気づけばいつの間にか知っていた。 それくらいの認識だった。 だか、いつからだ。 あいつが来る日を待つようになったのは。 あぁ、そうか……いや忘れるはずもねェ。 俺様がアイツを初めて目にした日、だったな。 「跡部君?少しいいかな」 「はい、学園長」 生徒会室で書類に向き合っていたとき、不意に掛けられた声に俺は即座に居住まいを正した。 俺様と言えど礼儀は弁(わきま)えている。 俺は、会室内のソファに学園長を促すと、一礼をしてから自身も腰を降ろした。 「君も2年という若さで会長という任をよくやってくれているね」 「ありがとうございます」 「それで早速本題なんだが、実はね、本来なら君と同学年の子がもう一人在籍しているはずなんだ」 「……それはどういうことでしょうか」 「端的に言えば、この学園の中等部に入学してからまだ一度も通ってない生徒がひとりいるということだね」 背凭れに深く腰掛けながら笑みを浮かべる学園長。 正直、俺はこのときなぜ学園長が俺にこんな話題を持ち出してきたのか不思議でならなかった。 だが会長という立場を踏まえれば、生徒の情報を把握しておく必要があることもわかっていた。 ただ今考えれば、可笑しなことだったのかもしれない。 全生徒の情報を把握していたはずの俺様にすら、知られていなかった生徒の情報だったんだからな。 「それで、俺に何を求められているんでしょう?」 「はは、君は本当に話が早い子だ。いやね、別に何を頼むということではないんだ」 「それでは……」 何のために俺にこの話を? 学園長は俺の言葉を聞かずして、その顔に笑みを携えた。 「一応ね、今年から通えるそうなんだ」 「……通え、る?」 「あぁ病気だったからね」 「…そうでしたか」 「あぁ。相手のプライバシーを考えてこれまで黙ってきていたが、今年から頻度は少ないだろうが、通うのであれば彼女も間違いなくうちの生徒だ。だから君にも、生徒を統べる立場の人間と見込んで話を通しておきたかった」 そう言葉を締めると、徐に腰を上げる学園長。 俺は了承の旨を伝えると、ゆっくりと会室の外へと向かう学園長に一礼をした。 「あぁ、それとね跡部君」 「はい」 「その子、ひどく秀才なんだ」 「……はい」 「よろしく頼むよ」 カチャリと静かに閉じられた扉。 俺は、学園長のいなくなった部屋で深くため息を吐くと、再び執務机へと腰を降ろした。 そしてやり残した仕事に手をつけた。 「……秀才ね」 それから数週間経った頃。 夏の大会に向けての準備に勤しんでいた俺は、正直そいつの存在を忘れかけていた。 「なぁ跡部ー、お前んとこって萩野先生だったか?担任」 「なんだ急に」 「いや、だってなんか萩野先生がこっち向かってきてるぜ?絶対俺じゃねーだろ?」 「お前の担任じゃないのか、岳人?」 「ちげーよ、てかほらやっぱお前じゃね?フェンスんとこに来てるぜ」 部活終わりの時間。 俺は岳人の指差す方向に目を向けると、確かにそこに女教師の姿を見止めた。 どうやら俺の方に視線を向けていることから、コイツの予想は的中らしいな。 俺は、滝に後を任せると、テニスコートからフェンスの外へと出て行った。 「ごめんなさいね跡部君、部活中に」 「いえ、それより何か急用でしょうか?」 「いえ、急用という訳でもないんだけれど。学園長からあなたには話を通しておくようにとのことだったので」 「学園長、ですか?」 「ええ。もう聞いてはいると思うんだけれど、春瀬さんが明日から登校することになったの」 「……春瀬………」 俺は萩野先生の口から告げられた名前に眉間の皺を寄せた。 春瀬……、それは初めて耳にする名前だったからだ。 「あ…えっと、例のずっと入院していた子よ」 「あぁ。一年の頃から出席できずにいた生徒のことですね」 「そうよ。ふふ、あなた名前知らされてなかったのね、ごめんなさい」 「いえ」 そう言えば名前聞いていなかったな。 それに、そいつの話を聞いたのも随分と前のことだ。 忙しさに捲かれて頭の隅へ追いやり過ぎていたらしい。 俺は、萩野先生に小さく首を振ると、明日の詳細を尋ねた。 「あぁ、でも別にあなたと同じクラスってわけでもないから、特に何ってわけでもないのよ。ただ、もし何かあったときにはおそらく会長として動いてもらう時もあるかもしれないから。だから学園長もあなたに報告するように言ったんだと思うの」 「そうですか」 「まあ、実際は関わることないと思うけれど、取り敢えず知っておいてもらえると助かるわ」 「わかりました。わざわざありがとうございます」 「こちらこそ、部活中に申し訳なかったわ。試合楽しみにしてるわね」 「はい」 「それじゃ」と軽く手を上げ去っていく萩野先生。 陽が延びた初夏近くの夕刻の中、俺は一人残されたその場に立ち尽くし柄にもなく夕焼けに目を細めた。 そして、テニスコートに足を進めながら、取り敢えずその春瀬という名を頭に刻んだ。 「やっぱ来とったんかいな」 「……忍足か」 「えらい早いなぁ、部長やのに」 「朝練に立場は関係ねェだろ」 「せやけど、毎朝一番て、跡部さすがやなぁ」 「……喋ってる暇があるならさっさと準備しろ」 翌朝のテニスコート内。 日課である朝練に精を出していれば、必ず最初に出くわす男に声を掛けられた。 毎度毎度よく話掛けるな。 早すぎる時間に余裕を持っているのか知らねェが、口を動かすんなら身体を先に動かしやがれ。 「……はぁ」 壁打ちの練習が終わった頃、支度を終えた忍足が球を4球抱えてこちらにやって来る。 ラリーに誘われ、断る理由もない俺は、素直に忍足に付き合ってやることにした。 「おい、忍足テメエやる気がねェなら出て行きやがれ」 だが、今日のコイツはやる気がなかったらしい。 まともにラリーを打っていたのは、ほんの最初だけ。 徐々に意識があらぬ方向へと向かっているのが手に取るように分かった。 俺は、ガットで球を受け止めると、忍足側のコートへと足を進めた。 そして、茫然とどこかを見つめ続けている忍足の頭部をラケットで軽打した。 「…なぁ、跡部……」 「アン?」 「この時間校舎ってまだ開いてへんよな」 「何言ってやがる」 無意識に打たれた箇所を撫でる忍足。 僅かに首を傾げつつ眉根を寄せる表情は、どうやら真剣だ。 俺はため息を吐くと、持ち上げていたラケットを腰に下ろした。 「あたり前だろ。早朝のこの時間に教師はまだ来てねェ。この時間帯に学園に入れる俺様が特別なんだよ」 「…せやなぁ」 すると、寄せていた眉根をさらに深める忍足。 俺は煮え切らない忍足の態度に苛立ちを覚えると、再度ため息を漏らした。 「跡部、あれ見えへん?」 「アン?」 「遠くてあんまはっきりとは見えへんのやけど……あれ」 「?」 そして漸く忍足の視線が俺へと移ったとき。 珍しくも何かを思案するような表情を浮かべた忍足が、どこか眉尻を下げながら俺の視線を校舎側へと促した。 「ひと、おるよなぁ」 「……」 俺は仕方なしに指される先へと目を遣る。 すると、ここからギリギリ見える程度の校舎内に、確かに他人の姿を見止めた。 あれは…… 「萩野…か?」 「それもそうやけど、その隣の子や」 「……見たことねェな」 「跡部もか」 遠すぎる校舎にぼんやりと映る人影。 それは確かにこの時間帯ではひどく珍しい光景だった。 ……それに、なんだ? 心臓が悲鳴を上げた気がした。 「跡部も知らんのやったら、転入生ってとこやなぁ」 「……いや」 「え?なんや?」 不意に感じた訳の分からない衝動。 俺はその衝撃に何かを否定するように言葉を漏らすと、隣で俺の声を拾ったらしい忍足の視線を感じた。 忍足がこちらに首を傾げているのがわかる。 その視線を振り払うように咄嗟に髪をかき上げると、俺は再び校舎の方へと目を向けた。 「なんや?どしたん跡部?」 「なんでもねェよ」 「それにしても、ほんま遠すぎて見えんけど、あの子相当の別嬪やで」 「……」 「こんな早う時間から登校なんて珍しいなぁ、それに萩野先生も」 「なにか理由があんだろ」 「理由なぁ、跡部知らんの?」 「……さあな」 俺はもう一度だけ校舎に一瞥をくれると、すでに見えなくなっていた人影を探すように瞼を閉じた。 「んなことより、練習再開するぞ」 「ま、転入生ならいつか会えるかもわからんしなぁ」 「忍足、ひと試合させろ」 「今からか?!」 「テメエの生温いラリーのせいで燻ってんだよ」 「勘弁してなぁ」 俺はポケットに入れたボールの一つを忍足の足元目掛けて打ちつけると、瞼裏に焼き付いた小さな人影を記憶に留める様に口角を上げた。 「始業まで付き合えよ」 「それはないで……」 5月20日。 初めて目にしたあいつは、小さな人影の大きな記憶。 口を利いたことも、近づいたことも、声を聞いたこともない。 そんなあいつをどことなく目で追うようになったのは、最初からだった。 最初も今もキミを知らない