閉幕 「日常」



【あるいは、これから】


 ぱち、と目を開け、もたれていた椅子から身体を起こした昊希は、形兆の姿を側に見留めると、挨拶代わりに片手をあげた。

「寝ていたのか?」

 形兆が尋ねる。昊希の定位置となりつつある大学のオープンテラスのその席は、なんとも程よい日当たりで、眠気を誘いそうなものだった。

「いいや。少し、懐かしいことを思い出していた」

 そう言いつつも、目元をこする昊希の姿は、寝起きのそれである。否、彼の言葉が嘘でないことは、形兆にも分かっていたのだが。
 曰く、彼は「前世の絡む記憶を思い出していると、なんとなく眠くなってくる」らしい。前世に関して考えることを避けていた時期、思い出しそうになれば寝るようにしているうちにそうなったとのことだ。

今生 こっちで再会した時のことだよ」
「……この時期だったか」

 そういえば確かに、四月の終わりかけ、ゴールデンウィークが始まる少し前のことだったか。その後、始まったゴールデンウィークに託けて、昊希が形兆のもとに連日のようにDVDを持ち込んでは一緒に映画を鑑賞するようなことになっていた気がする。
 前世でいうなら、棚夏昊希の死んだ時期。形兆が彼を殺した時期だ。……随分と、状況が違うものである。

「たまに、神様がリセットボタンでも押したんじゃあないかと、思ったりする。出会いから、何から。以前はお互いに柵が多すぎて、『友人』するにも一苦労だったから。そうした土台を打ち壊して、全部取っ払って、ゼロから始められるように更地を用意された気分になるんだ」

 その割に、前世の記憶を残すなんて、仕事の甘さがあるのだが。これでは、ゼロから始めようもない。精々、「やり直す」といったところか。……昊希は案外、そのやり直すという状況を気に入っていた。

「なかなか思い切ったことをするカミサマだ」
「世界を七日で作れてしまうんだから、壊すのにも感慨なんてないんじゃないか」

 形兆の感想に、昊希はそんな言葉を返した。
 世界の終わりは突然で、意外と呆気ない。そのことを、昊希も形兆も前世でよく知っていた。「自分にとっての」と言葉の頭に付きはするが。

「随分と、ぬるま湯になった」

 ぽつりと呟く形兆に、「君は修羅の住人か」と昊希はからかいの言葉を投げる。

「でも、そうだな。僕にとっては、幻想の世界や天国部屋だ」

 ゲームクリア後のボーナスステージでも遊んでいる気分だよ、と続けた昊希はふわふわと笑った。

「あまりにも、僕にとって都合の良い夢みたいで。現実感がない」

 本当に、それを現実だと思ってもいないような、当事者の癖にどこか心ここにあらずの目を彼はしていた。非現実扱いされたのが不本意で、形兆は昊希の額を叩く。

「いたい」

 額を摩る昊希に、自業自得だと冷ややかな目を向ける。形兆にしても、この現実を夢呼ばわりされてはたまらない。嘘では困るのだ。
 素直に日常を享受できないというのも、お互い難儀なものだと形兆は小さく息を吐いた。




「あれ、形兆三限は?」

 ふと、時計を見た昊希が尋ねる。授業五分前になるのにこの場にいることを疑問に思ったのだろう。形兆は簡潔に「休講」とだけ答えた。それから、彼の正面の席に座る。鞄から取り出したのは、一限目の授業のノートだ。

「うわ出たな」
「何がだ」
「いや、未来の財団員は、こうして育てられるのかと思ってね」

 その授業名は、『SPW財団学』――財団の歴史と理念、学園の成り立ちについて学ぶ学問である。

「ミッション系の学校でいう、キリスト教学みたいな授業だよね。宗教学と化した財団学」

 財団は、宗教だった…? などと深刻な顔で昊希が呟くが、宗教と学問は別のものであるように、キリスト教とキリスト教学は別のもの。当然、財団と財団学も別のものである。
 その内容は、卒業単位必修にカウントされているだけに、学問として成立している。人材の自家培養的な面は否めないが、その授業施行目的はあくまで知識的理解であり、財団理念の布教ではない。

「レポート課題が出されていてな」
「えっ、それ本当? 僕も明日の授業で知らされるのかな」

 ゴールデンウィーク中の課題というやつだ。今年はどうやら、去年のようにのんびりとはいかないらしい。
 ノートにシャーペンを走らせだす形兆に、昊希も口を噤み、自身は読書にいそしみ始めた。




「そうだ。今年も、海に行こう、海」

 形兆の作業もひと段落した頃。急に思いついたように――実際思いつきなのだろう――そう言って、昊希はスケジュール帳を取り出した。七月のページを開いた昊希に、形兆が口を出す。

「海の日になっても、夏休みははじまらないぞ」

 高等部と異なり、大学部は前期と後期の二期制で夏休み時期が異なる。忘れていたとショック受ける彼は、大学に上がりひと月ほど経とうとしているのに、まだ高校生気分が抜けないらしい。

「その分夏休みは長いんだよね。そっか、そうだった。休みが長いのは嬉しいな。遠出するのもいいかもね」

 どこにいこうか、などと言い出す昊希は既に夏休み気分の様子である。まだ四月だ、あまりに気が早い。
 彼の興味は前世と同様、節操なく様々な分野へ向いているらしく、本に限らず現物を見に現地まで足を運ぶことも珍しくないらしい。形兆はそんな彼に付き合わされ、あの再会以来、様々な場所を連れ回されている。
 ――まあ、悪くない。

 虹村形兆は、そんな悪くない日常を送っている。
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