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《code:F》第8弾。
ユウマは大きな紙袋を抱えて、由仁の病室に向かった。
真っ白い病室。生活感の排除された空間には、ユウマが来る度ひとつずつ物が増えた。
ワインレッドの空き缶。同じ色のリボン。青いブリザーブドフラワー。リトルドラグとユウマの写真。黄緑色のボールペン。黄色のノート。まるで少しずつ由仁を染めているようなこの感覚は嫌いじゃない。
コンコンコンと3回のノック。はい、といういつもの声の後に部屋に入れば、由仁はベッドの上だった。
「……こんにちは、ユウマさん」
さみしそうに微笑む。
「ついにこの日が来てしまいました。待ち遠しくもあったけれど、一生来なくていいのにとも思っていたの。」
「そうですか?俺は楽しみで仕方がありませんでしたよ」
「……面倒臭い女のおもりから解放されるから?」
「貴方に会えるから、です。」
「ふふ。リップサービスは今週も健在なんですね。なら、うんと優しくしてもらわなきゃ」
そこで体を起こそうとしたので、自然な動きで手を貸した。ありがとうの言葉が咳で消える。骨張った背を摩ってやると由仁が申し訳なさそうな顔をしたので、そんな顔をするくらいなら病気を治してくれよと思った。無理だ。わかっている。
「紅茶セットを取ってくれませんか。」
由仁が細い指で棚を指さした。彼女が紅茶セットと呼ぶ籠の中には、茶葉とティーポット、ミルク、シュガーポットが入っているのをユウマは知っている。戦闘には関係の無い知識であるのに、アールグレイという茶葉の名前まで覚えてしまった。無駄な知識だ。けれどそれがひどくいとおしく、大切なことのように思えた。
そっと、彼女の指に手を添える。
立っていた指を引っ込めさせてグーの形にして、つくった拳に紙袋を握らせた。
「これは?」
「お土産です」
恒例のようになったやりとりのあと、袋を開けた由仁はまずきょとんとして、徐々にびっくりした顔になって、恐る恐る紙袋を広げて手を突っ込むと、まるで壊れ物を扱うかのような繊細さで中身を取り出した。
「どうして……」
驚きすぎて震える指先が広げているのはワンピース。その紺色の生地と由仁の肌のコントラストを確認して、ユウマは柔らかく目を細めた。
「由仁に似合うと思って」
「でも、わたし」
「紅茶もいいですが、今日は外に行きませんか」
ヒュウ、と息を飲む音がした。
うっすら開いた唇からは何の音も出てこないけれど、蜜色の瞳が信じられないと言っている。
動きを止めた由仁の代わりに、ユウマは紙袋に手を突っ込んだ。取り出したサンダルは白。髪と同系色にしたらどうだというヨリトモ提督の助言による。きっと彼が彼の奥さんに初めて靴をプレゼントした時と同じ技なのだろう。
踝あたりに花の咲いたサンダルの踵は、万が一にも転ばないよう限りなく低かった。
「これを履いて」
「……で、でも」
「許可なら取ってあります」
胸ポケットから四つ折りにした書類を取り出して見せてやる。外出許可を保証する病院側のサインと、ナグモ博士のサインが記してあった。
揺らぐ蜜色。
あと、一押し。
「きみはもうすぐ死ぬのでしょう。」
部屋の片隅でオブジェと化していた車椅子のブレーキを外した。手入れなんて全くされていなかったそれはそれでもカラカラと滑らかに動き出す。
「……選んで。もう少しだけ長く生きてここで静かに死ぬか、今俺の目の前で死ぬか、どちらがいいですか」
その沈黙はほんの数秒だったけれど、ユウマには永遠に等しく感じられた。
やがてのろのろと手を伸ばした由仁がサンダルを掴んで、ワンピースと一緒に胸に抱き込む。
「……出てってください」
ダメだったか、と思った直後、顔を上げた由仁は決意した顔をしていた。
「着替えます。」
すっかり元の色が抜けてしまった白い髪がかかる凛とした横顔。
ゾッとするほど美しい。
ワンピースはユウマの見立て通り、由仁の肌と髪によく映えた。いつかのように「似合ってますよ」と言うと由仁ははにかんで胸元のリボンを弄った。自室のクローゼットに軍服しかかかっていないユウマが初めて選んだ服だ。実は少々不安だったから、気に入って貰えたようで密かに胸をなでおろした。
ワンピースを着た由仁は、ベッドの上で器用に髪を整えた。フリルたっぷりの赤いリボンをくるりと巻き付ける。本当はリボンも新しいのを買ってこようと思ったのだけれど、由仁はこれを付けたがるだろうと思ってやめた。正解だったようだ。
ベッドの端から垂らした小さな足に、小さなサンダルを履かせてベルトで止める。すると由仁が当たり前のように立ち上がろうとしたので、勝手に抱き上げて車椅子に乗せた。気休めだろうがマスクもさせる。
車椅子に収まる小さな体。
死に向かう緊張で強ばっている。
先程ユウマはああ言ったけれど、何も外に出た途端に死んでしまうほどではないことは既にナグモ博士に確認済みであった。ほんの少し肺に悪影響があって、そのほんの少しで寿命がかなり縮むだろうとは言われていたけれども。
「そんなに緊張しないでください。ただのデートですよ。」
だから緊張するのにとかなんとかもごもご言った由仁を乗せて、車椅子は動き出した。白い部屋の白い扉。由仁にとって鉄格子にも等しかったそれが、音もなく開いて、閉じた。
ツクリモノ二人組がナースステーションの前を通り過ぎる。
あんな子入院していたかしらと不思議そうな奥様方を会釈でやり過ごしてエレベーターで1階まで降れば、外はすぐ其処。
「……空が遠い」
由仁が飛竜の舞う灰色の空に手を伸ばした。
「そりゃあ、3階分遠くなりましたから」
珍しく冗談なんて言ってみれば、正しく冗談だと受け取ってくれたらしい由仁が漸くいつものように微笑んだ。
フロワロの毒素を含む風。
目に見えないそれが由仁を犯す幻を見た。
「デートではまずは健全に、外を散歩するそうです」
人のいない森林公園を、車椅子を押してゆっくり歩く。時折胸の痛そうな音を立てて咳き込むの背を摩るために立ち止まりながら、ユウマはとある場所へ向かっていた。
由仁はそれを知らないから、知ったらきっと驚くだろう。分かってて言わないのは、彼女を逃がさないためだ。
ユウマは胸の前でふわふわしているリボンを戯れに捕まえてみる。由仁は気づかない。この位置関係はいいなと思った。車椅子を押すユウマと、車椅子に乗る由仁。
限りなく近いのに、視線は交わらない。
話がしやすい。
「あなたの話を聞きました。」
それは懺悔にも似た告白だった。由仁は暫し黙って、前を向いたまま「どこまで」と言う。
殆どすべてだろう。今のユウマは、彼女がどんな意図を持って、どんな遺伝子を掛け合わせて出来たかすら知っている。
「……ユウマさんが来るようになってから何回か、病室の窓が開いていて、それを閉めてくださったことがあったでしょう」
「はい。この病人は死にたいのかと思いました」
「死にたかったの。」
ユウマは黙った。
生まれた静寂に、カァ、とひとつカラスの鳴き声。
歩みを止めないから、景色はのんびり過ぎて行く。
「死にたかった。」
由仁は繰り返した。
「……理由を聞いても?」
「あなたと一緒です。わたしはわたしとして、たくさんの『わたし』と共に生まれたのに、体がこんなふうになってしまって、せっかく生き残ったのに何もできない。竜を倒すため、もしくはスペアとなるために生まれて、そのどちらも達成できないのならら、他の17人のように死んでしまいたかった。だから毎日窓を開けていたの。」
それはユウマにとっても覚えのある感覚であった。
何かを為すために生まれたならば、それを達成できない己は存在すら罪であると、誰に教わらずとも知っている。この使命感までも意図的に遺伝子に組み込まれたものだとしたら、人類というのは何処までも傲慢で愚かな生き物だ。
何を言うべきか迷って、ユウマは自分の話をした。
十二年前試験管の中で生まれたこと。
成長促進薬で今の姿になったこと。
だから本当は十二歳であること。
竜を狩るものとして最前線で戦っていて、今度第5真竜の遺伝子がインストールされることになっていること。
物凄く緊張したのに、全て聞き終えた由仁は「話してくれてありがとう」とほんのり笑った。
これはもとから事情を知っていた者の反応だ。
「誰かに聞いていたんですか?」
「いいえ。けれどユウマさんの話や動作、身体的特徴から予測してはいました。」
面食らう。
そうだった。この人はNAV。情報処理能力S級は伊達ではない。
「……あなたは俺の前任なんですね」
「そういうことになるんですかねぇ。わたし、一度も竜を倒してないですが」
「俺はNAVの方々の研究をもとにして生まれました。由仁もそうでしょう?それならあなたと俺は前任と後任というより、イトコのようなものなのでしょうか」
「イトコ……」
この世に一人ぼっちになってしまった由仁への気遣いだったのに、彼女はそれを破って捨てた。
「イトコじゃなく、カノジョにして。」
どんな顔をしてこの台詞を口にしたのか、顔が見られなかったことが酷く悔やまれる。ユウマから確認できたのは、赤く色付く耳がふたつ。
「今日だけで、いいから……」
羞恥で消えた語尾を掬って、よかった、とユウマは笑った。
「カノジョなんかよりずっと凄いものにするために、あなたを此処へ連れてきたんですよ。」
車椅子が止まる。
目の前には教会があった。
教会の中ではナグモ博士が二人を今か今かと待ち構えていて、到着するなり口を開かせ呼吸音を聞き上から下から横からくまなく眺め、漸く「よし、」と小さく頷いた。
「危惧していた程の悪化はない。これなら大丈夫だろう。」
壁の近くで所在無げに大きな体を縮めていたヨリトモと二人、ほっと息を吐く。当事者である由仁ばかりがぽやぽやと笑っていたから軽く額を小突いてやれば、「自分の体が悪くなっていないことくらい、この世の誰よりわかります」と生意気なことを返された。その通り過ぎて返す言葉がない。
由仁は車椅子の上で姿勢を正すと、ヨリトモ提督に向き直った。
「お久しぶりです。」
「……ああ。」
そういえばこのひとがヨリトモ提督と会うのは初めてではないんだなと思ったのを、博士が代弁してくれる。
「そうか、君達は面識があったな」
「はい先生。よく覚えています。すごく怖い顔の、でもとても優しい軍人さん。」
「申し訳ないが、俺はあなたがどの由仁だったのか分からない」
「どのわたしもわたしです。優しくしてくれてありがとう。」
提督はそこで物凄く(彼基準では”ちょっと”)怖い顔をした。
「あなたには好きなものはないのか」
「好きなもの?」
唐突な質問に由仁だけでなくユウマも戸惑って顔を見合わせる。怖い顔の提督の質問には由仁ではなくユウマが答えた。
「由仁はアールグレイとクッキーの缶とフリルのついたリボンと、リトルドラグと俺の写真が好きです。」
「他のあなたにも、それぞれに好きなものがあっただろう。あなたでないあなたは、本当にあなたか。」
不器用な言葉。
怖い顔をして、随分と優しいことを言うじゃないかと博士が笑った。由仁は一度泣きそうな顔で目を伏せて、次の瞬間には顔を上げて破顔した。
「そういえば、先生の隣に座るのが好きな子も、絵を書くのが好きな子も、本を読むのが好きな子もいました。わたしたちにも個性があった。」
「では別人だ。」
「ええ、そうですね。」
「あなたはどの子だっただろうか」
「わたしは先生の膝の上に乗るのが好きでした。」
先生は優しいの。
幼い面影がヨリトモの脳裏で笑った。
あの子だったか。
「久しぶりだな。」
はい、と頷いた娘は見事美しく成長したらしい。
彼女の成長を見ることが出来なかった生みの親、天国だか地獄だかにいるであろう憂木博士に、ざまあ見ろ、とひっくり返した親指を突きつけたい気分だった。
(151201)
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