それは突然だったと言えばいいんだろうか。 身に纏う空気が変わったような、周りの景色が旋回したような…。 言うなればそんな感じだったと思う。 「あ、あれ春瀬さんじゃない?」 「ほんとだ珍しい」 「前に見かけたのいつだったか覚えてる?」 「さぁ、でも一ヶ月以上は前よね」 詐欺とも言える姿かたちで、こちらの様子を窺っている女生徒たちの前を通り過ぎる。 ひらりと軽やかに踊る腰元の布地。 歩くたびにはたはたと揺れる胸元のネクタイが、これでもかという程に今の私の姿を認識させた。 ―――そう。「詐欺」ではなく、文字通り魔法に掛けられたかのような姿かたちをしている自分。 それは、十年前に終わったはずの見紛うことなき自分の姿だった。 「ああ、春瀬さんね。よかったわ、教室行く前にちゃんと顔出してもらえて」 「……毎回申し訳ありません」 「いいのよ気にしないで。教師含め生徒たちもわかってるから」 「…ありがとうございます」 柔和な所作で目の前の女性にお辞儀をする。 すると、いわゆるこの世界で私の担任に値するその女性――萩野先生は、苦笑の表情を浮かべながらこちらに向かって笑みを向けた。 「これ、休んでいた間の課題と授業内容。わからない所は…いつも言っているけれど遠慮しないで聞きに来ていいのよ?」 「はい」 手渡される書類を受け取りながら、萩野先生に返答をする。 私は、萩野先生の困ったような表情を目の端に捉えつつ、内心真っ白な気持ちで話を聞いていた。 十年も前に経験した学習を、本来なら同年代の萩野先生にどうして聞くことができるんだろう。 そんな考えを抱き悩んでいた頃が随分と懐かしい、と思ってしまったから…。 「このプリントはできれば明日まで、こっちは来週中でいいわ。それとこの問題は少し難しいと思うんだけど、課題で皆にも出してあるから、頑張ってみてね」 使っている教材、場所、人、環境すべてが違えど。 見知った公式、文、著名人、記号や動作は、すべて同じ。 必死になって覚えたそれらを再び「教えてもらう」なんて、本当におかしな話だ。 笑顔を向けながら、こちらにプリントを差し出す萩野先生をじっと見つめる。 幾枚ものプリントを受け取ると、落ちそうになった一枚のプリントを束の中に戻した。 「今回は問題プリントがたくさんになっちゃってごめんなさいね」 「いえ…、ありがとうございます、萩野 "先生”」 でも、だからといって何かを思うことなんてしない。 この状況を繰り返すことに何かを思うなんてことは、もう随分と前に辞めてしまった。 随分と前に、あきらめてしまった。 「そろそろ始業時間ね。春瀬さん無理はしないでね。体調が悪くなったらすぐに周りの人に伝えて頂戴」 「はい、」 「それじゃ、また後でね」 「失礼します」 ぺこりと小さく頭を下げたのち、閑散とした職員室を後にする。 すでにほとんど人がいなくなっていた職員室は、学校という場には似つかわしくない程の静寂に包まれていた。 カラカラと無骨な音を立てて閉じた扉が、この洗練された校舎からひどく浮いているようだ。 私は今一度お辞儀をすると、完全に景色が遮断された職員室に背を向けた。 「……」 自分の教室へと続く数十メートルの廊下。 始業間際も相俟って、静寂だけが広がっている。 右手には、学校掲示板と過ぎ去るいくつもの扉。 左手には、二階窓から眺める校庭の景色と周囲の街並みがある。 その双方に挟まれ歩いていく道は、気味が悪いほどに異質なものを思わせた。 そうして、たどり着いたひとつの真っ白な扉。 「…、」 先ほどとは異った、乾いた音を立てて開いたそれは、滞りなく且つ優雅に教室への道を拓いていく。 私は躊躇なく開いたその先に足を進めると、「あぁ、また始まる」、そんな常套句を脳裏に思い浮かべた。 「春瀬さんよ」 「久方ぶりになるわね」 集まる視線を受け流し、静かに席に着く。 決して掛けられることのない声を耳にしながら、わたしは窓の外に視線を投げた。 「席について、授業を始めます!」 「起立!、礼!」 「「「お願いします」」」 そして、いつの間にか始まった授業に身を落とし。 「早く終わらないかな」、そう思いながら茫然とした一日を過ごしていくのだった。 5月20日。 本来なら土曜の休日だったはずの日。 私は、まったく見知らぬ学校の見慣れつつある教室で、中学生という安易な時間を過ごした。 知らない過去の世界