチを分け合う息子達の様子に悶えて身体をくねらせる眼帯姿の母親を見るに、若干親バカの気はあるらしいが。なんというか悶えるのも分かる、弟にしたい。

 ふと、天から光が射した。明るくなる空に、晴れ行く未来を想像してほっと息を吐く。風邪は引かずにすむかもしれない。
 そんな考えで空を仰いだ昊希が見たのは、天空で雲をかき混ぜ、天使の梯子を作る巨大な蛸足だった。

「……え?」


 ヘルサレムズ・ロットには珍しく、その日は局地的に青空の見える天気となった。
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