疑念の輪郭

 禁忌を目にしたからと言って、樹庭の日常がその瞬間から姿を変えるわけではない。経緯の小道には変わらず学生たちの足音が響き、講義室では教師らが数多の学問を講じている。私の日々もまた、拍子抜けするほど何事もなく続いていた。
 うつらうつらと舟を漕ぐ生徒の背中を眺めていると、またしてもあの日の光景が脳裏に蘇る。
 あの、吸い込まれるような紺碧の小宇宙。目を閉じれば今でも鮮明に思い出せるその光景の傍らには、いつも先生の姿があった。現状、まだ禁忌と断言できるほどの証拠は集まっていない。しかし彼の左目の空洞を目にした瞬間から、私の中にはあるひとつの疑念が根を下ろしていた。
 ……アナクサゴラス先生はすでに、取り返しのつかない過ち──すなわち、禁忌に触れてしまっているのではないか。
 そうして例の��課題�≠ニやらを言い渡されて以降、私の頭の片隅には、ずっと先生が居座っている。ただ、先生──あるいは我が師と呼ぶべきだろうか──が私に左目の秘密を教えた理由については、おおよそ見当がついていた。これはあくまで推測になるが、先生は私に対して「自分の師を恐れ、信じるのではなく、疑いなさい」と伝えたかったのだろうと思う。そして、自分の目で真実を見極めなさい、と。
 先生の性格を考えればわかることだった。安易に己を盲信し、その言葉を疑いなく受け入れる……そんな絵に描いたような都合のいい弟子を、彼が望んでいるはずもない。
 連日そうして頭を悩ませる私をよそに、先生は至っていつも通りだった。答えを急かすこともなければ、かと言って何か助言をくれるわけでもない。挙げ句の果てには先日、彼は涼しい顔で、そろそろ新たな研究計画を提出するよう私に命じた。
 彼らしいと言えば彼らしい。
 だが、なんというか、ある意味では私のことを信用し過ぎているのではないかと思わなくもなかった。もちろん、私がその情報を悪用するはずもない。けれど、先生はそんな私の性格を知っているからこそ、そう考えたのだろうか。それとも、はなから私にそんな度胸はないと思われているのか。あるいは、あえて重大な秘密を共有することで、私を共犯関係に持ち込もうとしているのか……。たとえ相手が自分の弟子であろうと、もう少しくらい警戒してもよさそうなものだが。
「イクトゥス」
 思考の糸が途切れる。声をかけてきたのは、よく講義で顔を合わせる同じ学派の友人だった。
「ちょっと聞きたいことがあるの」
「ああ、ごめん。明後日提出の奇獣生態学のレポートのことなら、私もまだできてないから力にはなれないや」
「まだ私、なにも言ってないんだけど」
 あてが外れたらしい。友人はおかしそうに首を横に振ってから、途端に声を潜め、私の肩に顔を寄せるように身を乗り出した。
「ねえ……アナイクス先生が人体実験してるって噂を聞いたんだけど、あれってほんと?」
 つい跳ね上がりそうになった肩を、私は寸前で押し留める。先生のもとに弟子入りしてからというもの、以前の私なら聞き流していたであろうアナクサゴラスにまつわる噂や評判が、あらゆる形で飛び込んでくるようになった。
 ──そう、例えば今のように。
「え、本当なの?」
「ど、どうだろう……」
 正直言って、そんなことは私も聞きたいくらいだ。動揺する私を、友人は訝しげに見つめている。こんなことなら、もっと弁論の力を磨いておくんだった。私はひそかに悔やんだ。
「どこからそんな噂が?」
「民会の学者が言いふらしてたよ」
 私は眉を顰める。民会──それは聖都オクヘイマにて、五年から十年に一度開催される大規模な政治集会である。
「知らなかった?」
「もうそんな時期なんだね……」
 知らなかったのね、と友人は呆れた様子を隠さなかった。道理で、近頃物騒な話題がたびたび飛び交うわけである。
「議題はもう決まったの?」
「��暗黒の潮への対応策について�≠セそうよ」
「また随分と大きく出たね」
 民会とは、市民の代表たちが重大な議題について議論し、投票を行う場だ。議題は元老院が提示し、その進行は議会主席が務める。
「でも、なんでわざわざ先生の噂を流すんだろう」
「さぁね。アナイクス先生の評判を落としたいのかも」
 それはまた、何のために?
「その噂、僕も聞いたよ」
 疑問を投げかけようとしたところで、いつから聞いていたのやら、少し離れていたところに座っていたはずの知人まで会話に混ざってくる。気づいた頃にはすでに講義は終了していた。
「あの人、黄金裔なのになぜ頑なに火を追う旅に反対するんだ?」
「知らない。本人に聞いてみれば?」
「いや、怖くて聞けないから聞いてるのに」
「色んな派閥とよく揉めてる気がする」
「火を追う旅に反対してるけど、かといって元老院の味方って感じでもなさそうだし」
「てか、イクス先生って嫌われてるの?」
「どうだろう。私はそこまで嫌いじゃないけど……」
「顔は好き。でもあの高笑いだけはどーにかならないの」
「高笑いと言えば、突然笑い出したアナイクス先生が教室飛び出して授業放棄したことあるって噂」
「あー、あれマジだよ。俺その授業受けてた」
 ──マジなんだ……。なにやってるんだあの人。
 みんなの口から語られた内容は、おおむね七割が事実、二割が尾鰭のついた噂、残る一割が真偽のほどさえ定かではない話、といったところだった。私は時折苦笑を浮かべながらそれらを受け流しつつ、時には思わず首がもげそうになるほど頷き、友人の言葉に同意する。しかし稀に、私も初めて耳にする話が混じっていることもあった。そんなときは、今度先生本人に聞いてみようと、その話を頭の片隅に留めておいた。
 会話のさなか、予鈴が鳴る。私は我に返って石板で時間を確認した。しまった。今日は実験室に寄らなければならないのだった。私は慌てて荷物をまとめ、教室を後にする。
 そうして実験室までの道のりを急いでいると、突如としてすれ違った見知らぬ壮年の男性に呼び止められた。
「貴殿、待ちなさい」
 みたところ、教授あるいは学者の方だろうか。加えて彼の右手には、見覚えのある一つの鍵が握られていた。
「落としましたよ」
 私はハッとしてそれを受け取る。よく見なくともわかる。それは私の先生の実験室の鍵だった。
「申し訳ありません……ありがとうございます」
「ええ、くれぐれも気をつけてください。大切なものでしょうから」
 親切な男性はそう言って来た道を引き返し、私とは反対の方向へと歩んでいった。




「遅かったですね」
 息を切らしながら実験室の扉を開けると、先生は手にしていた分厚い書物から顔を上げ、こちらを振り返った。
「前の講義が少し長引いて」
 本当は単に友人との雑談に花を咲かせていただけなのだが、咄嗟に小さな嘘をついてしまった。もっとも、彼がそれを追及する気配はない。
 私は息を整えながら実験室へ入り、いつもの場所へ荷物を置いた。研究室の鍵もしっかりと荷物の中にしまい直す。今や先生の実験室の一角は、私の白衣やゴーグル、以前持ち込んだ本、資料などで山積みになっていた。机には研究記録が広げられ、その上には読みかけの文献や学術書がいくつか積み重なっている。
「アナクサゴラス先生。先日、提出するように言われていた研究計画書です」
 私は一枚の紙を手渡す。彼はすぐさまそれに目を通した。
「ふむ……これは」
「なにか不備でもありましたか?」
 先生が紙面から顔を上げる。
「いえ、特に問題ありません。むしろ興味深い内容でした。以前から私もこの分野については関心を持っていたところです。そうですね……いい機会かもしれません。今回は共同研究といきましょうか」
「本当ですか?」
 思いがけず声が弾んだ。
「ぜひお願いします」
「いいでしょう。イクトゥス、この後の予定は?」
「特にありません」
「では、さっそくですが、先行研究と資料を集めましょう。友愛の館に向かいます。貴方も同行してください」
 私は頷いて共に実験室を後にする。そして先生とひとしきり研究テーマについて意見を交わしながら、友愛の館へと足を運んだ。


 友愛の館──それはありとあらゆる知識が集う神悟の樹庭の図書館である。ここでは、蔵書の石板を使って所蔵資料を検索することが可能だ。
 アナイクス先生は軽やかな手つきでその石板を操作していく。手元に該当資料がいくつか提示された。少し位置がバラけているようだ。私と先生はそれぞれ分担して資料を探し出すことにした。
 友愛の館の蔵書は、数え上げればきりがない。私の背丈を優に超える本棚が、隙間なく並べられた書物たちを抱えてどこまでも連なっている。私は本棚の間を縫うように歩くたび、毎度のことながらその膨大さに驚かされていた。
 ──えーと、次の資料は『生命情報と記録──生命体における情報保存の構造──』か……この辺りかな。
本の背表紙を指先でなぞりながら目当ての資料を探していると、ほどなく後ろから声をかけられた。
「何やらお探しのようですな」
「えっと……」
 振り向くと、そこには先ほど出くわした見覚えのある壮年の男性が立っていた。
「貴方は、今朝の?」
「奇遇ですな。またお会いできて何よりだ」
 私は慌てて彼に向き直り、頭を下げる。
「先ほどはありがとうございました。私は山羊学派のイクトゥスと申します」
「お気になさらず。……それに、貴方のお名前は以前より耳にしておりましたゆえ、おあいこと致しましょう」
 私は驚いて目を丸くした。
「聞くところによれば、あの偏屈な学者が弟子をとったというではありませんか」
「偏屈な学者……それはもしかして、アナクサゴラス先生のことをおっしゃっているのでしょうか」
「私には、あれが後進を導くに足る人物とは、到底思えませんでな」
 物腰こそ至って穏やかだが、その言葉の端々には先生への悪意が滲んでいる気がしてならない。私は内心、わずかに警戒した。
「あの気難しい教師のことですから、さぞやご苦労がおありでしょう」
「失礼ですが、先生とはどのようなご関係なのでしょうか?」
「ふむ、一言で伝えるには難しいですな。彼は私の長年の頭痛の種とでもいいましょうか」
 その返答に、私は思わずきょとんとしてしまう。男性はそんな私を見て、わざとらしく咳払いをした。
「申し遅れました。私は礼拝学派のエウドクソスと申します。かつては神悟の樹庭に籍を置いておりましたが、現在は元老院の議員を務めております」
 げ、元老院。しかも現議員だなんて。私は及び腰になった。あまり詳しくはないが、軽々しく関わってよい相手でないことくらいはわかる。
 そもそも、知種学派と礼拝学派は折り合いが悪い。ましてや元老院と黄金裔ともなればなおさらだ。元老院とは、オクヘイマに拠点を置き、司法を担う国家機関である。議員の多くはタイタンを信仰しているため、神に選ばれた黄金裔を快く思わない者も少なくないと言われていた。
「そう身構えなさらずとも、貴殿に害をなすつもりはありません。ただ、少々お尋ねしたいことがありましてな」
 男性は私の返答を待つことなく続けた。
「……貴殿の師匠が人体実験を繰り返し、死者を蘇らせているという話を聞いたことはありますかな?」
 私は胸元に抱えた書物で、早鐘を打つ心臓をそっと押さえた。
「直接、先生の口から聞いたことは一度もありません」
 ふむ、と彼は思案するように顎を撫でた。
「では、聞こう。貴殿は、タイタンを信じるか?」
「はい……信じています」
「それは興味深い。タイタンを信仰していながら、あの冒涜者のもとで学びを得られるというのかね」
「信仰しているものが異なることは、学びの妨げになるのですか?」
 男性は大きくため息をついて、うんざりしたように首を横に振った。
「ああ、やはり哀れですな。イクトゥス殿」
 男性は気の毒そうに、私を気遣う。その言葉に心のどこかで小さな反発を覚えた自分がいた。
「貴殿はアナクサゴラス──否、愚かなヒュポクリテスの本当の姿を知らないらしい」
「私にとっての先生を、偽物だとおっしゃるのですか」
「知れば最後、貴殿は師への敬意を失うことになるでしょう。真理を追い求めるあまり、己の傲慢さすら顧みず、英雄を気取る愚者であったとね」
「そんなこと──」
 そこへ、一つの人影が私と男性の間に割り入った。
「私の弟子に、何か御用ですか?」
「アナクサゴラス先生」
 先生はまるで私を庇うかのように立った。鮮やかなエメラルドグリーンのマントが、私の視界を遮る。
「……随分と目をかけて可愛がっているようですな」
「弟子を気にかけるのは師として当然のことでしょう」
「そうやって若い者から取り込んでいくおつもりか?」
「人聞きの悪いことを。その発言は彼女に対する侮辱にも値します」
 語気を強める先生に対して、男性は笑みを浮かべた。
「へらず口は相変わらずですな、ヒュポクリテス」
「フン、笑わせないでください。それから、私の名はアナクサゴラスです」
 先生は冷たく言い放つ。
「もしや、この場所を聖都オクヘイマと勘違いなさっているのでしょうか。話の続きは民会で伺いましょう。ここは神聖なる友愛の館です。学生の貴重な時間を奪っている自覚が、貴方にはないのですか?」
 エウドクソスはしばし口をつぐんだ。先生の言葉など意に介さぬ様子で、再びこちらへと視線を向ける。
「イクトゥス殿。貴殿は黄金裔アナクサゴラスの弟子である以上、師の同行者として民会に参加する義務があるとは思わんかね?」
 私は息を呑んだ。すかさず先生が口を挟む。
「不要です。彼女は政治を学ぶために私に弟子入りをしたわけではありませんから」
「イクトゥス殿に尋ねているのですよ。ヒュポクリテス」    
 チッ、と先生が頭上で小さく舌打ちをした。
「恐れながら、私はまだ学生の身です。未熟な私が民会に出席したところで、皆様のお話についていけるとは思えません」
「おや、イクトゥス殿。そうご自身を卑下なさることはありません。もっとも、己の無知を自覚しているのであればなおのこと、実際の議論に触れておくべきではありませんかな。師の傍らで見聞を広めることも、弟子に許された大切な学びの一つでしょう。そもそも民会は、特定の者のためではなく、市民のために開かれるものです。アナクサゴラス殿をはじめとする黄金裔が、そこに居合わせているにすぎません」
「わ、私は……」
 ──もう��あの場所�≠ノは行きたくない。
 胸の奥が冷たく強張る。本を握りしめていた指先がわずかに汗ばんでいた。……この感情は私情にすぎない。そう自分に言い聞かせるように、私は口を噤んだ。
「ああ、そういえば」
 エウドクソスは話を変えるように切り出した。
「イクトゥス殿のお手元にある資料の第三丁版が、バルネアの図書館に所蔵されているのを見たことがある。ぜひ立ち寄ってはいかがかな」
 男は一方的に言い残すなり、私たち二人の横を通り過ぎるように去っていった。私はわけもわからず立ち尽くしながら、彼の背中を呆然と眺める。
 ──もしかしてアナクサゴラス先生って、敵が多い…?
「イクトゥス」
 先生の声に、私は振り向く。
「大丈夫ですか」
「は、はい」
「まったく、災難でしたね」
「あの方は一体……?」
 尋ねると、先生は眉間に皺を寄せて口を開いた。
「彼の名はエウドクソス。過去に一度、私を『不信心者である』と告発した学者です。以来、民会で顔を合わせなかったことはありません。私の都合に貴方を巻き込んでしまい、申し訳なく思っています」
「そんな、謝らないでください」
 私は慌てて首を横に振った。
「黄金裔である以上、心底面倒ですが、私は民会に出席しないわけにはいきません」
 しかし、と彼は私を見やった。
「イクトゥス、貴方は民会に参加するのですか」
「……それは」
「元老院の議員に目をつけられてしまった以上、大人しく民会に参加することが無難な選択ではあります。ですが無理にとは言いません。これは私の推測ですが……貴方はああいった議論に加わることを望んでいるわけではない。違いますか?」
 やっぱり、先生ってなんでもお見通しだな。私は素直に頷いてそれを肯定した。
「先生の言う通りです。正直、私はああいった場はあまり得意ではなくて……」
「誰にでも得意不得意はあります。とは言え、学者として最低限の弁論術は身につけるべきなのも確かですが」
 ですよね……と私は遠い目で肩を落とした。
「しかしながら、一つ問題はあります」
 先生は自分が手にしていた数冊の書物を片手で軽く持ち上げた。それらの書物はどれも分厚く、たくさんの人によく使い込まれた形跡がある。表紙はところどころ禿げており、うっすらと埃の匂いを纏っていた。
「友愛の館は蔵書保存数こそ多いですが、新規性には欠けます。一方で、バルネア図書館はオンパロス最大規模の学識の中枢。新たに研究を行うのであれば、一度は足を運ぶべきでしょう。彼は確かに頭の凝り固まった愚かな思想家ですが、学者として間違ったことは言いません」
 資料を、と先生に催促された私は、両腕で抱きしめていた書物を差し出す。先生はそれらを片手ですべて掻っ攫っていった。
「私はオクヘイマに寄るついでに──いえ、バルネア図書館へ寄るついでに、民会に出席しますが……」
 そして、先生は私に尋ねた。
「貴方も同行しますか?」

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