後日談:神野の悪夢

 雄英近くに「三猿」という名前の居酒屋があるらしい。
 その名の通り、有名な「見ざる・聞かざる・言わざる」のポーズをしている猿の看板が見えてきた。

 ここだ――安吾は店の前に立つと、腕時計を確認する。

 五分前。ちょうど予定通りだ。

 引き戸を引いて中に入ると、待ち合わせの人物は、すでにカウンター席に座っていた。

「相澤先生、お疲れ様です。お待たせしてすみません」
「いえ、こちらこそ今来たところですよ」

 安吾は相澤の隣に座る。
 お互い、まずは生ビールを頼んだ。

「おつまみは何か頼みますか」
「俺はあまりつまみは食べないので……」

 何もないのも……と、安吾は適当に軽いつまみを頼む。
 店員が注文を取り終わると、入れ代わるように別の店員がお通しとビールを持ってきた。

「では……」
「ええ」

 ――乾杯と何に対してはなく、二人はジョッキの口を軽くカチン、と合わせた。
 あえて言うなら、世間を震撼させた事件がようやく落ち着いたお疲れ会だろうか。

「……理世の様子はどうでしょうか?」

 安吾は一番に気にかけていた事を相澤に尋ねた。
 雄英が寮生活になり、理世が二人で暮らしていた家を出て早数日となる。

「俺が見たところは元気にやってますよ。あいつの周りには大体人がいますから、騒がしいぐらいです」

 相澤がそう答えると、安吾はほっと顔を綻ばせた。

「体調の方も大丈夫みたいですね」
「そうですか。それなら安心です」

 安吾はぐびっとビールを仰ぐ。

「……結月もつらい目にあったに関わらず、よくヒーローを目指すのを諦めなかった。坂口さんたちのサポートがあったからなんでしょうね」

 その言葉に安吾はふっと笑ってから、口を開く。

「いえ……私は今回、あの子に何もしてあげられませんでした。オールマイトをはじめ、プロヒーローの方々の存在があったからだと思います」

 そう答えてから、安吾は相澤に「理世がヒーローを目指した理由をご存じですか?」そう問う。

「入試の面接時では尊敬する人の助言でだと聞いてますが……」
「ええ。最初は名探偵の一言だったんです」

 安吾は過去の出来事を相澤に話した。

 両親が亡くなってすぐ、名探偵――江戸川乱歩に出会ったこと。
 どうしたらいいかわからなくなった彼女に、

「ヒーローになるといい」

 その言葉が導いたこと。

「……なるほど。その一言が道標になったというわけですか」

 相澤の言葉に、安吾は静かに頷いた。

「ヒーローを目指すことが彼女の支えになって、本物のヒーローの姿に励まされたんだと思います」

 安吾は、傷ついた理世に目指さなくていいと言った。前に進まなくても、このまま安全に暮らしても構わないのだ……と。

 でも、理世は違った。彼女は自分が思うよりずっと芯が強かった。

 両親から希少な"個性"を引き継いだだけでなく、それ以上の規格外な頭脳を持って産まれた理世。

 だが、彼女が両親から本当に贈られた"宝もの"は、その心の強さだと安吾は知った。


 短い間であっても、愛されて育って、それを知っている人間は強いのだ――。


『安吾さん、安心して。安吾さんの選択は間違ってないって、私が――私の生き方で証明してみせるから』

 ヒーローを改めて目指すと決めた時に、理世が安吾に言った言葉だ。
 その言葉は、その心は、"彼女に手を差し伸べた自分は正しかったのか"という、苦悩と後悔に苛まれていた安吾を救った。

 彼女は必ず、立派なプロヒーローになる――。

「理世のご両親は私の上司にあたる方だったんですが、お二人も彼女がヒーローになることを望んでおりました。幼い理世は両親と同じ特務課のエージェントになりたかったみたいですが」
「へぇ……普通自分の子供も同じ道を目指したいと言ったら喜びそうですが」
「そうですね。二人の死は特殊でしたが、政府の指示で真実を隠されることも少なくありません。きっとそれを懸念したのでしょう」

 ヒーローならその心配はない。
 何より、あの子は表の世界で輝くべきだと――。

「……ああ、すみません。私ばかり話をしてしまって」
「いえ、俺も結月の事情をよく分かりました。担任として、しっかりと見守りますので……」

 相澤の言葉に、安吾はよろしくお願いしますと答えた。
 ヒーロー、イレイザーヘッドとしては、安吾は関わりはなかったが、理世の担任として接して、彼には信頼を寄せている。

「相澤先生には理世を気遣って、太宰くんを派遣して頂いたとお聞きました」
「ちょうど寮に関しての防犯のことで、どこかに相談しようと思ってたんですよ。結月も気丈に振る舞っているだけかも知れませんから、メンタルケアはしっかりしておこうと思います」
「それに、敦くんと龍之介くんを訓練相手として依頼をしたみたいですね」
「ええ。彼らはうちのOBですし、通常なら二年前期に取得する仮免を今の時期に取るには、あいつらは経験が少ないですから」

 いかに本物のヴィランと何度も遭遇をしたといえ、試験に受かるのとはまた別なのだ。

 その後――安吾と相澤は肩苦しい話はその辺にして、他愛のない話をした。

 いつしか話は互いの職場の愚痴になり、尽きることのない話をツマミに、二人の酒は進む。
 
「さすが、国立のヒーロー育成機関ですね。社員に対しての福利厚生もしっかりして羨ましいです。内務省なんて名ばかりで、有給一つ取るのにどれだけ労力をいるか……。労災なんて申請しようものなら命がけですよ」
「坂口さんの特務課も大変そうですが、人間関係がまともそうなのは羨ましいですね。所詮、ヒーローなんて目立ちたがり屋な人種がほとんどなんですよ。自己主張が多くて収拾がつくという言葉はうちにはないに等しい」
「…………………」

 愚痴を聞くのは一向に構わないが、安吾は少し困っていた。

「特にオールマイトが来てからは〜〜」
「相澤先生。そちらは僕じゃなくて、ダルマです」

 相澤は飾ってあるダルマに話しかけている。

 どうやら、彼は酔っているらしい。顔色一つ変えずに、口調もいつも通りなので、安吾は驚いた。
 それにしても……自分とダルマを見間違うなんて、ダルマの丸い目が自分の丸眼鏡に見えるのだろうか。
 少しだけ、安吾は複雑な気持ちになった。

「……そろそろ行きましょうか。ここは私が……」

 財布を取り出した安吾に「よしてください」と相澤が制する。

「坂口さん、年齢的には俺が上ですよ。年長者は立てるものです」
「相澤先生、知らない人にお金を渡してはだめですよ」

 では、ここは割り勘にしましょう――安吾は素早く計算して、相澤から金額を頂いた。

 二人は飲み屋を出る。あんなに酔っているのに、相澤は足取りもしっかりしているのが不思議だった。
 彼も今は雄英の教師寮で、帰路はすぐだ。
 酔っている彼でも大丈夫だろうと安吾は考え、店先で解散することにした。

「では、相澤先生。今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。結月のことで何かあったらすぐに連絡いたしますので」

 最後はお互いに頭を下げて、二人の飲み会は解散になった。
 タクシーを呼ぼうと、スマホを取り出す安吾。
 その彼の視線の先に、雄英とは反対の道を歩く相澤の姿を目にした。

 ……………………。

「相澤先生。タクシーを呼ぶので、どうぞ途中まで乗っていってください。いえ、ちょうど通り道なんです。ええ、じつに合理的ですね」



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