こころやまい▽2017/01/19(Thu)
臆病者の心情
飛び込むとふかっとした感触に包まれる。次いで鼻孔をくすぐるのは埃と彼の人の匂いに他ならない。懐にしがみつきながら、猫のようにごろごろ喉を鳴らしつつ温もりを堪能する。素面ではこんな大胆な態度を取れない。僕は弱虫で意気地無しで卑怯な人間だから。
先生は何も言わない。彼の顔を直視出来なかった。どんな表情でいるのかすら僕は知らないままでいる。呆れているのか怒っているのか、困っているのかそれ以外の感情を抱いているのか。お酒の入った頭ではまともに思考することすら不可能だった。まどろみに沈んでいく。
ちゅっ、と微かなリップ音が遠くで響いた。否、正確にはすぐ近く。吐息のかかる距離で放たれたそれに、僕は僅かに目を見開かざるを得ない。ふ、と細められた先生の眼は嫌になるほど美しい。薄い唇は柔らかく弧を描いていた。再び巡りあう口唇に、これが夢であったならと思ってしまう。
僕は意気地無しだから。卑怯な人間だから。先生が酔った僕に口付けを贈っていることに気づいていてなお、知らんぷりするのだ。先生も弱虫だから、これ以上のことはしてくれないのだ。
お互い一歩を踏み出せないままでいる。ぼやけた輪郭を指先でなぞるみたいに無駄な行為だ。
(僕は先生が好きだけど)
僕が踏み出さないその理由はあまりにも残酷で。
(僕が好きな先生はもうこの世にいなくて)
あんまりにも都合がいいのではと勘繰ってしまうから。
(目の前にいる先生は先生であって先生じゃない)
抱きしめ返してくれない先生は、何かを悟っているのかな。
▽2016/12/26(Mon)
とある狂人の話
あまりにも唐突すぎたので反応が遅れてしまった。なんで貴方が、と問いたくても、渾身の力で首を絞められて言葉すら発することが出来ない。カエルが潰れたような滑稽な呻き声だけが口の端から漏れている。
ぎりぎり、と白手袋に覆われた両方の拳が僕の喉を力いっぱい絞めていた。きっと痕が残ってしまう。頭のてっぺんがカッと熱くなって、視界の隅っこが白色に染められていく。これは、まずい、しぬ、かも、しれない。
意識がとぎれとぎれになったところで、男は手を緩めた。一斉に流れ込んでくる酸素に肺は耐えきれず、じりじりと焼ける痛みを訴える。僕はみっともなく咳き込んだ。ぱっと世界に色が灯る。死なずに済んだ。彼を人殺しにせずに済んだ。心の底から安堵したものだから、目尻に涙が浮かぶ。
「……江戸川、さん」
未だに信じられなくて、乞うような態度で名を呼ぶと男はふっと目を細める。そこにいつもの彼は存在しなかった。
心神喪失の状態とは、こうも人間を変えるのか。恐ろしい。あまりにも、あまりにも恐ろしい。人の心というものは。
病むと嬉嬉として司書の首を絞めに来るうちの江戸川さん。
▽2016/11/30(Wed)
執着のこころ
「先生、僕はあなたが好きなんです。もうずっと待ちぼうけているから僕は時間の感覚がわからなくなりつつあります。先生、拝啓先生、僕が愛した先生。寂しいです。たとえあなたが僕のことを見てくれなくたっていいんです、ただこの図書館に存在してほしいだけなんです。先生、なんで来てくださらないのですか。あなたに語りたいことが沢山あるんです。寂しくて涙すら出てきません。僕がお嫌いですか。ああ、そうだね、こんな人間じゃあダメだね。ごめんね先生。それでも好きなんだ」
ぐしゃぐしゃに濡れた毛布にくるまってごねている司書の背中を優しく叩くのは、決まって森の仕事だった。
森は元軍医である。精神的に不安定な司書の様態を監視するよう館長から命じられるのも、恐らくはきっと必然だったのだろう。
森には、傍らで泣き言を漏らす司書の気持ちがわからない。分かりたくもない。けれど自身のことを(屈折した、されど真っ直ぐな)父と呼び慕うこの人の子を、見捨ててはおけないのだ。
▽2016/11/24(Thu)
先生は寿命
忍び寄る足音には気付こうともしない。死ぬ勇気はあるくせに心中はごめんだと宣う彼のことを、たとえ敬愛する先生にも渡せないと強く思ってしまっていたのだ。
静かに眠る傍ら、白い肌を指が這う。手の甲に巻かれた包帯は赤茶けた血が滲んでいた。
「芥川先生が好きなくせに」
こんな時にしか吐き出せない本音は、煙草の煙みたいに宵闇へと溶けて消えていくのだ。
(芥川先生が、俺たちの寿命そのものなんだろう)
来たるべき日が来てしまったら、うまく笑えますように。
▽2016/11/20(Sun)
面白くない
黒い液体が辺りに擦れてしまっている。彼の瞼は随分と泣き腫らした後のようで、ほんのりと赤紫色に変色していた。中原はたまらず舌打ちをする。つまらないのだ。何が、とまでは言わないが。
彼の懐には芥川龍之介の河童が抱かれているが、染み込んだ涙でぐにゃぐにゃとふやけていた。ぐすり、と鼻を鳴らす音。
「……お前よぉ」
そんなになるくらいならやめてしまえ、と言いきれない自分がいた。
中原は顔色を陰らせている。己の抱く感情の名に、気付こうともしないで。
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