小学生、中学生、高校生、もしくは大学生。 戻れるならどの時期に戻りたいかと問われれば、きっと私は「そのどれでもない」と言っただろう。 時間の遡りなどいらないから、何かを元に戻してくれるなら、ぜひとも今のこの生活を元に戻してくださいと、言ったはずだ。 「条件として、0≦n≦mを満たすすべての整数nについて二項係数mCnを―――……」 日本一難関と謳われる東都大学の過去問題。 分厚い問題集を片手につらつらと難儀な口上を述べていく教師の話を、周囲にいる生徒たちは「一言一句聞き漏らすか」とばかりに鉛筆を動かしていく。 カリカリと鉛筆とノートのぶつかり合う音が響く中、唯一言葉を発する権限を与えられている大人が「春瀬」と声を掛ける。 すると、条件反射とでも言わんばかりの勢いで、途切れた教師の声とともにカリカリ音は徐々に収束していった。 呼ばれた生徒が気だるげに顔を黒板に向け、教室中すべての意識がその生徒に集中していく。 指名された生徒が椅子を引いて立ち上がれば、次に予期されるアクションも必然とわかりきっており、自然と生徒たちの視線は前方へと移動していった。 「春瀬、この問い解けるか」 「…はい」 ジェスチャーだけで黒板への記入を求めてくる教師。 前方に記載された問題を一瞥した生徒は、緩慢な動きで教壇へと移動していき、受け取ったペンで問題の答えをさらりと書き綴った。 「正解だ」 書き終えた答えを確認することなく、春瀬と呼ばれた生徒が席に着いていく。 少しばかり意地悪をして、高校一年生には些か難しいであろう問題を出題したつもりだった教師は、内心舌を巻きつつ正しい解答を導き出した生徒を褒めたたえた。 まばらに鳴る拍手の音。 開け放たれた窓から聞こえてくる「ピィ―――」という声高な笛の音が、グラウンドで行われている体育の授業を思い起こさせる。 スカートに皺が寄らないよう腿下の生地を伸ばしながら自分の席に着いた生徒は、再開された授業に頬杖を突いた。 「nが〜であることを考えると……」 遠くぼんやりと聞こえる声。 再び教室を充満し始めた教師の口上に合わせて、止まっていた鉛筆音もおのずと再開される。 横から入り込んだ風が手元の教科書を幾ページか巻き戻していくと、それに釣られるようにして、肘をついた生徒も眠りの淵に立たされていった。 * これが今の日常。 春瀬と呼ばれた生徒の日常。 目覚めて、着替えて、仕事に追われていたあの頃から随分と遡ってしまった、今の日常だ。 今の日常