狸男と大男の正体



ドアが開閉されるたびに軽快なベルの音が響く。
クーラーのほどよくきいた室内は、じんわり汗のかいた肌にやさしい。
平日の昼間。主婦同士、休憩中のサラリーマン。コーヒー片手にうたたねをするおじいさん。

そんな日常風景に、伊智子たちの姿はあった。


「えーーっと…なぜ私はここに…」

「伊智子、パフェがある。食べるか」
「え…いや…い、いらないです…」
「なに、遠慮するな」

いや本当にいらないですって、と言ってる間に信之は通りがかったウエイトレスにさっさと注文をしてしまった。

ここはクリニックの近くにある喫茶店。
あのあと、信之に言われるままついてきたら、なんだか成り行きでこんなところにきてしまった。

パフェを頼んだのは、口封じのつもりなんだろうか。
伊智子は居心地の悪さに尻をもじもじさせた。

「……」

そして、ちらりと正面を見る。
そこにはいつもカウンターのガラス越しにうっとりと見つめていた女性の姿があった。

2人用ソファ同士が机をはさんで向かい合わせに設置されている。
片方のソファの窓際に伊智子が座り、もう片方のソファには信之と…

「え…と、稲様…」

「稲とお呼びください。今は客ではありませんから…伊智子殿?」
「あ、じゃあ…稲さん。私も、殿とかいらないです」

「わかりました。伊智子」

そう言って――稲はにっこりと笑った。伊智子はつい頬をポッと赤らめる。
稲の隣に座る信之も穏やかに微笑んでいた。


「…いきなり連れてきてすまないな。どうしても…私一人で解決したかったのだよ」

「信之さん…」


昨日の終礼と同じようなことを言う信之。どうやら、信之の決意は相当固いようだ。

そんな信之を見ると稲はスッと居住まいを正し、伊智子に向かって深々と頭を下げた。

「伊智子。――今回は、多大なるご迷惑をおかけし、申し訳ありません」

「うぇ!?いや…謝らないで下さい!悪いのはあのおじさん達ですから!稲様…稲さん!は、悪くありませんっ!」

おじさん達――とは、2人の不審者のことだ。
伊智子は慌てて頭を上げてくださいと言った。おずおずと顔をあげた稲の表情は曇っていた。

「そう、ですね……あの、お2人が……」

どこか煮え切らない稲の態度に、伊智子は首をかしげるばかり。
どうかしたんだろうか。そう思ったが、ウエイトレスがフルーツのたっぷり乗ったパフェを運んできたところで、伊智子の思考は一旦途絶えた。





稲はアイスコーヒーを一口飲んで、にこりと笑った。その姿さえ様になる。

「…それにしても。受付の方が、このように可愛らしい乙女だったとは気付きませんでした。男装がお上手なんですね」

「お、おとめ」

伊智子は動揺して生クリームをテーブルの上に落としかけた。

慌ててスプーンを口に含む伊智子の様子を眺めていた稲はクスッと笑い、それから信之と自然な動作で視線を合わせた。


「…………ん…?」


信之はいつものように微笑んでいる。
しかしその笑顔には、伊智子を含む従業員へ向ける視線とは少し違っていた。
なんというか、恋人に向けるような視線を……

伊智子は背中にいやな汗をかいた。



「え、あの…つかぬことをお伺いしますが…お2人って………」



伊智子がそう呟いた瞬間、稲がボッと顔を赤く染めた。
恥らうように顔を伏せる稲の肩を信之が優しく抱いた。

医師とお客様として、その行為が許されるのはビルの中、診察中だけ。

信之は、伊智子のほうをむいて、困ったように笑った。
その笑顔は幸せに満ち溢れているように見えた。


「う、うそ……」


つまり、2人は………つまり、つまり……


「!」


その時、フッと視界が暗くなる。

このテーブルは窓際だったから、時間帯を考えれば暗くなることはまずない。
天気予報だって1日快晴だって言ってたし、カーテンだってもちろん開いている。

ならば、何故……。と思い、窓のほうを見れば。



鬼のような形相をした大男が窓にはりついてこちらを睨んでいた。



「ぎ、ぎゃああ――――もがっっ」



「伊智子、しーっ!しーっ!」

窓の向こうの異様な光景に伊智子は思わず悲鳴をあげたが、その口を稲があわてて塞ぐ。
その稲も、窓のほうを見て苦々しい表情をしていた。

「…やはり、あなた方が」

一人冷静な信之は、窓の向こうの人物に頭を下げた。

すると鬼のような顔をしていた大男の後ろにもう一人いることに気付く。
大男に比べると背丈は小さく恰幅のいいちょんまげ頭のおじさん。
ちょんまげ男のおじさんは信之に対して深々と頭を下げていた。

2人の容姿を見るとあることに気付く。
あのノートに書かれていた不審な人物の特徴とぴったり一致するのだ。

つまり、それの意味するところは一つしかない。


「の、信之さんっ、何お辞儀してるんですか、まさかお知り合いですか!?」

「伊智子、落ち着いてよく聞くのだ」

稲の手をふりほどいた伊智子がそう言うと、信之は真剣な表情で伊智子に向き直った。



「この方々は徳川グループの代表理事であらせられる徳川家康殿と、腹心の本田忠勝殿」



「…え、徳川って、」

「うむ。お前もよく知っているだろう。というより…この国で知らない人間はいない」

徳川グループとは、テレビ、街頭の看板、インターネットの広告、雑誌。ありとあらゆるところで1日1回は目にする名前。
この国を代表する大会社で、色々な事業を展開し海外進出もさかんな会社のトップが…目の前にいる。



「そして、稲殿は、本田忠勝殿の一人娘。つまりは、徳川グループの一人なのだ」

「う、うそ…」

「本当なのです。伊智子」


伊智子は口をあんぐり開けたまま、窓の外を見た。
大男の形相を見て、もう一度稲を見た。色々な意味でにわかには信じられない。

だって、そんなの―――え? 信じられない。

「じゃあ、この2人が…稲さんの…ストーカー?」

稲はそれを言われると、困ったように眉を下げた。

「稲は…いつも会社を退勤してからあのクリニックに直行するのですが、いつからかそれを心配に思ったらしく…」

「で、でも。ストーカー行為にまで発展するなんて、さすがにやりすぎです。稲さんはもう大人なんだし…」


「稲がいくらやめて欲しいと言っても聞く耳をもってくれないのです!」


だんだん興奮してきた稲がダン!と机を叩いた。
思った以上の大きな音と衝撃にグラスが揺れる。伊智子は小さく「ひいっ」と悲鳴をあげた。


「それに、信之様達にまで迷惑をかけて…先日、同僚の方々ともめたとお聞きしました」

「それは稲殿が気にすることではない。私が勝手にやったことなのだから」

「しかし、それでは信之様があまりにも…」



「お話中のところ申し訳ない。お初にお目にかかります。真田…信之殿?」



「家康殿、忠勝殿」
「殿!…父上!」
「え、え、背、でか…」

いつの間にか、窓の外にいた2人が店内に入ってきたらしい。

あやしい男達――もとい、徳川グループの代表理事、徳川家康と、腹心であり稲の実の父親、本田忠勝。
2人がずんと立っているだけで、店がずいぶん狭くなったように感じる。

店中の視線を受けながら、2人は私たちのテーブルの前ですさまじい存在感を放っていた。

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