異世界を信じるかと訊かれたら、間髪入れずに「いいえ」と答えるだろう。自分にとってあの庭が、ある種の別空間だったと感じていたとしても。それは、日常の空間とは断絶された、己の心の拠り所という意味であり、断じて異世界などと思ったことはない。物事の捉え方、対象に対する意識の仕方から生じる個人差で多少の差異はあれど、社会通念上では決してそんな結論には至らない。 だから、できればいつもの思考に戻って、いつものように大好きなあの庭で、木々たちに囲まれていたかった。裸足の足裏に緑苔の柔らかさを感じながら、桃の香りに包まれていたかった。 「……」 横たわっている身体に感じる、粒子の細かいビーズクッションのような柔らかさ。広げた両腕の袖口から覗く手に触れるのは、じりじりと焼けつくような表面的な熱っぽさ。裸足だった足には、お手製の中国布靴が履かれている。私は、空に面している自身の顔上に見える、青々とした雲一つない快晴にため息を漏らすと、あからさまな青々しさに喪心した。 清々しいほどの青さに、言葉も出ない。 ごろりと僅かな寝返りを打てば、背中に張り付いた砂たちがパラパラと散っていく。突き刺さる陽光から逃れるため、目を伏せてから片腕で光を遮断すると、米神に触れた腕の重さにささやかな心地よさを感じた。 「今日の空も……青い」 でもこんな青空は、知らない。 私の暮らしていた家には、綺麗な庭があった。庭と称するには、少し的外れのような気もするけれど、その庭は、私にとってひどく大切な場所だった。点在する多くの桃の木。咲き乱れる薄桃色の花。馨しい香りと芳醇な果実を実らせる木々たち。足元には、履物を必要とさせない分厚い緑苔が群生していて。そぼ濡れた冷たさと、躯体の柔らかさが裸足の足裏を擽ってくれた。一年を通してやさしい空気と雰囲気に包まれたその場所で過ごす休日は、生を全うする営みの中では欠かせないものだった。自分自身の体の一部。呼吸をするのと同じくらい、私はその庭とともに生きていた。 しかし、その生活がたった一瞬で無くなった。 眩まされた視界から、視力を取り戻したとき。大嫌いなその世界から戻ったとき、それはすべてを変えていた。青々とした雲一つない空だけをそのままに、私という個体ひとつを残して、周囲にあったものすべてが変わっていたのである。 肌を晒した頬に感じる、浜辺特有のじんわりとした温かさ。これは、内陸に暮らしていた私が知らなかったもの。未だにパラパラと落ち続ける背中の浜砂も、一度も県外に出たことのない私が知らなかったもの。容赦ない陽光は、少し前まで感じていた春終わりの太陽とは全くの別物で。そぼ濡れた苔の冷たさがもたらすやさしい空気も、今ではカラりと乾びていた。先ほどから始終鼻を掠めるのも、まったくと言っていいほど、己の知らない香り。ザーザーと途切れ消えることのない、海水の打ち引き音だけが響くここは、あの庭の片鱗もない。ただそれだけだった。瞬きの内に周りすべての景色を変えたここには、たったそれだけしか存在していなかった。 異なる世界なんて、非現実的なモノを信じる気にはなれない。けれど、どんな一般常識に則って、あらゆる可能性を模索しても、最終的に辿り着いてしまうのが、その信じられないような見解。私が今、寝転がっているここは、一瞬の瞬きの内に現れた、それこそ内陸にあった自分の家からは想像もし得ない、真っ青な海に囲まれた孤島だったのだ。この事実をどうして、「異世界」以外の説に当て嵌められようか。夢でも見ているのなら、夢落ちで目が覚める。如何なる説明も、夢ならいくらでもこじつけられるのだ。けれど、周囲の全てがその姿を変えてしまってから、もう随分と昼夜の交代を見てきた。こうして寝そべりながら、清々しい青空を見て、青から黄、黄から橙、蒼、濃紺、黒と、恐ろしいほどに美しい色の移り変わりを目にしてきたのである。つまり、「ここはどこだ」「これは夢だろうか」などという愚かな疑問を抱く段階は、遠の昔に終えてしまっていたのだ。 明確に幾日とは明言できないけれど、私は今現在、そんな理解の範疇に及ばない、海だけが支配する浜砂だけの孤島に、何日も寝転がり続けているのである。 凄まじく長いため息が放たれる。砂浜に面して顔を横に預けていたから、息を吹くのと同時に、目の前の粒子も押されるように移動した。 こんな所でゴロゴロと……一体何をやっているんだろう。 何日も何日も変わらずにゴロゴロとして。 鏡がないからわからないけど、もう随分と陽を浴び続けているから、きっと次に自分の顔を見るときは、コッペパン並みの顔色が映ることを覚悟しておいた方がいいだろう。 髪も潮風でギッチギチになって、乾燥ワカメ以上の面白さを誇っているはずだ。 地面に伏していた脇腹とは反対側の腹筋に力を込める。下腹部と腰の筋力にも少しの力を入れて、「ふっ」と小さな声を漏らしながら、のそりと身体を反転させた。再び青空を仰ぐ仰向けの体勢をとる。すると、開けた視界に入るのは、またも相変わらずな長閑な空。ここに来てから幾度となく見上げてきたそれに、さすがの私も嫌気が差してきた。何もかもを見透かして、ただそこで傍観しているだけのそれに、ついに苛立ちを覚えたのである。 「……?」 しかし、沸々と湧き上がるかと思われた苛立ちは、呆気なくもその鳴りを潜めてしまった。苛立ちに顔を歪め、いざしかめっ面を作ろうとした途端、細まり始めていた視界に薄桃色の何かが過ぎったのだ。 咄嗟に体を起こし、薄桃色が飛んで行った方向に顔を向ける。急激に体を起こした衝撃で若干頭の中が揺れたが、毛ほども気にせずに、必死の形相でその正体を追いかけた。 どこに消えたんだ?確かに見たと思ったんだけど……。 幸か不幸か、バランスを崩しながらも急いで立ち上がって追いかけた薄桃色は、足を踏み出した瞬間に視界から消えてなくなった。慌てて周囲全体に目を配るが、そこに見えるのは青と砂浜だけ。夏色一色のその場に、春色は一向に見当たらなかった。 やっと訪れた変化なのに。 やっと帰る手掛かりが飛んできたと思ったのに。 ズシャリ、と半分砂に埋もれた状態で足を止める。立ち上がったことで、久しぶりに感じる踵への体重が気持ち悪い。些か諦めるのが早い気がしないでもないが、あっという間に消えてなくなってしまった薄桃色に比べれば、まだましな方だ。私は立ち止まったその場でもう一度だけ辺りを見渡すと、落胆に肩を落とす結果になることに深いため息を溢した。 さっきのは、見間違いだろうか?それとも、私の頭がイカレ始めているのか。まぁ、精神がやられるにしても頭がやられるにしても。もう何でもいいから、元に戻してくれないかな。 「……はぁ」