横浜のとある場所には、知る人が知る隠れ家風の地下バーがある。かの有名な怪盗の名前が付けられたその場所には――
「安吾、今日は一段と浮かない顔をしているじゃあないか。まるで、私が作る堅豆腐の行程の塩で水分を抜いた時の豆腐のような顔だ」
「どんな顔ですか……それは」
「仕事で何かあったのか?」
常連でもある、いつもの三人がカウンターに座っていた。
太宰と織田の間に座っている安吾は、飲んでいたトマトジュースの入ったグラスを置いてから、口を開く。
「仕事……ある意味そうですね。変わらず馬車馬のように働かされてますよ」
「そうか」
織田は静かに頷いた。安吾がここまで忙しいのは、彼しかこなせない事案が多く、彼が優秀故にだろう。
「じつは……理世の学校の授業参観日の日程が決まったと、担任の相澤先生からご連絡を頂いたのですが、いかにして有給を取るか考えているんですよ」
子煩脳のような悩みだった。
「有給は労働者の権利だろう」
「本来はね。世の中、権利という武器だけでは戦えないんですよ。特に特務課では」
「では、安吾。私が妙案を授けよう」
太宰が明るい声で言う。グラスに入った氷がカラン、と鳴った。
「授業参観日は私が代わりに行こう」
これで万事悩みは解決したと笑う太宰に、真の解決はしていないんじゃないかと織田は考える。
安吾は眉を寄せて、太宰を横目で見た。
「太宰くん。以前、私の代わりに授業参観に行った際、担任の先生を心中に誘い、当時中学生だった理世にこっぴどく怒られたのを忘れたんですか?」
「あー……そんなこともあったねえ」
あの時の理世は本気で怒っていたので、こちらも思わず居住まいを正し、怒られる姿勢を取ったものだ――と、太宰はひっそり思い出す。
「頼むならせめて織田作さんに頼みますよ」
「俺が行くより、安吾が行った方が理世は喜ぶだろう。俺たちに何か協力できることはないか?」
さも当然のように太宰を含めて織田は言ったが、太宰も異論はせず「こんなのはどうかな?」と、再び提案した。
「種田長官を誘拐して、脅す」
「もっと平和的なのをお願いします」
間髪を入れずに安吾は答えた。
「じゃあ、種田長官を泣き落とす」
「先ほどより平和的ですが、大喜利じゃないんですよ、太宰くん」
「労働基準監督署に駆け込む」
「一気に現実的かつ正規な方法ですね。私も何度考えたことか……。ただ、あそこは内務省の息の根がかかっているんですよ」
恐ろしいことに。
そこで、二人のやりとりは不毛に終わる。その会話を聞きつつ、織田は酒を口にしながら真面目に考えていた。そして、その考えを口にする。
「俺たちで安吾の仕事を手伝えないか?」
安吾が休めないのは、単純に安吾が抱えている案件が多いからだ。機密性の高いものや、重要なものは無理だとしても、武装探偵社に回せる仕事はないだろうか。
「それは名案だね、織田作!さあ、安吾。不発弾の処理なら私に任せたまえ」
「残念ながらそんな仕事は抱えていません」
再び安吾は呆れながら答え、目を輝かせていた太宰は「ちぇ」と、残念そうな声を上げた。
「……ないなら仕方ない。理世の為でもあるからね。他の"簡単な"仕事で手を打つよ」
先ほどのふざけていた様子と打って変わった声で大宰は言った。
太宰が言う簡単な仕事とは「詰まらない」を表しており、決して言葉通りの"簡単"という意味ではない。
常人には困難な仕事でも、太宰が本気を出せば容易く終わるだろう――自分と違って彼は才能に溢れ、優秀だ。
そう誇りに思いながら、織田作は「話は決まったな、安吾」と、隣にいる彼の肩にぽん、と手を置いた。
「そうですね……。珍しく太宰くんがやる気になってくれるのなら、今回はお二人に甘えさせてもらいましょうか」
安吾は二人の友に向けて、[D:38960]を緩めて話す。
"他人を信頼しても信用するな"
その言葉を信条とする安吾だったが、この二人なら任せられる。早速自身の仕事を手伝って貰うことにした。
そして――……
来る授業参観日に合わせて、何年かぶりかの有給は、無事承認された。
***
月日は飛んで――場所は雄英高校、職員室。時は放課後。
同僚である教師たちが、和気あいあいと話に花を咲かせるのは、見慣れた光景である。
相澤消太はそれを横目に(毎回無駄話でよくここまで盛り上がるな……)そう心の中で愚痴をこぼしながら、自分の仕事を全うしていた。
(最後は結月か。坂口さんは携帯電話だったな)
パソコン上の画面を見る。教えてもらった私用と仕事用と、一瞬どちらに掛けるか迷いながら、私用の方の番号を押した。
ちなみに、カモフラージュ用に三台目も持っているらしく「こちらも教えた方が良いでしょうか?」という真剣な様子の坂口氏に丁重にお断りした事は、記憶に新しい。(参事官補佐っつっても、その辺りは人間らしいというか何というか……)
数回のコール音に「はい、坂口です」と、真面目な声が出た。
「私、雄英教師の相澤です」
『ああ、どうも相澤先生、お疲れさまです』
「はい、お世話になっております。今日は授業参観の件でお話がありまして」
『その節はありがとうございました。おかげさまで、事前に有給が確保できて、授業参観には行けそうです』
「それは良かった」
多忙な彼に、事前に予定を組みたいから授業参観の日程が決まり次第連絡が欲しいとお願いされたのは……確か敵襲撃の件で会議に参加した時の事だった。
5年前に両親を亡くしたという結月にとって、彼は後見人という存在になる。
だが、書類に記載された関係だけではなく……二人の間には家族のような絆があるように相澤は感じていた。
「お話と言うのは授業参観の内容についてなんですが、今お時間大丈夫でしょうか」
『はい、構いません』
「内容というのは生徒たちには内緒で、演習授業をしたいと考えてます」
『演習授業、ですか』
「ええ。教師が敵役になり、保護者を人質に捕るというものです」
『……なるほど。生徒たちは家族が人質に捕られても、いかに冷静に大勢の人質を救出するかということですね』
さすがだな――こちらの意図を素早く汲み取って話す坂口に、話が早くて助かると相澤は頷く。
「おっしゃる通りです。家族の大切さ、大切な人が目の前で危険に合っていても冷静にいられるか、大勢の人質をどうやって救出するか……。彼らにはそれを学んで欲しいと思います」
一年生の授業としては、少々酷では?という意見を保護者からもらう事もあった。
確かに彼らはまだ子供であり、生徒である。
だが、いずれ卒業しなければならない。
担任の相澤は、それまでにあらゆるヒーローとしてのノウハウを彼らに叩き込み、精神を育てるのが役目だ。
プロになったら全てが自己責任。
危険と隣り合わせなだけでなく、理不尽な事も、一般社会より厳しい荒波に飲まれる事もある。相澤自身がプロとして、酸いも甘いも経験しているからこそ、よく知っていた。
ヒーローになる為の三年間は、短すぎるのだ。時間は有限――相澤は常に生徒たちにそう口にしていた。
『理にかなっている授業の一環だと思いますよ。現実に起こって欲しくはありませんが、保護者側としても無関係な話ではないですから。プロヒーローの家族が狙われる事件は、少ない事例ではありません』
今度は相澤がなるほどな、と感心した。
身内がプロになるのは何も名誉な事ばかりではない。自分は家族という存在にあまり関心がないため、そこまで意図したわけではなかったが……。特務課として、そんな事件をいくつも見てきたのだろう。(プロヒーローの家族はもしもの覚悟だけでなく、そう言った意識も持たねえと、か……)
「的確なご意見ありがとうございます。勉強になりますね」
『いえ……。じつは昔、私の立場のせいで理世を危険な目に合わせたことがあるんです』
受話器の向こうで申し訳なさそうな声が届く。
何でも彼の持つ情報を狙って、弱みに付け入るのに結月が誘拐されたという。(あいつもなかなかハードな人生歩んでるよな……)
相澤にとって"結月理世"という生徒は、ヒーロー志望としては優秀な人材だが、少々性格に難があり、"生徒"としては厄介な存在の位置付けであった。
まず、その"個性"によってヒーロー基礎学の授業のバランスを考えなくてはならないし、本人が掲げる座右の名の「適材適所」によって、自分の適材適所じゃないと判断したら、あの手この手でやりたがらない。
無駄に知恵があるのは、某探偵社の彼女の師の男によってでは、とオールマイトは言っていたが、余計なことを……と、相澤は常々思っている。
『昔から賢い子でしたので、彼女の機転もあり事なき得ましたが……。ああ、今だから言えますが、相澤先生の元教え子の中島敦くんの協力もありました』
「中島がですか」
『ええ、誘拐事件に自ら首を突っ込んだので、除籍になるかも知れないから黙ってくれと頼み込まれましたよ』
受話器の向こうでくすりと坂口が笑った。
詳しく話を聞けば、法的に問題ない行為ではあるが、あの頃は所謂ゆとり世代が多く、相澤も容赦なく除籍にしていたからだろう。
中島敦。同じく元教え子の芥川龍之介と結月の三人は、同じ師を持つ兄弟子だと後から知って驚いたものだ。
思えば、三人とも同じ横浜出身。
そして、二人も相澤の記憶に強く残る生徒であり、結月といい妙な縁を感じていた。
そんな二人がプロヒーローとしての活躍は相澤の耳にも入っている。まあ、元気にやっているなら何よりだ。
『あ、すみません。つい話が逸れてしまいましたね』
「いえ、そんなことないですよ。――では、よろしくお願いします。それでは」
当初の目的である連絡事項を伝えて、相澤は電話を切った。手元の紙にある結月の名前にチェックを入れる。
これで、保護者への連絡は完了だ。
軽い疲労と達成感に、相澤は息を吐く。
「相澤くん、お疲れさま。安吾くん来られるって?」
根津校長と一緒に戻って来たオールマイトが、相澤に声をかけた。
「ええ。坂口さんには先に日程を伝えてありましたから、無事に有給が取れたそうです」
「そりゃあ良かった。結月少女も喜ぶだろうね」
オールマイトと坂口が友人だという事は、彼の口から度々話が出てくるのでよく知っている。だからか、オールマイトは彼の被後見人である結月の事を、こうして気にかける素振りをよく見せた。
(緑谷の次にだが……)
――緑谷出久。相澤の現教え子の一人だが、彼は相澤の中では問題児の一人だった。
生徒としての品行方正に問題はない。
ヒーロー志望としてもつよい信念を感じ、心構えも問題なし。たまに行き過ぎに思うが……。
緑谷の問題は、そもそもの大前提である"個性"のコントロールが出来ていない事だ。
本来なら幼少期に"個性"が現れ、成長と共に自身の一部として自然と使い方を覚えていく。
緑谷の場合、突然変異的なもので中学二年生の時に発現したという。にわかに信じがたい話だが、その力をもて余す姿を見ていれば納得だ。
だからと言って「はい、そうですか」と甘やかすことは、自分はしない。ひたむきにヒーローを目指す彼自身の為にも――。(職場体験に行って、最近はやっと克服出来てきたようだが……)
職場体験先。
そのただ一名、緑谷に指名を入れてきたヒーローは、何でもオールマイトの恩師だという。
思えば、オールマイトが緑谷に目をかけていたのは入学当初からだった。
"個性"の超パワーが自身の"個性"と似ているからなのか、他に理由があるのかは分からない。(それこそ、弟子か何かなのかね……)
ふと、トゥルーフォームのオールマイトと目が合った。あまりに痩せすぎて、眼下が窪んで影になっている。
「ん?」
「いえ……」
相澤は考えるのを止めた。自分には関係のない事だ。そして、関係ない事を考えるのは合理的ではない。
そして、考えるべき事は他にある。
(保護者の方の協力を得たのは良しとして。問題は結月だな……)
その"個性"で簡単に攻略出来ないように上手いこと調整しなければ授業にならない。まったく、厄介な"個性"である。
周囲に意識を向けると、その間も同僚たちの話はああだこうだと続いているらしい。
(しかしまぁ、よくくだらない話を延々ととできるもんだ……)
呆れながら、相澤はその様子をしばし眺めた。
――ちなみに。とある探偵社の男によって、その授業の問題が解決するのは、その次の日のことである。