(H)EL(L)Salem's Lot



 喜ぶべきか、戸惑うべきか。陽の光のおかげもあって、昊希の服は生乾き程度にまで乾いた。しかし、あの巨大な蛸に感謝する気持ちになれないのは何故だろう。
 というかあれは、直視したらマズいものな気がする。できればずっと、海底都市で眠っていてほしい。

 なるべく空を見ないようにしながら、昊希は己のポケットを探った。くしゃくしゃになったエジプト・ポンド札が何枚か出てくる。果たしてこれが使えるのか、そもそも通貨社会であるかどうかも分からないが、何もないよりは安心できた。
 あとは服の装飾を外して換金するくらいか。袖口に縫い付けられたボタンを、指先で弄る。昊希がいま身に纏っているのは、テレンスお手製の衣装だった。デザインは彼のセンスによるものなので、昊希にその良さは今ひとつ分からないのだが、貴金属や貴石が素材に用いられた部分もあったはずだ。

 ずっとこうしてベンチに座ってもいられない。なにせ昊希には、ここがどこだか分からない。今日泊まる場所にも、食べるものにも困る状態だ。
 自分にひとつ喝をいれた昊希は、まだ水の重さの残るスニーカーを履き、砂避け用の布を纏い直す。DIOの館にいた時の、前衛的なファッションを晒して歩く度胸は昊希にはなかった。このボロ布も血に濡れている点では大概なのだが、ここではどうにも、その服装が視線を集める理由にはならないようだったので、昊希が気持ち穏やかで居られる方を選ぶ。

 公園の出口はあちらか。隙間に覗くビル群と、行き交う自動車に少しだけ安心する。
 そうして昊希は、しばらく街を散策してみることにした。




 街は、昊希が想像していたより、ずっと物騒なところだった。肩がぶつかれば、因縁をつけてカツアゲされる。財布だけで済めばむしろいい方で、金銭を奪われた上で暴力をふるわれ、下手すれば死ぬまで殴られるのがテンプレートなくらいには治安が悪いらしい。昊希は上手く回避したが、避けられなかった男性が、腕っ節に自信があるらしい異界人に物陰に連れ込まれ、脚の骨が粉々になるまで殴られているのを見かけた。
 奪われていた紙幣は、ドル札でもポンド札でもない、昊希の見たことのないデザインのものだ。この街に流通している、ゼーロという単位の通貨らしい。
 ゲラゲラと聞こえてきた笑い声に、興味本位で覗いた路地裏では、薬物の影響か、銀の髪に浅黒い肌の見目麗しい男が、その形のいい顔をドブに浸して煮詰めたような下種さと下品さに歪めて笑い転がっていた。彼の目の焦点は合わず、虚空を見つめている。考える必要もなく、近づかないほうがいいとわかる。
 ここは魔都か何かか。用心のためにスタンド像を出していたことが、予想以上にプラスに働いている。

 何度命の危機に遭って、スタンドを使う羽目になったか。片手を超えたあたりから数えていない。未知の土地に対する情報収集のために、相手に話を『お願い』したことよりも数が多いのは確実だ。
 ただでさえ犯罪の多いこの街で、七歳という年頃の子供は事件に巻き込まれやすいらしかった。少年少女趣味者のお相手用に、食人を好む異界人用と、この街での人類の子供の需要は高いのだという。全然嬉しくない。

 爆発が起きたりしても、さほど驚かない街の住人たちの様子を見るに、これが彼らの日常なのだろう。そうした喧騒、事故や事件での死傷者は珍しくないようだった。
 かといって、無法地帯なのかといわれれば、そういう様子でもなく、警察の出動はある。人間ではないものを相手どることもあるからか、彼らはポリスーツと呼ばれるロボットスーツのようなものを着ていた。謎技術である。すごい。
 ただ、頼りになるかというと、また話は別で、事態の収束にあたるも、警察の力が及ばない場面はザラにあるようだった。

 そんな街で生きる者たちの通念は、自分に降りかかる災厄は自分で避ける、トラブルは自己責任というものだ。……ここに不可抗力で来てしまった昊希にも、それは適応されるのだろうか。
 ひとまず、その通念がまかり通っている理由に、この街がそもそも特殊な場所であり、霧で囲まれたその街から外に出れば、そこにはごく「普通」の世界が広がっているということが挙げられる。この街で暮らしている人々には、より好んでこの街に足を踏み入れる、あるいは、この街から離れられないだけの理由がある、というわけだ。

 ちなみに街の名前は、ヘルサレムズ・ロットというらしい。ヘル、だなんて物騒な響きだ。地獄の聖地区画(メッカ)とでも訳しておこうか。
 そんな名称の街であるけれど、街を行く明らかに人間ではない造形をしたものたちは、別に地獄から来たというわけではない。彼らの出身は、人類の住むここ「人界」の向こう側――「異界」だ。
 元々ニューヨークだったこの街は、「大崩落」を機に概念的にも物理的にも、既存の在り方を壊されて、一晩で再構築された、らしい。新たに生まれた都市は、異界と現世の交わる特殊で異常な街だ。深い霧と超常現象によって、外界とは隔絶されている。
 道理で、聞こえてくる言語に英語が多いわけだと昊希は合点する。人種のるつぼという点では、再構築前とさほど変わりはないのかもしれない。

 ――ところでここは、やはり何かしらの原作ありきな世界なのだろうか?
 昊希の知るニューヨークは、崩落なんてしないし、そんなトンデモな都市になんてなっていないのだ。そこに何かしらの意味を求めるとすれば、昊希が考える可能性はそれになる。
 この街が舞台の物語となれば、事件には困らないだろう。トラブルシューターの話がのぞめそうなものだが。

「まあ、今それを気にしても仕方がないか」

 手元でスマートフォンを操作しながら、昊希はそう呟く。
 このスマートフォンは、先程昊希を拉致しようと襲い掛かってきた人物に、穏便に『お願い』して一時的に借りたものだ。もちろん、用事が済むまでは動かずここで待っていてくれるようにも『お願い』している。
 開いたのはインターネットブラウザだ。おなじみの検索エンジン先生に単語を入力する。街中で、現在の西暦を示すであろう数字を見た時から、昊希にはずっと気になっていたことがあった。

 1999年――昊希がDIOの館で過ごしていた頃から、どうやら、十年ほどが経過しているらしい。それはいい。いや、よくないのだが、謎のタイムスリップ現象については、この際置いておく。問題は、その時間の経過による世界の変化だ。
 約十年。それだけ時間があれば、確かに技術も進歩するだろう。しかし、街中で視界に入る液晶式の電光掲示板といい、このスマートフォンといい、いささか進み過ぎではないか。
 その疑問は、異界との交流事情を調べるにあたってあっさりと氷解した。異界側の進んだ技術がこちらに流入し、科学も進歩を遂げたというのだ。それも、短い期間に急速に。

 ヘルサレムズ・ロットができたのは、今から三年ほど前。一年中を霧で覆われているこの街は、外の世界とはほとんど隔絶して存在していると言っていい。しかし、全く影響がないわけではなく、異界の存在は人間社会に確実に変化を与えていた。
 異界の存在が露わになったことで、今まで存在しないとされていたクリーチャーや魔術的存在、超常現象に、幻術や結界術の類が現実のものと判明したこともある。
 そもそも、ヘルサレムズ・ロット成立以前にも、異界との交流は人知れずあったようだ。ただしそれは、ここまで大規模なものではない。街中で人とすれ違うように、世界がすれ違うような邂逅。今までは大きな影響を与えてこなかったそれが、都市規模で常に行われるようになったことで、常識を塗り替えるほどの変化をもたらした。

 外の人間の反応はさまざまで、その事実を受け容れられないという者もいれば、そうした存在に利益の匂いを嗅ぎ取って、上手く取り入れた者もいた。もちろん、多くの未知と危険を含んだそれを扱いきれず、身を滅ぼした者もいる。
 昊希はその成功者、もとい、成功団体名の中に、SPW財団の文字があることに気付いた。ぱちくりと瞬きして、財団が本当にあの財団かを確かめる。創設者の名前は――ロバート・E・O・スピードワゴン。彼の顔写真だというそこには、特徴的な眉と傷がある。

 ならばと次に調べたのは、ジョセフと承太郎の名だ。
 ジョセフは不動産王として有名なようで、検索結果が膨大な量になっていた。承太郎の名は、彼の海洋冒険家という肩書きと共に見つけられる。博士号の文字や、彼の代名詞ともいえるヒトデについて記した論文タイトルは見つけられないので、第四部、杜王町の事件はまだ終わっていないのかもしれない。何らかの理由で、昊希の知る原作と道が別れ、彼がそもそも杜王町に赴いていない可能性もあったが。
 西暦で考えれば、今は第四部の時期、もうしばらくすれば第五部も始まろうという頃のはずだ。昊希は、杜王町へと想いを馳せる。
 気持ちの準備期間もないまま、戻る手立てもなく、こんな場所まできてしまった。本来なら高校三年生の自分は、この時期、形兆とまた友人になろうと画策していたというのに。
 そうなった元凶ともいえる、いい匂いでも生理的嫌悪感のぬぐえない吸血鬼を思い出した昊希は、おのれDIOと呟いた。
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