救いの口付け

私と関平は一応恋人同士である。

なぜ「一応」がつくのかと言うと…


まず始めに、関平が星彩という、張飛様のご息女にずっと片思いをしていたのは周知の事実である。
美しく、そして強い彼女に関平が惹かれていくのは至極当然のこと。

しかし劉備様のご子息であり次期当主の劉禅様の指導役として星彩が抜擢され、関平は星彩と過ごす時間がめっきりなくなってしまった。
いつもは、修錬場で手合わせをしたり、気が向けば遠乗りに行ったり。たまの夜には酒も交わしていたみたいだった。

それがぱったりとなくなってしまった。つまりは、そういうことなのだ。

それに気付いた関平は目に見えて落ち込んでいた。
無理も無い。少年時代からの、淡い恋心が玉砕してしまったのだから。しかも、相手が相手だ。

修錬場ではお父上である関羽様の威勢の良い声をよく聞いた。稽古にも身が入っていないようだった。



そんなある日、関平は城の敷地内にある湖のほとりに腰掛けて、恋わずらいの乙女のように膝をかかえていた。

どこか遠くを見つめて、物憂い気な表情で、1分に1回はため息をこぼしていた。

その背中のさみしいこと。

関平が少年時代から星彩に恋をしていたように、私も小さい頃から関平に恋をしていた。
人一倍関平を見てきたからこそ、その感情の機微には敏感になる。


洗濯途中だった衣類を部屋においてきて、私はそのわびしい背中にそっと近寄って……そこからは、まあ、お察しだ。


傷心の関平の弱みに付け込み、部屋に連れ込んだ私は一世一代の勇気を振り絞ってアレをコレして「関平!私と付き合って!」という言葉になんとかして「はい」と言う答えをもらうことができた。いやあ、あれは大変だった…。


まあ、そんなこんなで私と関平は晴れて恋人同士となった。



それが一月前のこと。

始まりは少々特殊だったが、私たちはごく普通の恋愛を育み、未来も明るいかと思われた。

しかし、そこにひとつの問題が舞い込んできた。



ことの始まりは、たった一つの守袋。



「どういうこと、関平」


ヒトミは眉を吊り上げて、机をバンッと叩いた。美しい花の生けられた花瓶が揺れる。
ここは城内にある関平の執務室。その部屋の主は、困ったような顔をするばかりであった。


「どうと言われても…ただの守袋ではないか」
「ただのじゃない!」


机にぽつんと置かれたそれを、ヒトミは人差し指と親指でつまんで持ち上げた。
関平の眼前につきつけて、眉をつりあげて言った。

「見てよ、この刺繍。こんな細かくて美しい刺繍、ただの上官に渡すと思う?懸想してるに決まってるじゃない!」
「確かに美しいが、拙者はそのように受け止めたつもりはない!」

「関平がそう思ってても相手は違うの!!」


将である関平には部屋付きの女官がいる。

主に傍にいるのは、行儀見習いで城にやってきた若くおとなしそうな、素朴な女官だった。

普段は身の回りの世話や雑用を仕事としているが、その女官から先日守袋をもらった。
その守袋には、ついため息がこぼれそうな美しい刺繍が施されていた。
女官は「関平様の安全をと、毎晩心をこめて針を刺しました」と言って差し出した。
関平は純粋にその美しさに感心し、ありがたく受け取った。

そしてそれが恋人であるヒトミに見つかった。それを今問い詰められているというわけである。

「関平…。ああいう、おとなしそうな子が一番恋愛力強いんだよ、知らないの?」
「そのように言うな。彼女は女官として誠実に拙者に接してくれているだけだ」

ムカッときた。

誠実に接しているだけの女が、毎日毎日花を生けに来るか?何日もかけて刺繍の施した守り袋を渡すか?
下心ありありに決まっているのに。なんだか悔しくて悔しくて、涙がでてきた。
ヒトミはとうとう、こらえきれずにボロッと涙をこぼして叫んだ。


「関平の恋愛下手!わからずやっ。そんなにかばうんならその子と付き合えば?もう知らないっ」

「あっ、ヒトミ…」

ヒトミは守袋を関平に投げつけ、興奮した様子で部屋を出て行ってしまった。
荒々しく閉められた扉が大きな音を立てた。
投げつけられた守袋は関平の腕にぺちっと当たった後、ぽとりと床に落ちる。
関平はそれを拾う気力もなく頭を抱えた。


「はあ…一体なんだというんだ」


一人部屋に残された関平は大きなため息をついた。ドサッと椅子に座り込む。

ヒトミのことは好ましく思うが、女性にあのように迫られると関平は何もいえなくなってしまう。
それに、関平が何を言っても聞いてくれない。聞く耳をもたない。何も言わずにいれば、「聞いてるの!?」とキンキン声で怒鳴られる。



「…失礼致します、関平様」

扉がそうっと開けられる。件の女官だった。
関平は慌てて床に落ちていた守袋を拾った。そして何事もなかったかのように「ああ、お前か」と声をあげた。

女官はスススと関平に近づき、「さきほどヒトミ様をお見かけ致しました」と言った。

「ああ…どうやら私のせいでヒトミを怒らせてしまった。謝らないと…」
「おかわいそうな関平様」

え?と関平が女官のほうを見ると、なんだかいつもと顔つきが違っていた。

「関平様はいつもこんなに頑張っていらしてるのに。おかわいそう」
「い…いや。そのようなことは…」
「私なら、なにがあろうと、決して関平様を攻め立てたりは致しませんのに」

女官の白い手が関平の肩に添えられた。

関平はその瞬間、ざわっと首筋に鳥肌が立つような感覚がした。
そんな関平の気持ちも知らず、女官は耳元に唇を寄せ、囁いた。


「…関平様、」
「っ、すまない!!」
「キャッ!」

これ以上触れられたくはない。そんな気がして関平はすっくと立ち上がり、白い手を振りほどく。
いきなり動いた関平にびっくりした女官は小さな悲鳴を上げて後ずさる。

こちらを見上げるうるんだ瞳が怯えていた。

関平は毅然とした態度で女官と向き合う。


「…すまない。私には…一切、お前への気はない。そのような対応を望むのなら、他の者へ付くように拙者から言っておく」
「か、関平様、申し訳ありません、私は、」
「それと…これも返そう。お前の気持ちには応えられぬ故、拙者が持っていてももったいないだろう」


すがりつくように近寄ってきた女官をすげなくあしらうと、関平は守袋を返した。

見れば見るほど美しい刺繍だ。きっとたくさん時間がかかっただろう。しかし関平には、もうその刺繍を見ても何ひとつ心を動かされはしなかった。
女官はさめざめと泣きながら「申し訳ありません、どうか、」と言っていたが、関平はもう何も聞いていなかった。

そのまま女官を部屋に残し、自身はそこを飛び出した。


目の前の女官の涙より、大切な者の涙をぬぐってやるべきだ。関平はそう思って城の中を駆け出した。







思えば成り行きみたいなものだ。

傷心の関平を成り行きでとっ捕まえて、成り行きで恋人同士になった。

もう私は若くもないし、あの女官のように刺繍が上手でも、控えめな性格でもない。
関羽様と私の父上が友人だから、昔から関平とは友達のように接してはいたけど、それだけだ。
その間もずっと関平の視線は星彩へ向いていた。私はそれをずっと見ていた。

もともと私は関平の好みではないんだ。

恋人同士になれたのも、成り行きで仕方なくなんだ。

……部屋を出た時、ちょうど関平の女官とすれ違った。

きっと今ごろ、関平はあの女官と……。

最悪な想像が頭を駆け巡り、ヒトミはまた一つ涙をこぼした。


「バカみたい、私、一人で舞い上がって」

手の甲で涙を拭って、はぁ、とため息をついた。

ヒトミの眼前には大きな湖が広がっていた。
そこは以前、傷心の関平が膝を抱えていた場所と同じだった…。

思い出の場所だからこそ、涙もどんどん溢れてくる。

ああ、もういっそ顔を洗ってしまおうか。そう思っていると、背後から聞きなれた声が耳に飛び込んできた。


「……関平と付き合ってる気になっていたけど、きっとそれは、私だけだったんだ…」


「ヒトミ!!!」



関平の声だ。反射的に振り向いてしまう。
関平はわき目もふらず、ただこちらに向かって一直線で走ってきていた。

なんで、どうして、あの女官は?
さまざまな思いがかけめぐって、先ほどとは違う感情の涙が溢れてきた。

関平はヒトミの前で立ち止まると、しばらく息を整えるため顔を伏せていた。
…一体どこからどこまで走ってきたのだろう。

関平がフッと顔をあげたとき、その強い視線と目が合ってドキッとした。
やっぱり私は関平が好きなんだなと実感する。


「か、関平。今まで恋人面してごめんね…明日からは………んっ」


顔を逸らして言うと、関平がぐいっと肩を掴んで急に口をつけてきて言葉がとぎれる。
そっと離れた唇の温かさに何もいえなくなっていると、関平がヒトミの肩を掴み顔を近づけたまま、真っ赤な顔で言う。

「……拙者は、恋人だと思ってない女人になど、口づけしたりしない」


「か、関平」


いきなりのことにヒトミは頭が働かないようだった。
付き合ってからというもの、関平のほうから恋人らしいことをされたことは一度もなかった。
ヒトミがねだれば応えてくれるが、相手から動くことはない。

それが今、強引とも思えるやり方で口付けをされて、驚きと嬉しさでヒトミは口をぱくぱくさせるだけだった。


「…すまない。拙者は…ヒトミの優しさに甘えてばかりだった」


関平は本当に申し訳なさそうに言った。
それだけで、ヒトミは全てのことを許してしまいたくなった。


「しかし、ヒトミは一つ勘違いしている。拙者も、拙者は…ヒトミのことを…恋人だと思っているし、あ、あ…愛している」


関平の顔は本当に真っ赤だった。
戦場や修錬場で見せる勇ましい姿や、部下の兵達を相手にするときの頼もしい姿。
そんな姿とは全く違う、ご家族以外ではきっとヒトミしか知らない関平の素顔だった。


「拙者の情けない姿や、頼りない姿を見ても、ヒトミは何も言わなかった。それどころか、拙者を励ましてくれた。…ヒトミがいてくれて…本当によかった」


関平はヒトミの目を見てゆっくりそう言うと、優しく抱きしめた。
こんなに体が大きいのに、心臓は痛いくらいにばくばく動いている。
ヒトミは関平が愛しくて愛しくてたまらなくなって、背中にそっと手をまわす。
すると、ヒトミの体を抱きしめる腕の強さが一層強くなった。…ちょっと苦しい。

「ヒトミ」

「ん?」

「その…もう一度。してもいいだろうか」

「……ん」


関平のねだるような声に応えて、ヒトミは顔を上げ、関平のほうに向ける。
控えめな口付けが降りてきて、すぐ離れた。

照れ隠しなのか関平はヒトミをもう一度強く抱きしめた。
関平の厚い胸に包まれていると、なんだか怒っていた自分がばかみたいに思えてきた。


そもそも関平が女官に惚れられるなんて、当たり前のことなのだ。
だってこの私が青春時代を全て捧げた最高の男なのだから。

守袋なんて勝手にさせておけばよかった。
関平がここまで言ってくれるなら、なにも怖くない。
不安になる必要なんてない。そう思えた。


「…いつだったか」
「ん?」

2人はしばらく抱きしめあっていたが、ふいに関平が呟いた。
幸福に包まれてまどろんでいたヒトミは、少し眠そうな声で返事をした。
関平はヒトミの頭を、愛おしそうにそっとなでた。

「いつだったか、ここで膝を抱えていたら、ヒトミが来てくれた」

ヒトミと関平が付き合った日のことだ。
ヒトミはぱちっと目をあけて、視線だけで関平を見た。

「………うらんでる?」
「まさか」

関平は軽く笑った。


「その時拙者を救ってくれたのはヒトミだ。だから拙者も、ヒトミを救いたい」


その笑顔は、ヒトミが大好きな関平の笑顔そのものだった。


「…許してくれるだろうか?」

「いちいち聞かなくていいよ…」

「わかった」


関平は笑って、ヒトミを強く抱きしめた。だから、少し苦しいっていうのに。
その苦しささえも、今はなんだかどうでもよい。
体いっぱいに関平を感じて、ヒトミは幸福に目を閉じた。

できることなら、この瞬間がずっと続いてくれればいいなと思った。
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