月曜日の夜、近所の灯りも街灯を残すだけとなった頃、私は茶色の麻袋を片手に整然とした住宅街を歩いていた。 連日の晴天により、空気は乾きコンクリートも乾びている。 そういえば、今朝の天気予報で「過去に類を見ない稀有の事象」だと言っていた。 梅雨の時期であるはずの六月に、干天(かんてん)日和が続くなんて、気象庁も予測できなかったと。 最近では災害予報なんてものもでき、スマートフォンにプッシュ通知で事前に危険をお知らせしてくれるという機能ができたらしい。 なんとまあ、便利な機能があるものだと思ったが、外れることもしばしばで、世間では批判も多々あるとかないとか。 今回のことも随分とニュースになっているが、世の中間違えるくらいがちょうどいいんじゃないかと思ったりもする。 何が起こるかわからないから、備えあれば憂いなしということにもなるんだし。 小指に引っ掛けてきた軽量型折り畳み傘も、それでこそ役割を持てるというものだ。 ワインボトルが二本と、箱から出された丸裸の膨大なティッシュペーパーが詰められた麻袋を一瞥する。 瞬間、学生の身丈である自分を、こんな夜更けに放り出した奴の顔が脳裏を過った。 『いいじゃないかー、俺の可愛いむ・す・めだろう?』 そう言って人を扱き使う彼奴は、毎度の事だが、本当に私のことを娘と思っているのかどうか怪しいものだ。 鼻の下を伸ばして近づいてくるときは本当に信用ならない。 今度から口を閉ざしてしまおう。 キキイーッと耳を擘く音が、遠くから聞こえる。 こんな時間に自転車の音か。さすが都会だな。前に旅行で行った地方とは相容れない夜だ。 私は一度だけ背後に目を向けると、全く人気のない夜道をとっとと進んでしまおうと無心になって足を進めた。 「ルナちゃ〜ん!おはよう!!」 「おはよう、黄瀬さん」 「おはようございます、高遠さん、小林さん」 翌朝、学校の昇降口で一年の頃同じクラスだったクラスメイトに声をかけられた。 二人して腕を組み、こちらに笑顔を向けている。 変わらず仲良しの友だちのようで何よりだ。 二人に挨拶を返し、教室へと向かう階段に向かって行く。 すると、背後から大きな息切れとこれまた去年同じクラスだった女の子の声が聞こえてきた。 「おはよう〜…直、美緒…」 「おはよう!香穂ちゃん」 「香穂、朝から走ってきたの?」 「あはは…寝坊しちゃって」 遠ざかる声が賑やかな喧騒に呑まれていく。 朝の学校は決して心地の好い場所とは言えないが、周りの騒がしさに誰かの声が掻き消されていく様を感じるのは、何度体感しても気持ちの良いものだ。 変な趣味だと揶揄されようが、なぜかこれが好きなのだから仕方ない。 学生鞄を右手から左手に持ち替えると、私は教室扉へと手を掛けた。 「ねえねえ聞いた?コンクールが開催されるんだって」 「ああ!なんか伝説があるコンクールでしょ?」 昼休み。朝に鳴ったガリオンと校内放送により、普段にも増して学校内が騒がしさに包まれていた。 「ルナー、昼行こ」 「うん、今いく」 一年の頃から、不思議と付き合いのある友人−−水守鶯(みもり うぐいす)が教室前に現れる。 脱力感満載で至極面倒くさそうに立っているが、あれはあれで一人でご飯をとるのが苦手という不思議な癖を持っている。 退廃的で人を寄せ付けない雰囲気を纏っているからか、あまり人は寄り付かず、私以外の人間と接しているのを見たことがない。 二年で別のクラスになり、付き合いもなくなるかと思っていたが、こうして毎日彼方さんが迎えにくるので、それも杞憂に終わった。 私は、一人分にしては大きな弁当を鞄から取り出すと、未だ盛り上がりをみせるクラスから颯爽と出て行った。 「今日の弁当なにー」 「ジャンバラヤ」 「…また知らないヤツ」 「鶏肉たくさん載せてきたから食べ応えはあるよ」 「それは楽しみかなー」 「そう言ってくれると思った」 「好きだからね、肉類」 芝の広がる庭、お決まりとなっている針葉樹の元に腰掛ける。 この学校はどこに行っても喧騒が転がっているが、ここなら多少の静けさが得られる。 目の前では、多くの学生が各々の昼休憩を楽しんでいる。 けれど、外特有の自然音に遮断され、彼らの声もここまでは届かない。 手慣れたように弁当を要求してくる大きな手に弁当箱を載せると、私は好い感じに味の染みた米粒たちをスプーンに掬った。 「680万…」 「…?」 「振り込まれたよ、昨晩」 「…ん…わかった。あとで確認しておくよ」 スプーンを口に入れた途端、遠くを見つめながら口を開いた鶯。 言葉にされたのは、高校生の身分にしては多額の金銭的情報。 瞬時に頭の中を巡った先日の出来事を思い起こすと、言われた事柄に納得がいった。 しかし、だからと言って今この時に言わなくてもいいじゃないか。 鶏肉を噛み、弾力のある表面と歯が接合しているこの時に。 依頼を受けるのが鶯の仕事であっても、こっちは実行する方なんだぞ。 いつもいつも、食事時に仕事の話はするなと言っているはずなのに。 わざとか。 「また別件の依頼がきてるから、それも近々返事ちょうだい」 「…」 「近親相姦だって。世知辛いねー」 「……」 決定だな。こいつ。 私は、完全に噛み潰した鶏肉を嚥下すると、ジロリと鶯の横顔に黒目をぶつけた。 「もういいよ。簡潔に内容教えてくれる?」 「うーん、いいよ」 「…」 一言も噛まずに、咀嚼音を付随させながら説明を始める鶯。 一体どういう口をしてるのかと不思議に思わないこともないが、鶯に不思議を抱いても一度として答えが出た試しがない。 無駄骨を折るだけになる疑問を横に流し、とりあえず鶯の言葉に両脳を機能させると、私は今回の依頼を断ることに決めた。 「迷わなかったね」 「そういうのは受けないって決めてるからね」 「そーゆーと思った」 「返事もしてないのに前金を寄越す客は好きじゃないんだ」 「大体面倒ごとだもんねー」 「話を聞く感じ、必要性の感じられない仕事だよ」 ぽりぽりとホッキーを前歯だけで食べていく鶯。 私の出した答えに全く驚いていないところを見ると、ある程度は予測していたのだろう。 それに、いつもの茶封筒を持ってきていない。 初めから分かっていてこの話をしたな。 「断るの面倒だな〜」と次のホッキーを袋から取り出す鶯に、呆れたため息が出るのも仕方ないだろう。 「それが鶯の仕事でしょ」 「うーん」 「明日は好きなの作ってきてあげるよ」 「えー、じゃあ断ろう」 「…」 制服の懐から真っ黒のスマホを取り出し、ピッピと番号を打って耳に当てる鶯。 数秒後には「先日の件はお断り申し上げます。ご希望に沿えず申し訳ございませんでした」と、詐欺まがいの言葉を並べ立てる別人に成り代わっていた。 誰だお前。 慣れたものではあるが、いつ聞いても別人だ。 食後のデザートに持ってきていた苺のドライフルーツを口に放り込むと、私は、電話を終え笑顔を浮かべた鶯に「ご苦労様」と別に用意していた生の苺を鶯の口に投げ入れた。 「あ、ルナ〜」 「ん」 「忘れてた、もう一件あったんだった」 「…」 口の端を小さな赤色に染め上げながら、にこりと笑った鶯。 思わず、苺をめり込んでしまった。 手渡された茶封筒に赤い汁が滴り落ちたが、どのみちこいつの元に戻るのだ。問題なかろう。 私は「これなら受けるよ」と微笑むと、ちろりと舌先を覗かせる鶯に「来週にやる」と一言告げると、茶封筒の中から契約印を取り出した。 「カツサンドよろしくー」 「…おうけい」