恋に流される

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 さくり、とタルト地が音を立てた。バレンタインシーズン限定のチョコレートクリームに舌鼓を打ち、タルトに合わせて淹れておいた紅茶のカップを手に取る。残業のお供にと買ったものだけれど、少し勿体無く思えるくらいに美味しかった。
 ──まぁその残業も、あとは何枚かの書類に判子を押せば終わるところまできている。
 これまた合わせて用意しておいたおしぼりで指を拭いて、書類を捲っては判子を押していく。もちろん油染みなんて付ける訳にはいかないので、欠片を紙の上に落とさないように。ブラッドさんにでも見られたら何と叱られるか分かったものじゃない所行だが、その人とは数十分前に部屋の前の廊下で終業の挨拶を済ませている。もうじき夜中に差し掛かるこの時間、私の根城たる司令室を訪れる人物は少ない。
 さくり、と再びタルトに齧りついた。
 掌サイズのかわいらしいタルトだ。軽い生地の中にはナッツの風味も混じったチョコレートクリーム。表面に散らされたドライベリーの欠片が、重めのクリームに爽やかさを与えている。

「……はぁ。終わり終わり……っと」

 最後の一枚に判子を押し、インクが周りに付かないようにテーブルの端に避けて文鎮を乗せた。これで明日の朝に再確認だけ済ませれば、期日に余裕を持って提出出来るだろう。
 カップのソーサーに残り一口のタルトを乗せてから、両腕を天井に向けてぐっと背中を伸ばした。肩周りがコキコキと音を立てている。
 食べ終えたらシャワーを浴びてさっさと寝よう。明日はバレンタインだから、日頃お世話になっている人達に準備しておいたお菓子を配らないと。それに明日は一応休日だし、出来れば部屋の模様替えをしたい。まぁ、【LOM】があるから休日返上で働くことになるのだろうけれど。
 ティーカップとタルトをそれぞれ手に取り、最後の一口を放り込もうと口を開いたところに──

「ごめんね、司令。ちょっと匿って」

 ──予想外の来客が現れた。慌てて口を閉じたせいでタルト地が喉に滑り込み、思い切り噎せる。急いで紅茶で流して喉を潤した。

「げほっ。……またですか、フェイスくん」

 堪らず半目になって睨み付けてしまう。黒いマスクをした彼は、持ち前の柔らかな黒髪と相まって黒ずくめに見える。しかももう夜だというのに制服のままだ。全身真っ黒だな……という感想は飲み込んで、「今日は誰から逃げてきたんです」と溜め息混じりに吐き出した。
 ブラッドさんか、ジュニアくんか。その辺りだろう。予想はついているけれど、事実上、夜中に未成年を私室に連れ込んでいる状況であるため確認はしなければならない。こちらは成人済み、犯罪者の謗りは絶対にお断りだ。

「すぐ出てくから、べつにいいでしょ?」

 ──ブラッドさんだな。
 確信して「そういうことにしてあげましょう」と返した。紅茶を軽く口に含み、飲み下す。冷めてしまった後特有の少し渋い味がした。
 デスクを迂回して私の隣までやって来たフェイスくんにカップを置いた手を握られ、ゆるく引っ張られる。立ち上がるよう促されているのだと理解して従った。窓の外を眺められるように設置しているソファーにまで手を引かれて、されるがまま、揃って腰掛ける。
 先にソファーを占有していたオスカーさんとフェイスくんのぬいぐるみ(二人とも今月に誕生日がある)は、フェイスくんがサイドテーブルに適当に押しやってしまった。

「てっきり凹んで大人しくしていると思ったのに、匿われなきゃいけないことをしたんですか?」
「してないよ。ただ、いつもなら出掛けてる時間に閉じ籠ってるのが嫌になっただけ」

 そこで屋上にでも出て気分転換するつもりが外出しようとしていると曲解されて拗ねていると。

「なんだ、かわいい理由じゃないですか」

 かわいい? と不機嫌そうな、そして呆れたような眼差しが私を見る。マスクのせいで少しだけ迫力があった。ガラが悪く見えるという意味合いで。
 サブスタンスの効果の混じった奇妙なチョコレートのせいで思ってもいない言葉が出てしまうようになった、と聞いたのは数日前の話だ。そのせいで外出を自重しているらしいが、フェイスくんといえば昼夜逆転生活をしているイメージだから、夜にすることが無いのは退屈で落ち着かないのだろう。私もどちらかと言えば夜型なので分からないでもない。
 ふいと睨むことを諦めてぼんやり窓の外を眺め始めた横顔を見上げた。気だるげな表情は、彼が持つどこか危うげな魅力を引き立てている。ちらりと見た街並みは夜でも煌々としていた。
 ソファーに座る前から繋いだままだった手を、無意識なのだろうか、フェイスくんの手は握ったり撫でたり指を絡めたり、ずっと手遊びを続けていた。かわいい。年の割にやたらと色っぽい青年だと思っているけれど、じゃれる指の動きは寂しがる幼い子供のそれだ。

「ねぇ司令、今晩泊まってもいい?」
「ダメ」
「アハ。即答されちゃったかぁ」
「避難場所にはなってあげますけど、お泊まりは私の外聞が地に落ちかねませんからね」
「司令もどちらかと言えば悪い大人のくせに」

 それはそれ、これはこれ。
 甘えるように肩を寄せてくるフェイスくんにきっぱりと言いきって、けれど指は解かずにソファーの上で身を寄せ合った。肩に寄りかかられれば存外重く、彼のしなやかでいて引き締まった体格を実感する。

「じゃあせめて───してよ」
「……うん?」
「あー……忘れてた」

 そのまま眠る気じゃないだろうなと訊きたくなる声色で囁かれた言葉が不自然に途絶えた。頬に登頂部の黒髪がふわふわと当たるのを感じながら少しだけ顔を向ける。顔を覗き込みたいけど、肩を枕にされている状況からは不可能だ。フェイスくんはうんざりした様子でマスクを顎の下へとずらした。

「俺が満足するまで甘やかしてくれたりも、しない?」
「ぜんっぜん満足してくれなさそう……」
「バレちゃった」
「隠してもないでしょう」

 呆れて溜め息を吐けば、すり寄っていた頭が少しだけ起き上がる。

「ねぇ、」

 甘えた吐息が頬にかかった。こういう振る舞いをされる度に彼の強かさを思い知る。弟気質というか、どうしても母性本能を擽られるような仕草と声音を使いこなしてしまっているのだ。
 そうした声に逆らえず、渋々振り向く。

「──好き」
「ん、」

 ふに、と柔らかい感触が唇に触れた。呆気に取られて固まっている間に口の端をぺろりと舐められる。いよいよ頭がキャパオーバーして、目を見開いて間近にあるネオンピンクの瞳を見つめることしか出来なかった。

「やっぱりショコラの味がする」
「──よ、ごれてたなら言葉で教えて下さい……」

 仰け反るかたちで静かに距離を稼ごうとするも、指を絡めて繋がれた掌を引かれ、ついでとばかりに腰まで抱かれて引き寄せられる。好き、という言葉を薄い唇からしゃっくりみたいにほろりとこぼし、楽しげな瞳が瞼に隠れた。睫毛が長くて綺麗だ。

「んぅ、……こら、だめ……」
「バレンタインとバースデーのプレゼントだと思ってよ」
「それは、……っ明日でしょう」
「明日ならいいの?」

 音を立てて啄むようにキスをされ、逃げようとすればするほど強く抱かれる。は、犯罪になる。未成年淫行とかで捕まってしまう。ブラッドさんにどんな目で見られるかも人として恐ろしい。理性が正論を訴えているのに、彼に惹かれている本能が体の動きを鈍らせていた。
 唇を固く結んで抵抗しているのに甘い声に囁かれると頭がくらくらしてしまって、ずっとこうされていたいだとか、いっそ受け入れてもいいんじゃないかとか、思考がそれこそショコラのように溶かされてしまいそうだった。やっとの思いで顔を背けたのに、わざとらしく濡れた口付けの音が耳の縁に落とされる。

「ひゃッ」
「かわいい。……もっと、してもいい?」
「だめだめだめ、ほんとだめ、もうだめ……っ」

 好き、大好き、と彼の意思とは関係なく漏れてしまうはずの言葉がキスと共に肌に刷り込まれていく。気付けばソファーの上に半ば押し倒されていた。ギシリと軋む音で、フェイスくんが膝を乗り上げたことを理解する。踵が床から浮いた。首から上が異様に熱い。
 明日は【LOM】で、ウエストセクターの面々は特に忙しいはずで、誕生日までは未成年だから何かあっちゃまずい、そういえば昼間ディノさんがサプライズパーティーがどうとかって、そもそもサブスタンス混じりチョコの問題も片付いてないし、じきに日付けも変わっちゃうし、ええとええとええと。今ものすごくパニックしてるなぁ、と一瞬だけ冷静な思考が過ったけれど、すぐに熱に飲まれて掻き消される。

「だめ……あっ! ぁ、あああ明後日!? 明後日ならいいですよ二十歳ですもんね!?」
「え?」
「えっ?」

 私に覆い被さったフェイスくんが今にもキスしようという距離に迫って、これ以上されては本気で流されてしまうと必死になって声を上げた。咄嗟に声に合わせて掌を唇の間に滑り込ませたお陰で物理的にもキスは免れる。
 けれど、フェイスくんの驚いた表情で一瞬のうちに自分の失言に気付かされた。ざあっ、と頭から血の気が引く。

「ち、ちが……います、今のはですね……」
「明後日……明後日、ねぇ。へぇ……。楽しみだなぁ」

 引いた傍から血が昇ってきてまた顔が熱くなっていく。羞恥心で頭が真っ白になって、視界は涙で滲むし、唇は震えて上手く言葉が出てこない。そんな私を、持ち前の美貌にいたずらな笑みを浮かべたフェイスくんが見下ろしている。

「アハ。──好き、……ッ、ふふ、司令には本音なのかサブスタンスのせいなのか分かんないかな」
「や、あのっ、ほ、ほんとに……言葉の綾で……」
「夜の予定、ちゃんと空けておいてね?」

 はくはくと口を動かすも声が出ない。手首を掴まれて顔を隠す手立てさえ奪われれば、ソファーの上には一切抵抗出来ない姿勢に押さえ込まれた女の出来上がりだ。最早どうすればいいのか分からなくなってされるがまま身を固くする。「今日はだめなんでしょ」と数々の女の子を堕としてきたであろう魅惑的な笑顔を向けられて肩が震えた。
 フェイスくんは今一度唇へ軽やかにキスをして、先程までの押しの強さが嘘のようにひらりと身を起こした。

「長々とお邪魔しちゃってごめんね。おやすみ、司令。っ、──大好き」

 サブスタンスの効果で吐き出されたはずなのに、心なしか弾んだ声。マスクを鼻まで引き上げ少し乱れた服を手慣れた様子で整えていくのを呆然と見上げてしまった。ひらりと手を振られて、「ぉ、おやすみなさい……」とだけ喉から絞り出す。
 ハッと正気に返って未だに羞恥で震える体をソファーから起こした時には、フェイスくんの姿は扉の向こうに消えていた。
 頭を抱えながらふらふらと立ち上がり、サイドテーブルに転がるフェイスくんのぬいぐるみに八つ当たりのチョップを落とす。みょん、と跳ね返してくる感触はさっきまで触れていた肌とは何もかも違う。今度は両腕でぬいぐるみを抱き締めて再びソファーにへたりこんだ。

「明後日……?」

 黒い艶やかな睫毛や整えられた爪、しっとりと濡れた唇。何より私を見据える甘い色の瞳。フラッシュバックしてくる情景に耐えかねて、ぬいぐるみの背中に額をぐりぐりと押し付けた。胸が騒いで頭がくらくらする。
 仕事が終わったら何をする予定だったっけ。シャワーとティーカップの片付けと……。懸命に仕事用の思考に切り替えようとする度、柔らかいキスの感触が甦ってくる。

「あーもう! 中学生じゃあるまいし……!」

 ぬいぐるみを綿が飛び出そうなほどきつく抱き締めて、やり場のない感情を足をバタつかせることで紛らわす。
 タイムリミットは既に明日の夜に迫っていた。
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