「く、ぅ……」
両腕を上げて、石のような身体を脳天から糸で吊されるようにぐっと伸ばす。その拍子に節々から響く軽快な音。どうやら関節が鳴ったその音が私の緊張が解けるスイッチにもなったみたいで、腕を下ろすと勤務中はまったく感じることのなかった倦怠感が堰を切ったように押し寄せてきた。絡みつく気怠さはさながら可愛い姪っ子が「あそんであそんで」と肩にのし掛かってきたくらいの重量感を伴っていて、とうに抗する気力も尽きていた私は悄々として自身のデスクに突っ伏す。
(……長い、長い戦いだった……)
なかなか尻尾を掴ませなかった手強いターゲット、某ホストクラブ経営のオーナーをしばらく張り込んで機を待つ方策を講じたのは一週間前くらいの話。そして目算どおりの日程に取引を行うという情報がエスから入り、樹さんと夏目君が実際にクラブに潜入して、譲渡の現場を収め現行犯逮捕したのが昨晩。
同時進行で売買に一役買っていたオーナーの恋人兼・ナンバーワンホストのエースを任意で事情聴取し、今大路さんの巧みな手腕によって自白させたのが本日早朝。
言下、待ち受けていたのは尻に火がついたような忙しさで。
私は午前中ひたすら顧客リストの洗い出しに押収された薬の解析(別称・孝太郎の尻叩き)、オーナーの前科の有無と余罪の追及等の按検に追われ、午後は被疑者の口から割れた『協力者』の特定ならびにガサ状の発布申請で玲ちゃんと一緒にあちらこちらを右往左往。
また一方で、クラブの従業員にもなし得る限りの協力を仰ぎ、尿から陽性反応が現れた者と大麻をロッカーに隠し持っていた者、のべ数名を直ちにその場で検挙した。グループには相当依存が進んでいる者もおり、激しく抵抗される局面もあったが、マトリの中でも達人級に腕が立つ関さんが素早く取り押さえて事なきを得て。
……そうして、外での業務を終えてオフィスに戻ってこられたのは二十三時四十五分。その後も残務の処理等で帰れずに、現在は明日提出の報告書に手をつけていたわけだが――。
(……終電のこと、失念してた……)
現時刻は零時五十二分。今から全力で走って最寄り駅にたどり着いたとしても、終電に間に合わないのは明白だ。住まいは東京二十三区内であるためタクシーでの帰宅も視野には含まれているが、深夜のメーターの回転数を考えるとアレコレ逡巡してしまう。
決してお給金が安いわけではないけれど、贅沢できる身の程でもないのは確か。今月の家計簿を脳内で捲りながら、帰路について悶々と頭を悩ませた。
(かくなる上は……徒歩? いやでも仮に今日は家まで歩けたとしても、明日筋肉痛で足が使い物になりません、なんて言ったら……)四方に小突き回される未来が見える。
特に樹さんや夏目君には当分お茶の間の余談にされるだろう。それだけでも厄介なのに、今大路さんや孝太郎も乗っかっておちゃらかしてくる場合があるから……う、想像しただけでとんでもなく辛いものを食べたように胃の辺りがチクチクした。
肉体だけでなく精神面のほうでもダメージを喰らうのは極力避けたい。たとえ『道端を歩いていたら鼻先スレスレに鳥のフンが落ちてきた』レベルの地味なメンタル攻撃であってもだ。同僚に絡まれながら感情をシャットダウンした目で虚空を見つめる自分の姿が浮かぶようにして見える。
心の安定を保つためにも彼らにイジられるネタをこれ以上増やしたくない、増やしてはいけない、増やすべきではない。安定は守り尊ぶべきものだ。
――となると、やはり。導き出された最適解で帰結するわけで。
苦渋の決断ではあるけれど、致し方ない。重い身体を持ち上げるようにして上半身を起こす。
(背に腹は代えられない。身の安全と平穏を買うと思ってタクシーで帰ろう)
しばらく食費を削ればいいだけだし。どうしても美味しいものが食べたくなったら樹さんか渡部さんヨイショしてたかろう。なぁんて冗談半分の企てを胸底に潜め、PCの電源を落としてのろのろとデスク周りの整頓を始める。すると、
――ひたっ。
冷感を帯びた硬質な物体が頬にあたり、反射的に肩が跳ねた。玉突き的にザワザワと騒ぎ出す心臓の音。急いで振り返ってみると、さながら菩薩のような微笑みを浮かべながらこちらに缶コーヒーを差し出しているドッキリの仕掛け人――関さんと視線がぶつかった。
完全に間が抜けているであろう私の顔をひと目見て、厚労省の女性を虜にする甘いマスクは苦笑いに染まってしまったけれど。
「悪い、そんなに驚くとは思ってなかった」
「い、いえ、こちらこそ申し訳ありません! 缶コーヒー、有り難く頂戴します」
「ああ、どうぞ」
手隙の間に買ってきてくれたらしい飲み物を恐縮しつつ受け取って、汗をかいている缶のプルタブを開ける。口際まで持ってくると、鼻腔をくすぐるのは仄かに苦みを孕んだ薫り。呼吸器官を撫で付けるそれは、静かな空間に微睡んでいた脳をなだらかに起こしてくれるようであった。
口腹の欲をそそられる香ばしさに誘われて二口ほど嚥下すると、カラカラに乾いていた喉がじんわりと潤っていくのが分かる。胸の裏側から満たされていく感覚にほぅ、と細い息を吐けば、同じメーカーの缶を開けた関さんの目尻にまだ若いシワが生まれた。
「今日はさすがに精根尽きたみたいだな、おつかれ」
「恐れ入りま……あ"っ。すみません、私よりも関さんのほうがもっと大変だったのに、気が利かず差し入れまで頂いてしまって……!」
「いや、気にしないでくれ。椛と泉には関係各所を駆けずり回ってもらったし、そのおかげで業務もスムーズに進んだんだ。感謝してる」
"これ"は、ほんのお礼だよ。と缶を揺らして爽やかに微笑む関さんは紛うことなきイケメンだ。容姿もさることながら、やること為すことすべてにおいて格好良くていちいち感動してしまう。課長の仕事は私など及びもつかない量だっただろうに、その疲れをおくびにも出さず、さらにスマートに部下を労うなんてそうそう真似できる行為じゃない。
しかも関さんの細やかな気配りは今日限りの話ではないのだから、この人が多くの人々から慕われているのも納得だ。下の者が必要に萎縮しないコミュニケーションは、常人よりひとまわり大きな人格を持った関さんだから為せる技というか。
窺い知るあたり、この人は根っこが凄く繊細で、だからこそ人の機微に敏いのだと思う。そしてそういうときは、"人の心に寄り添ってきた手本となる誰か"を真似ているような気もするのだ。
変化にすぐ気がついて、相手のために颯爽と動いて、でも無理にパーソナルスペースに踏み込むようなことはしないで。いつしか手を伸ばせば届く距離で見守ってくれている、影のヒーローのような関さん。
その関さんが見つめている先にある背中の近くへと到達するためにも、私はまだまだ学ばなきゃいけないことがたくさんある。
「そういえば、椛は帰りどうするんだ? 確か電車通勤だったよな」
「はい。終電は断念したので、タクシーで帰ろうかと」
「なら家まで送るよ。俺も後は帰るだけだから」
「えっ、ですが」
関さんの自宅と私の自宅はほぼ反対方向。それでは遠回りになるからと一度はお断りしようとしたものの、「送らせてくれ。俺が心配なんだ」と先手を打たれてしまっては口を噤むしかない。
彼は渡部さんに"お父さん"と揶揄されるだけあって、ちょっと心配性な一面もある。その矢印は玲ちゃんだけに向けられるものだとおおよそ認識していたけども、どうやら心配性が発現する条件に私も適合されていたようだった。
意図せず顕然となった事実に吃驚する一方、何と申し上げれば関さんはタクシーでの帰宅を了解してくれるか思考を転がす。しかし真剣な顔で念を押す彼を押し切ってまでタクシーを使う理由は、私にはなく。
課長を休ませなければ、という義務感こそあれど、関さんもきっと私と同じような責任感を抱いたうえで帰りの話題を言及したのだと斟酌して。
「……それじゃあ……お言葉に甘えても宜しいでしょうか……」
「もちろん」
――押し問答が長引けば長引くほど関さんの帰宅も遅くなる。内心畏れ多さでいっぱいで、けど縮こまりながらもおずおずと頭を下げた私に、私の短い葛藤なぞ知る由もない関さんは愁眉を開いて快く頷いてくださった。
そんな彼はとうに飲み終えたのか、音のしない缶を片手に自身のデスクへいったん向かう。
引き出しから取り出されたのはキーケース。それはサイズとして大振りであったけれど、関さんの手に握られるとすっかり形が見えなくなってしまった。まじまじと観察することは少ないので実感する機会はゼロに等しかったが、改めてみると、とても大きく奇麗な手だ。正直、クラブで歯向かってきた大男を容赦なくはっ倒した手とは信じがたい。
「椛?」
「――……ぇ、あ、はい!」
「俺は車を表に回してくるから、戸締まりを頼みたいんだが……ひとりで大丈夫か?」
やっぱり一緒に出ようか、と憂色を帯びた面持ちで訊ねてくる関さんに慌ててかぶりを振る。大丈夫です、と言い繕ってひた押しする形で先に送り出すと、関さんは何か言いたそうな空気を醸しつつもキーケースと鞄を持って後ろ髪を引かれるようにオフィスを立ち去った。
いかにも不服ありげな背を見送って、申し訳なく感じつつも胸を撫で下ろす。
いくら何でも見とれてたことが本人にバレたら居た堪れない。関さんにとっては若干失礼な所懐も抱いてしまったし、できればこのまま胸に秘めておきたいというのが本音である。咄嗟に言い繕った結果として関さんにはだいぶ怪しまれてしまったけれど、私が墓穴を掘らない限りいまさら勘付かれることもないだろうから、この件はさておいて。
自身の両頬を両手で強めに打つ。弛みがちな己に渇を入れて、私は作業半ばになっていた片付けを急ピッチで進めた。無論、先に出た関さんをお待たせするわけにはいかないから、せいぜいデスクの隅っこに重ねて避けるくらいだけども。
手がつけられなかったぶんは明日出勤したら整理すればいい。空いたスペースに新しい書類が積まれなければこのデスクは秩序を取り戻すはずだ。……もっとも経験則上、整然と片付くのは遠い未来になると本能に近い部分で察しているが(ほかの人のデスクにも山が築かれている)、それはそれ。憂鬱になってもキリがないので、手は休めず帰り支度に意識を注ぐ。
財布や手帳などの貴重品は今日は外に出していないから定位置にあるし、メイクポーチも化粧直しする余裕がなかったので問題外。デスクに散らばってるボールペンやシャチハタは鞄の内ポケットに入れて――ファスナーを閉めて終了。
よし、とキャラメル色のトレンチコートと鞄を腕に引っかけて残りのコーヒーを一気飲みしたそのとき、今の今までうんともすんとも言わなかったスマートフォンがデスクの空きスペースのところでLIMEの通知を知らせた。
関さんかな? とロックを解除しトークアプリを開いてみると勘は的中。だけど、そこには知らず知らず息を飲んでしまう内容が明記されていて。
「……ええっ?!」
国民的アニメの娘婿よろしく、素っ頓狂な私の声が無音のオフィスにけたたましく響いたのだった。
◇
息をせき切らしながら庁舎を出ると、ちょうど庇になっているところに幼馴染みと思しきシルエットがあった。現在の時刻も弁えず「慶太!」とそこそこ大きな声で呼びかけると影は振り返り、軽く片手を挙げて応えてくれる。
その傍らには関さんの姿もあって、私は駆け足でふたりの側へ近寄った。
「すみません、っお待たせしました!」
「こっちこそ急かしてしまったみたいだな、すまない。……平気か?」
「な、なんとか……」
情けない己の様相に空笑いを禁じ得ない。足が棒だとか気力がないとか、そういっただらしない言い分も関さんから送られてきたメッセージを見たら悉く頭から吹っ飛んだ。その後すぐに居ても立ってもいられなくなって大慌てで施錠して、つんのめるように階段からすっ飛んできた…の、だけど。
おとなしくエレベーターを待ってればよかったと後悔に苛まれたのは一階に着いてから。久々に会う幼馴染みに、よもやこんな汗だくになった姿をお披露目することになるとは、オフィスを飛び出した頃の迂闊な私は予想すらしていなかった。
こめかみを伝った汗を手の甲で乱暴に拭う。前屈みになっていた身体を起こすと、生ぬるい空気が耳の下に触れた。呼吸はそのまま何度か繰り返せば落ち着きを取り戻してきたけれど、どうも不格好な気まずさが勝って話の口火を切ることができない。決まりの悪さを紛らわすように乱れた髪を手櫛で梳けば、隣に移動した関さんも手を貸してくださった。
「ハハ。藪の中でも潜ってきたような有様だな」
「そんなぐしゃぐしゃですか?」
「わりと」
関さんの指摘を受けて性急に、頭頂から滑るように髪に触れれば、耳の上に固定していたパールのヘアピンが全力疾走の弾みでいささかずれ落ちてしまっていた。
著しく髪が乱れたのはそれも原因のようだったので、一度外して再び付け直す。したらば関さんも穏やかな笑みを湛えてオーケーを出してくれたので、私は元通りになったのだとひと安心して、こちらを静観していた慶太と正面から向き合った。
「ごめんね、見苦しい姿見せてしまって。…慶太?」
「……。いや、そんな気を遣わなくていい。見苦しいなんてこれっぽっちも思ってないから」
「……そう?」
声を発する前に妙な空白があったけれど……。
何ともいえない面持ちの慶太をじっと見つめると、顔色を覗う眼差しに気づいた彼は眉尻を下げて口角を上げる。この笑顔はあまり触れてほしくないときに見せる表情だと心得ている私は、胸のつかえを残しつつも、慶太の気持ちを最大限に汲んで同調するように笑顔を繕いその場を糊塗した。
そうすると慶太は一瞬面食らった様子だったけど、おそらく私が意を用いたのを感じ取ったのだろう。観念したような笑みを目元に滲ませながらも、纏まった私の髪を遠慮がちにそっと撫でてくれた。
頭に触れた手のひらの温度は最後に触れられたときと全然変わりがなくて、私はちょこっとだけ力んでいた肩の力を抜き、自分なりに屈託ない笑顔を見せる。――彼の手は、あったかいままだった。
(…変わんないな)慶太も同じことを考えていたとは、このときの私はいっこうに気がつかなかったけれど。
会ってなかった期間は決して長くはないはずなのに、幼馴染みたちと心の距離が遠ざかってしまったようで勝手におびえていたのかもしれない。でもそれは杞憂だったのだと知って、心が愁いから晴れた途端、ピン、と重要な疑点が頭に閃いた。
「そういえば、こんな時間にどうしたの?」
「あー……。」
要件を聞いていなかったな、と思い出して、遅ればせながら質問する。関さんからは『君の幼馴染みが来ているぞ』とLIMEをもらっただけで、肝心な経緯までは聞いていなかった。
けど、当の本人に訊いても彼はどこか身の置き所がなさそうというか。当惑した感じでしばし視線を泳がせて、さらには口を濁らせる。
言いづらいことなのだろうか、不思議に思い、小首をかしげると。側にいた関さんが「泉に訊いたらしいんだ」と耳打ちしてくれた。意味を図りかねて玲ちゃんに? と疑問を呈すると、前置きは話されたのだと理解した慶太は躊躇いがちに首肯する。
「実はさっきまでスタンド案件で連絡取り合ってたんだけど、夾迦の話題が出たから近況を訊いたら、まだオフィスに残ってるはずだって泉が言うから。もう終電もないし帰りどうすんだろって考えてたら、いつの間にかこっち方面にハンドル切ってた。……ごめん、言い訳にしかなんないけど、先にLIME入れておけばよかったな」
慶太にしては行き当たりばったりな行動だ。いや、私ならまったく構わないし、むしろ友人の訪問は嬉しいのだけど、本人は考えなしだったと悔やんでいるのかその面持ちは湿っぽい。それに隣にいる関さんの存在も気にしているようだ。この状況下では誤解を招いても仕方ないけど、おそらく、というかほぼ百パーセント慶太も誤解して『余計なお節介だったかもしれない』と考えていそう。
おもむろに関さんを見上げると、関さんにも私の考えてることが伝わったのか、はたまた共通の所見を抱いたのかは不明だが、私に柔らかな表情を見せてから慶太と対面した。ついでに頭の上にぽふ、と置かれる手は、関さんが私のことを"そういう対象"として見ていない証左だ。
「それなら、俺の代わりに椛を家まで送ってもらってもいいかな」
「――え。けど」
「彼女とは何もないよ。そそっかしくて目が離せない部下ではあるけど、それ以上の関係にはない」
そそっかしい、のところは非常に耳が痛いけれど、関さんの主張に私も必死に同意する。第一、私のようなちんちくりんと関さんがそんな、色恋がどうのとかいう関係に発展するわけがないし、私自身、期待したこともない。
こんなに魅力的な男性が近くにいてときめかないのは女として枯れていると薄々感じているけれど、率直に言えば恋愛にうつつを抜かしている時間もないのだ。だから慶太が想像してるような、甘い関係とは程遠く。
そのことを懸命に弁明すれば、彼は微かながら眉の険しさを緩和して、微笑みとも苦笑ともつかない微妙な表情を浮かべた。
「説明しなれてますね」
「そうだな。距離が近いとはよく言われるから、そのたびに」
「なるほど。……分かりました。夾迦は俺が責任を持ってお預かりします」
「ああ、頼んだ。――それと、」
関さんは私の側から離れ、何やら慶太の耳元でひそひそ話を始めた。さすがに話の内容までは聞こえないし、おおよそ見当もつかない。けれど、ふたりが言葉を交わしてる間もこちらを食い入るように見つめている慶太から目を逸らすこともできず、私はポツンと静寂の時間を持て余していた。
しかし一分もしないうちにふたりは話を終えたようで、関さんはそのまま「じゃあ俺はこれで。椛、また明日」と言い残して駐車場のほうへと歩みを進めていった。変わり身の早さに呆気に取られつつ、「おっ、お疲れ様でした!」とどうかこうか定型句を口にする。関さんの背を見送るのはこれで本日二回目だ。
同じく取り残された慶太の横顔をちらりと覗ってみる。彼はやけに真剣な瞳で今はもう遠くなった関さんの後ろ姿を見据えていた。……どんな話をされたのだろう。問いかけるか否か、天秤に掛けて判断しかねていると、ふいに慶太が視線を寄越す。
「帰るか」
「……そうだね」
――何も言わないでおこう。そう決めたのは、向けられた慶太の目が迷いの色もなく、とても優しげだったから。
私は頷いて、歩き始めた慶太に足並みを揃えて隣を歩む。平均より低い身長である私は通常、男の人のコンパスにあわせて歩くのもなかなか大変なのだけど、慶太は文句も言わず私の歩幅にあわせてくれるから、急ぎ足にならずゆったりと歩くことができる。
こんな些細な気遣いがどれだけ私の心を熱くするか。慶太は知っているのだろうか。
胸に広がる温かい気持ちに、ついその腕にすがりつきたくなってしまう。昔のように無邪気にできたら、もっともっと幸せは倍増するのに。今は世間体という壁が、高々と私たち幼馴染みの間を阻んでいた。
「どうした?」
「何が?」
「なんか、上機嫌だから」
「……うん。久々に昔なじみに会えて、少し気分が高揚してるかも」
本心を隠さず告げると、慶太も「そっか」と言いながら私の頭を撫でた。関さんの撫でる行為は先だって述べたとおり『娘』や『親戚の子供』に接するような触れ方だけど、慶太のこれはどういった意図が含まれているのか分からない。
もともと慶太はあまり前に出ず、二歩ぶんくらいの距離を置いて人と接するタイプだ。それは自分のトラブル体質に巻き込まないよう、深入りさせないよう、慶太なりに配慮してのことだけど……。
つと見上げた彼の横顔は唇を結んだり開いたり、どこか様子がおかしい。訝しげに名前を呼ぶと慶太は立ち止まったから、私もつられて足を止めた。ふたりはまた差し向かいに面する。蘇芳色の双眸は、さっきも目にした真剣なさまで。
「あのさ。言いたくなかったら答えなくていいから、訊くだけ訊いていいか。お前の髪を触るのって、関さんのほかにも誰かいる?」
「髪……? んーと、ちょっかい掛けてくるのは主に夏目君と…あ、あと羽鳥君には『子猫みたいだね』って言われて撫でられることもあるよ」
「…それ、亜貴は目をつり上げなかったのか?」
「速攻ではたき落としてたよ。そのあと超よしよしされて頭を鳥の巣みたいにされた」
何だかんだRevelのメンバーには構ってもらえてる自覚はある。それは前に酔った勢いで亜貴にも話したことがあって、そのときは「うぬぼれすぎ」だなんて素っ気なく一笑された。けど結局そのあと私好みの甘いカクテルを注文してくれたりして、言動と行動が噛み合ってないなぁとクスクス笑ってたっけ。
なんだかその出来事すら懐かしい事柄のように思えるな、と独り言のように呟くと、視界の端で慶太が手を握り込むのが見えた。
――こんなふうに場の雰囲気を和ませようとおどけて話してみても、慶太の表情はちっとも和らがない。あまつさえ強張っていってるようにも思えて、少なからず動揺する。変化も話題も突然だっただけに彼の胸の内が掴めなくて、ぐらつく椅子に腰掛けたときと同じくらいの心許なさが自身の足下を不確かにさせた。
「慶太……?」
「悪い、ちょっと思い出してた」
「思い出すって、何を……」
「無害そうな顔した親切な人からの警告」
「??」
ますます意味が分からない。無害そうな顔って、そもそもどんな顔を指すんだ……?
言葉遊びに興じる癖なんてあったっけ、と首をひねる。するとよほど可笑しな顔をしていたのだろうか、わずかな間に頬を綻ばせた慶太はちょっぴり意地悪な歯を見せて、私の頬を指でつまみ、少々の痛みを感じるくらい外側に伸ばした。
「いひゃい」
「意味は深く追わなくていい。今はまだ。腹を決めたら、ちゃんと俺が教えるから」
「……?」
自分に誓うような口ぶりの彼は、やはりどこか違和感がある。いったい何が、とまでは私の中で明確としていない。けれど、強い心意気すら垣間見える慶太の瞳は、いつもより輝いて見えた。
「それより」軽く咳払いした慶太は今の話を打ち切って、私の頬を解放する。ひりひりと残る痺れに肌を摩りながら見上げると、彼は晴れ晴れした微笑を唇のふちに漂わせた。
「時間が空いたらいつものバーに顔出せな。桧山くんが心配してたぞ」
「あぁ〜〜ごめん……。大きなヤマがひと区切りついたところだから、たぶん今日からは地獄の書類メドレーが始まる……」
「知ってる。前から遠張りしてたジャンキー、昨日……日付変わったから一昨日か。現逮したんだろ」
「……そっちは相変わらず仕事早いね……」
当たり前のように新しい情報が入手されてることを聞き、開いた口が塞がらなくなる。Revelの人脈っていったいどこまで広がってるんだろう。私も数人のエスと契約してるけれど、きっと束になったってこの人たちの諜報活動の早さには敵わない。
「まあ、今回は羽鳥がよく行ってる界隈で起きた事件だから、耳に入るのが特別早かったってのもあるけど」頭を殴られたような衝撃から戻ってこれない私に対し、慶太は殊勝に言い添える。どうやらリーク元は羽鳥君らしい。それにしたって小耳に挟むのが早すぎると感じたけど、私は乾いた笑いをこぼして歩みを再開した慶太の後をついて行った。
「うん、まあ、その件は置いといて。とりあえずいつになるかは分からないけど、終わったら休み取れるだろうし、必ず顔は出すよ」
「……俺が促しておいてなんだけど、絶対に無理だけはするなよ。お前の定位置はいつでも空けてあるから、気が向いたときにフラッと立ち寄ってくれればそれでいい」
「え、ずっと空けててくれたの? 私が来ないと分かってても?」
「分かってても、夾迦が"そこ"にいるつもりで俺たちは過ごしてる」
慶太は何てことないように話しているけれど、その言葉は疲弊した私の心に響くものがあった。じわりと目頭が熱くなって、慌ててうつむく。そうすると後頭部に温かい重みが乗った。慶太の、手だ。
「疲れたらいつでも帰ってこいよ。俺たちは、いつだって歓迎してやるから」
「……ん」
「よし」
涙をこらえるためにじっと地面を見つめる私の手を、柔らかな微笑を湛えた慶太は引き寄せる。昔も楽しい時間が終わるのが悲しくて、帰りたくなくてこうやって下を向いていると、慶太と亜貴が仕方ないなとぼやきながらも必ず手を引いてくれた。
懐かしい感慨と、感傷と、嬉しさが綯い交ぜになってよりいっそう胸が熱くなる。
世間からどう見られるなんて今は関係ないとばかりに、慶太は手を繋いでくれた。この手の温かさに、ずっとすがっていたい。でも、時間は進むから。
「慶太、」
「ん?」
「迎えにきてくれてありがとう」
鼻声で、聞き苦しい声だったかもしれない。握り返した手に、余分な力が入ってしまったかもしれない。それでも慶太は何も言わず、ただ朗らかに笑って「…ん。どういたしまして」と分かったしるしに頷いてくれたから。もうそれ以上の言葉は必要ないと悟って、私たちは静かな帰路をたどった。
帰りたい居場所に帰るためにも、明日からの仕事も頑張ろう。そんな誓いにも似た決意を、夜空の下でひっそりと固めた。
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