「最近よく眠るね」。そう言われてから気づいたのかもしれない。もともと眠ることは好きだったけれど、最近は自ら進んでベッドに入ることが多くなった。でも、たぶんそれは、あの夢のせい。目を覚ますと、何を見ていたのかは全く覚えていないけれど、いつも心がひどく落ち着いているから、温かくてとてもやさしい夢を見ているのだと思う。 そして、ほら。そんなことを思っていれば今日もまた眠くなる。ぼんやりと目が霞んで、どこかぬくもりに満ちた世界へと誘われていく。海の底に呑まれるみたいに、近くて、遠い… ―――あの世界へ。 地には着かない足。ふわり、ふわりとバレエを踊るように、軽やかな足取りで進んでいく。靄が掛かった森が周りに広がっている中を、私はゆっくりと進んでいく。「この場所も、もう随分と見慣れてしまった。今日は何が待ってるんだろう」。そう思いながら、ただ真っ直ぐに歩いて行く。 森を抜けると、ぽっかりと開けた空間に辿り着く。周囲の一切から断絶されたように孤立するその場所は、靄に囲まれた森の中に存在するはずなのに、なぜかそこだけ光に照らされていた。私は、その空間に足を踏み入れると、チラリと眼前を見遣った。虚の真ん中にポツリと立つ一本の大木。私は、慣れた足取りでその木に近づくと、カサリ、と音が聞こえた方に視線を移した。 そうすれば…ほら、見つけた。 「誰だ」 警戒心をむき出した、ひとりの怯えた動物を。 すごく、大きい。歯を軋ませ、鋭い眼光をこちらに向けている。でも大丈夫、夢だから。まったくこわくない。誰も私に触れられないし、誰も私を殺せない。ここに居る人たちはみんな、誰も私を知りはしない。だから、誰が居たってぜんぜん怖くない。 「…」 「…(こんにちは)」 音を奏でない口の代わりに、今日の尋ね人の前でゆっくりとお辞儀をする。そうすれば、さらにむき出されるピリピリとした空気。私はそれを肌で感じながら、今日現れた人に笑顔を向けた。ものすごく大きな身体をしているその人は、大きな獣の形をしている。ぎろりと睨みつける眼光が鋭く光っていた。 「…何者だ」 「(ごめんなさい、答えたくても答えられない)」 心の中で呟いた。だから、質問に笑顔だけ返しておいた。 でも、そうすると、大抵のひとはみんなその歪んだ表情をする。疑念、疑心、懐疑、殺意。「だれだお前は、何者だ」っていつも訊いてくる。そして、皆その手に持つ何かで襲いかかってくる。「殺すぞ」って言葉は、もう耳が痛くなるほど聞いた。でも、大丈夫。私には触れられないから、みんな私を殺せない。 「(怪我、してますよね)」 ふわりとその人の前に移動すれば、向けられるのは警戒。でも、これもまた慣れたもの。だから、警戒を向けられても、私は構わずその人に近づいていく。 どうしてかはわからない。けれど、ここに訪ねてくる人たちは必ず怪我をしている。大きな怪我を負って、命が尽きてしまいそうな人もたくさんいた。だから私は、この人がどんなにわたしを警戒しても、殺そうと襲いかかってきたとしても、構わずに近寄った。 「それ以上近づけば、殺す」 「(大丈夫です)」 「…殺すといっている」 鋭い眼光も、脅しの言葉も、何をされても大丈夫。だって、この人たちはいつも痛みに堪えているから。本当は、私なんかよりも怪我の方に意識が向いているのを知っている。 ゆっくりと私は自分の胸を指さした。「あなたのここ、怪我しているでしょう?」。そう伝わるように。 「…」 トントンと自分の胸を叩いてその人の方を指差せば、ほら、意味が通じた。大きな皺を眉間に寄せて、さらに懐疑そうな表情を浮かべるその人。「何を言ってるんだ」、とその人の眼は訴えっているけれど、私の考えは当たっている。 私は彼のその表情にほんの少し口角を上げると、目の前のその人は、懐疑に寄せた眉間の皺を一層深くしていた。瞬間、私はスッとその人との距離を縮めた。すると、咄嗟にグルルッと低いうなり声を上げるその人。瞳は鋭く、獲物を狙う猛禽類のような眼を向けられた。 「寄るな」 普通だったら、こんな鋭い眼を向けられたら怯んでしまう。けれどここは夢だから。何も感じない。だから、力の入らない右手を震わせながらこちらに向けても、意味ないよ。 (苦しいなら動かさない方がいい) 私はその人の胸に手を伸ばした。同時に、思い切り突き出されたその人の右手は私の身体を突き抜ける。 ぐさりと。突き抜けた。 「…!」 「(私は殺せないです)」 突き抜けた腕をそのままに、私は彼の胸に手を置く。 「何者だ」 触れられないもの、つかめないもの。この人たちにとっては人ですらないのだろうと思う。だから、笑顔で答える。 「(わたしですよ)」 「…」 その人の胸元に触れた手をやさしく押す。そして、「もう大丈夫、ゆっくりと息をしてください」と心の中で伝えると、私はスッとその人から離れて、お辞儀をした。「目を覚ましたときには、あなたの傷は癒えていますよ」と伝えながら。 「(またね、大きな、大きな豹さん)」 「…」 笑顔でお別れを告げれば、一瞬で先ほどの虚勢と猛禽類のような眼光を失ったその人。私が触れた瞬間に眠気が襲ったのだろう。グルルッと再び唸りながら眠気を堪えていた。けれど、こちらを睨む眼はすでに微睡だ。「くそ」なんて小さな声も聞こえたけれど、徐々に瞼を閉じていく彼は、悪態を吐きながらも襲われる眠りに落ちていった。 そして、ゆっくりとその姿を消していった。 どこか知らないところへ帰っていった。 「(…さよなら)」 消えた人の座っていた場所を見つめる。すると、そこには歪に潰された芝生があって、さっきの人が幻ではないことを伝えている。わたしはそれを目の端に捉えながら、ゆっくりと踵を返した。そして、靄掛かる森へと歩き始めた。 残された私と森はやさしい何かに包まれていく。あぁ、これは知ってる。意識が連れ戻される心地だ。私はその感覚に抗うことなく身を委ねると、ふわりと現に戻る心地を感じた。 夢の、また夢。近いようで遠い人たち。 あの人たちはいったい誰なのか。そして――― 次はどんな人が尋ねてくるんだろう