遺響の海を漂う
ふと、アナイクスの視界に、研究室の端で静かに本を読む弟子の姿が目についた。イクトゥスは大地獣のぬいぐるみを抱きしめながら、こちらに気付くことなくセレサスの学術書に集中している。その姿はどこか、まだものを何も知らなかった幼い頃の己を彷彿とさせた。
アナイクスの脳裏に、出会った当初の遠慮がちなイクトゥスの様子が思い浮かんだ。ここ最近のイクトゥスは以前とは違い、アナイクスの前であまり臆さなくなったように思う。随分と懐かれたものだった。ついこの間までなら考えられないような言動や行動を、近頃の彼女は簡単にやってのけるのだから。
アナイクスは回想する──今日などがいい例だった。
「先生、今日はこのあと何するんですか?」
休日。樹庭の庭を歩いていたアナイクスのもとに、突如駆け寄ってきたのは一人の弟子──イクトゥス。彼女はアナイクスと軽い雑談を交わした後、そう尋ねた。
「生徒の課題の確認と単位の採点をします」
アナイクスは弟子の問いに簡潔に答える。教え子はその回答を聞くなり、少し考える素振りをみせた。そしてすぐさまこう問い返したのだ。
「お邪魔じゃなければ、ついていってもいいですか?」
「……構いませんが、何か急ぎの用事でも?」
突然の申し出に、疑問を浮かべるアナイクス。しかし彼女は首を横に振った。
「これといった用事はないですが、ちょうど暇をしていたので」
彼女はたったそれだけの理由を提示して、再度アナイクスの了解が得られるどうか、首を傾げて確認した。
「駄目ですか?」
研究はちょうど準備期間で実験段階にはまだ至っていなかったし、採点を行う上でイクトゥスの存在が障害になることもないだろう。したがって、断る理由を特に持ち合わせていなかったアナイクスは、疑念を持ちながらもその申し出を許可したのだった。
──いる分には構わないが、せっかくの休日をこんなところで過ごすこともないだろうに。
貴重な休日であるにもかかわらず、イクトゥスは半日この実験室に入り浸るつもりのようだ。アナイクスは理解できない、と彼女から目を離した。
実験室に娯楽的なものは一切ない。ここにあるものの大半は錬金術または研究に関わるものであり、残りは大量の書物と少しの茶葉とお茶請け。それ以外は大抵アナイクスの私物だった。
アナクサゴラスという人物もまた同様であった。客観的に見て、アナイクスが「知性」の黄金裔かつ学派創始者であることは単なる事実である。ともなれば、多少は頼りにされたり、憧れられたり、反対に嫉妬されたり、嫌われたりすることはあるだろう。しかし、自分という存在を前にして、こうもリラックスされるようなことが過去にあっただろうか。大地獣ならまだしも、同僚や生徒がそのような様子を見せたことはほとんどないと言っても過言ではなかった。
ゆえに、アナイクスは少女を不思議に思わざるを得なかった。単純に生徒からそういった慣れ親しんだ態度をみせられることに、アナイクスはあまり慣れていなかったとも言う。
考えごとをしながら手を動かしているうちに、今日の雑用は瞬く間に終わった。あらかたの成績処理を済ませたアナイクスは、どうしたものかと弟子の存在に目をやる。本格的に実験室での用事はなくなり、アナイクスもまた暇を得てしまった。このまま実験室を後にしてもいいが、せっかく愛弟子がセレサスの学術書に集中しているのだ。無理に結論を急ぐ必要はないように思えた。
イクトゥスが小さくあくびをしたのが見える。己の身体もまた、思い出したかのようにあくびをこぼしそうになった。なんとなく気恥ずかしくなったアナイクスはこみ上げたそれを噛み殺しながら、少し仮眠をとるか、と頭の中で予定立てた。はて、そういえば前に眠ったのはいつだったか。確か徹夜はしていなかったはずだが。アナイクスは気配を消しながら席を立ち、古びた実験室のソファに静かに横になった。
実験室には穏やかな静けさが漂っていた。ステンドグラスから差し込む淡い光の中を、細かな埃がゆっくりと舞っている。アナイクスは、それをただぼんやりと眺めてから目を瞑った。
──静かなものだ。
以前までのイクトゥスであれば、学術書を数ページ読むたびに質問をしていたというのに。弟子の成長を感じながら、アナイクスもまた無意識のうちにイクトゥスのいる生活に馴染みを覚えていた。
アナイクスは、時折響く本のページを捲る音に耳を澄ませる。やがて、彼の意識はゆっくりと記憶の海の底へと沈んでいった。
──昼下がりの神殿。
姉との記憶だ。アナイクスはこれが夢であると認識していた。すでに幾度となく同じような夢を経験していたからだ。
懐かしい夢を見たような気がした。アナイクスは近くで動く人の気配を感じながら、寝返りを打った。眉間に皺を寄せながら、片目を開ける。照明の光を遮るように、人影が視界に入り込んだ。
「先生、起きましたか?」
「……私はどのくらい寝ていましたか」
「どうでしょう。三時間くらいでしょうか」
端的に言って、寝過ぎだった。ほんの仮眠のつもりだったのだが。やはり気付かない間に徹夜をしていたのだろうか。アナイクスは起き上がりながら、ずれた眼帯を付け直そうとそれを一度外した。
「わっ」
「ん?」
見ると、彼女は両方の手で自身の顔を覆っていた。
「何をしているのです」
「先生。目が」
「何を今更」
アナイクスはそれを鼻で笑った。
「……見ても大丈夫なんですか?」
「貴方は��これ�≠�すでに目にしているはずです」
納得がいったり
先生の髪を弄って遊ぶやつ。三つ編みにしてお花さす。
「……なんですか、これは」
「三つ編みです。ちゃんとお花で飾っておきました」
「そういうことを聞いているのではありません」
しかしイクトゥスは一向に悪びれることなく、結われた三つ編みの先を指差した。
「よく見てください。大地獣のリボンなんです」
まあるい目をした大地獣と目があった。確かに、大地獣は愛らしい。
「……本来の大地獣はもっと愛らしいですよ」
「手厳しいですね」
イクトゥスは眉を下げながら、穏やかな表情で楽しそうに笑った。