あくる日私の心臓は

記憶に在りし時より、恐れを抱いたことが無い。
怯えも、後悔も、感傷も、離別の痛みも背徳の苦しみさえ、一つも。
父の記憶は無く、母の覚えも薄く、兄は居たがそれも死んだ。

だから奪った。だから贈った。
己では決して奏で得ない音色を、己では決して魅せられぬこころの色を、ただ唯一己のものとするために。
そうでなければ、浮世など酷く退屈だ。
明日のため、朋のため、国のため、家のため――ただ生だけで暇を潰せる激情に、生憎とんと覚えが無い故に。
松永は何時も幕の外だった。観客であり、監督でさえ有った。

ただ己の隣の席ばかりいつも空いている。
父の記憶は無く、母の覚えも薄く、兄は居たがそれも死んだ。
生まれし地すら覚えがない。

風魔を据えようと思った事もあった。然して、怯えが、後悔が。感傷と痛みが。風と魔すらあの忍びから消えたとして、退屈さえも死ぬだろう。
それでは意味がない、否、意味は有れども。茶釜に器と等しい、凡庸な退屈凌ぎだ。

ならばこの人間はどうだ。

転がったまま松永を見つめる、酷く凡庸な濃茶の瞳。
瞳が示す通りに有り触れたただの人間。どこにでもいる。余りの並に食指さえ動かず、ただ幾許、目を引くものが有った。
死ぬことのない人間を、殺しても殺されぬ生き物を、誰が人だと云うだろう。
己も自覚しているようで、笑って仕舞うほど従順に素早く、人間らしい感情の幾許を手放し始めていた。

恐れ、怯え。恐怖と呼ばれる類のもの。

生への渇望を示す本質の一端。

父も、母も、生まれし地すら遠く。

“生活”を整えてやれば、与えた衣の絵様に文句を言ってみせる傲慢さ。

その強欲。


――似ていた。

松永は己の隣、空の椅子に視線を落とす。
“これ”は座るだろうか。座ったとして、己はそれを良しとするだろうか。

まあ、瑣末な事だ。

松永の手中に落ちてきたものを、己が棚に据えたものを、持ち主がどう扱おうが関係は無い。

娯楽らしい娯楽も無い世の中だ。生きるに必要な奔走を失った者たちにとって、浮世の怠惰は長すぎる。
駄目ならば棄て置けば良い。そうして風魔を充てがおう。


「……君は何を望むのだね?」

気が変わった、と添え腰を下ろす。近くなった瞳が分かりやすい喜色を見せた。

「何って、そう、松永さんの真似?茶道とか、あと……あとは、ううん、真似出来そうなところが……、目利きとか!私も文化人やってみたいんですよ、折角ですし」

茶の湯。目利き。奇天烈な事ばかり並べる少女だ。然し真似をしたいと言うならば都合が良く、性別など元より二分の一、博打の括りに興味は無い。みたらしの蜜に執心するような人間が作法に興味を抱くとは思わなかったが。
ただ、

「君にとっての目利きとはなんだね?気にいる物、良いと思ったもの、それらを“良い”に置くにはそれなりの地位が必要なのだよ」
茶器などは特にその色が強い。高名な人間の持つ茶器が高名となる。

「それじゃあ高名になったら、高名な茶器を作る事が出来るんですね」

「そうとも。最も、君は高名に成れないがね」

「なんで!?」

「考えても見たまえ。何処ぞの馬の骨とも知らぬ小娘が、文化人などと認められる筈もあるまい。君には何も無いのだよ。家も、富も」

今にも掴みかからん勢いが一挙に削がれ、丸い瞳を瞬かせては確かに、としおらしくなった。その瞳に怨恨が何一つ滲んでいないことが妙に心地良い。
沈黙は僅かな時間のことだ。すぐに名案を思いついた様で顔を輝かせてみせる。

「それじゃあ私松永さんの娘になる!」

一拍、二拍と間が流れ、私は笑う。或いは嗤う。
私の娘。
宝を、名を、希望を、正しかったかも知れぬ未来を心を奪い、呪いを受けとり、それすら壊す。松永久秀というもの、その娘。

「直ぐに嬲り殺されて仕舞いだろう、……いや、私としたことが。愚問だ、君は、」

死なないのか。
少女は笑う。或いは嗤う。怠慢な生でしか味わえない孤独の先に、逃れられぬ時間の末に、者では無く物に妄執を見出そうとする目。その目。
私の目だ。正しくは遠い過去の。


指先が踊る。撒いた火薬の濃い匂いに全てを悟った少女が微笑んだ。
「私の勝ちです」
「面白い冗談だ。……元より君は私の物だ、棚の私物を愛でるも壊すも、持ち主の自由だろう。その点において、何も変わりは無いのだよ。君が私の娘になろうがね」
「話が長い、面白くない。ちょっと悔しいんでしょ、ちょっと楽しいんだ。ねえ、おとうさ、」

指を鳴らす。言葉が途切れ爆発音とともに少女は少女としての連続性を失い、後に熱と炎と少女の服だけが残る。
死人ばかりの城だ。

新たな死人を出迎えるためまた火薬の用意をして庭に出る。爆風からの着地が上手くなった死人は、この死人から私の娘だ。