来訪
昨夜の信之の様子はおかしかった。なんだか切羽詰っているような…見ている場所が違うような。
信之の目的が、なんだか違うところにあるような気がしてたまらなかった。
信之はとても優しい。仕事もまじめにするし、幸村は勿論、従業員からの信頼もあつい。あの三成でさえ一目おいている。
秀でた容姿と優しい雰囲気で固定客はたくさんいるし、伊智子だって信之のことが大好きだ。
それなのに。
昨日の終礼では、いつもの信之とは違った様子で。
三成や他の者の言うことは正論だし、それが正しいと伊智子も思った。
でも、信之は断固として首を縦に振らなかった。
幸村に対して自分のことを「頑固」と表現した。
三成に、己の立場が危ぶまれることを示唆されても、それでも意見を変えなかった。
もし、最悪の事態が起こったとしても。
信之がここを出て行くことになってしまったとしても。
信之には守るべきものがある。
そして、今はそれを隠さなくてはいけない理由がある。
そういう…ことなのだろうか。
信之をそこまで奮い立たせる理由とは一体なんなんだろう。
一体、信之と稲様と間に何があったんだろう。
「………変なこと考えるのはやめっ!」
伊智子はぷるぷるっと頭を振り、いやな想像をかき消した。
物事はいい方向にしか進まない!そう信じるしかない。
はき掃除を再開しようとホウキの柄を握り直し、顔をパッとあげた瞬間、
「…………あ!!」
あまりの衝撃に思わず大きな声がでて、あわてて口に手をあてた。
そして、ついついビルの中へ引っ込んでしまう。ガラスばりの自動ドアのむこうから様子を伺う。
「あ、あれって…あれって…」
美しい黒髪を頭の高い位置で結わえ、それは動くたびにさらさらと揺れる。
白い肌は太陽光を反射するみたいに輝いていて、ぱっちり二重の瞳はうるんでいる。
形のよい唇は桃色で、そこから奏でられる可愛らしい声ときたらもう完璧。
少女マンガのヒロインみたいな、稲様がそこにいた。
「なんで稲様が…?しばらく来ないんじゃ…?しかも、今はまだ診察時間ではないし…何の用…?」
仕事の休憩中だろうか。いつものような、華やかなスーツ姿でクリニックの周りをうろうろ歩いていた。
その表情は少し不安げで、誰かを探しているようでもあった。
つい声をかけたくなるものだから、稲様の女子力は本当にすごいなあと変なところで感心する。
「え…ど、どうしよう。話しかけ…たら、まずいかな」
ところで私はどうするべきだろうか、えっと、まず、戻って信之さんに教えて、その後石田さんに報告…?
自動ドアにへばりついてああでもない、こうでもないといろいろ悩む。
そんな時。フロアの床を革靴で歩く、カツカツという音が聞こえた。
「伊智子。ここは私に任せてくれないか」
後ろから声が聞こえる。
伊智子はぱっと振り向いた。
「の、信之さん……」
そこには、涼しい顔をした信之が立っていた。
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