生き肝狩り
京都の端にある、人通りの少ない路地。若い女の姿をした妖は、不快な音を立てながら肝を無心に喰らっていた。真っ赤な紅を施された唇は血の色で赤黒く染まっていた。たった今も、口吸いするかのごとく肝を喰らったがために、飲みきれなかった鮮血が顎へと滴り落ちる。一滴の血も余してはならないと言うように彼女が舌舐めずりしている様を、すぐ側で目を細めながら見ていた茨木童子。彼の背筋はゾクゾクとした感覚に襲われた。
つい最近のことだ、今まで絶対口にしなかった生き肝を喰らいたいと橘が言い出したのは。当初、茨木童子は何かの冗談だと思った。
昔から従っていた鵺の姉。最初は気にも留めなかったが、一度その麗しい姿を見てから脳裏に焼き付き、離れなくなってしまった。女など媚びる存在程にしか考えてなかったというのに。橘を己だけのものに、と考えてしまうことも一度や二度ではない。美しいあの妖狐を己の手にかけたい、取って貼り付けた笑みを崩し、様々な表情を見たい。そんな邪な考えはいくつも浮かんだ。何度か会う内に名を覚えられ、呼ばれるようになったときは歓喜に打ち震えた。忌々しい蘆谷とかいう陰陽師に捕えられた時は相手を塵一つ残さず愛刀で切り刻んでやろうとまでも思ったが、目の前で橘本人に止められてしまった。そうなっては自分の想う彼女の言い分に従わざるを得なかった。
だが、自分が従う鵺が、狂っていると思われるほどに姉を大事にしていることをよく知っていたため、自分の衝動を抑えていた。彼女は鵺が亡くなった後行方を眩ませた。当時は胸が張り裂けそうだ、という言葉が当てはまる状況になったものの、今こうして目の前に居て、共に行動できる。それだけでも茨木童子は満足している。手が出せない雲の上の存在だった彼女が側に居るだけでも良いと言えよう。
彼女の考えていることは見た目からわからない。自分たち京妖怪の前では仮面を被ったかのように、人形のように動じない。本性とでも言おうか、彼女の思いをさらすことはない。母親と弟にしか彼女の本来の姿は見られなかったのだ。
それが今ではどうだろう、飢えた獣のように荒ぶり、狂ったように人の肝を喰らう。瞳が爛々と紅く、妖しく輝くその様は、今までの能面を被ったような顔よりも遙かに妖艶だ。その様子を見ているのが茨木童子ただ一人というのも、茨木童子の気分を良くさせた。
だが、今日は既に数え切れないほどの人を殺めている。そろそろ城に戻らなければ騒ぎを聞きつけた陰陽師たちがやってきてしまいかねない。茨木童子は高ぶる気持ちを抑えつけて、上の空になっている橘へ声をかける。
「おい、橘よ。そろそろ戻らなければならない刻限だ。それくらいでやめにしたらどうだ」
「!!……ああ、そうじゃな。今日はここまでにしようかの」
彼への答えに屈託のない笑みを浮かべる橘。たらふく肝を食べたことで、強烈な飢えが治ったことに安堵していた。彼女は妖気を抑える気はないらしく、人型から本来の狐の姿に近い装いだ。着物の裾からは黄金色の太い尾が二つ伸びており、ゆらゆらと動いている。生き肝を喰らうようになってから、その二尾は母の羽衣狐と同じように、敵意のあるものに反応して攻撃することもできるようになっていた。
人に対して執着心はなくなっていた橘。母を殺された数百年前の当時は恨みもしたが、次第にそれは薄れていき、いつの間にかどうでも良い存在、居ても居なくても変わらないものへと変化していた。だが、一度生き肝の味を占めてから、人は餌という認識になってしまった。生き肝への飢えが満たされたとき、決まって罪悪感に苛まれるがそれも一時の間。じきに飢えに襲われる。そして、何よりも自分の妖力が高まっているのだ。こうなっては喰らわずには居られない。
だが、自分の感情をうまく制御することが出来ない。いつの間にか、気がつけば目の前に人の骸が転がっている。最初は自分が自分ではないように思え、おぞましかった。だが、それが当たり前のようになってきている。そして、妖も手にかけていることがある。その感触は生々しくも残っている。だが、その間の記憶はない。いつからか側に居ることの多くなった茨木童子は上機嫌そうに気にしなくて良い、と言う。
そういえば、何故彼は近頃妾の側に侍っているのだろうか、と橘の頭に疑問が過ぎる。母の羽衣狐に言われて従っているようなそぶりはない。母にも何も言われなかった。ならば自ら好き好んで妾に付いているのか?
しかしその考えは一瞬にして霧散する。後方から雑魚妖怪たちの悲鳴が複数聞こえたからだ。
「何事じゃ?」
橘は今までの生き肝狩りにない事が起こるも、動じずに茨木童子へ様子を見てくるように言おうとした。
「君が橘ちゃん?」
茨木童子の声でない、若い男の声がすぐ後ろから聞こえた。着物を翻して振り向くと、白い狩衣に烏帽子を被った男と、僧侶のような出で立ちの男が居た。
「何だ、貴様らは」
ドスのきいた声で言い放つと、茨木童子は橘を守るように前に出て、立ちはだかる。橘は自身の名が呼ばれたことに眉を潜める。
「おお、そない怖い顔をせんといてや。折角の別嬪さんがもったいないで」
「秀元……本当に話すつもりか?」
一人はけらけらと冗談のごとく笑い、もう一人は怪訝な顔つきのまま。
「何やつじゃ、妾の名を知っているとはただ人ではあるまいて」
「そうやな、ボクは花開院秀元。陰陽師、て言えばわかるやろ」
「陰陽師……!!」
その言葉に目を見開く橘。
茨木童子は刀に手をかけ、すぐに抜刀できるように構える。
「そんな殺気だたんといて、そこのキミ。ボクは何も退治しに来たわけじゃないんやから」
橘はその言葉にますます懐疑の目を向ける。
「だったら何だ、って顔やな。それじゃあ、単刀直入に聞くんやけど、最近の生き肝狩りが派手になっとるのはキミが原因?」
首を傾けて秀元は問う。橘は頑なに口を閉ざしたままだ。
「無言は肯定ととるで?まあ、目撃情報に違わぬその容姿。近頃噂になっとる狐女で間違いないやろ」
橘は薄笑いを浮かべる彼の考えを読むことができないでいた。行動の先が読めないのだ。だが、普通の陰陽師ではない何かを感じる。今は退散した方が良いだろう。そう思わずには居られない。
一方の秀元は是光にしか聞こえないほどの声で話しかけた。
「案の定ただ生き肝を狩っている訳じゃなさそうやな……。橘ちゃんから何か別の者の気配がするんやけど……これは呪詛と言ったところか、兄さんどう?」
「言われてみれば、妖気以外のものが混じっている。それも禁術の類のように見えるが……」
「きっと、誰かがかなり昔にあの狐ちゃんにかけたんやろうけど、何やら色んな危ない臭いがするで。これは迂闊に動けへん。それにしても、よくもまああれだけの呪詛に耐えられるな。流石羽衣狐の血を引くだけある、か」
ふう、と息をつくと秀元は式紙を懐から取り出す。
「今日は分が悪いから帰るわ。まあ、君がどんな容姿かもわかったからなあ。また会おうな、橘ちゃん」
言い終わると同時に、低い破裂音がして白い煙が辺りを包む。見えない間に二人の陰陽師は朧車の式に乗り込み退散した。
「何なのじゃ……」
「ふん、目障りな虫けらが……。今のうちにとっとと帰るぞ。また出くわしたら厄介だ」
朧車の式が去った方を見上げて、茨木童子は口にするのも嫌なのか、吐き捨てるように言う。さっさと歩き出す彼の跡を追う。だが、橘はなにやら胸騒ぎを覚えた。気のせいだ、と思いたくても思えない。無視できない何かがある。そろそろと、後ろ髪が引かれたようにゆっくり振り返る。雲に隠れていた月が顔をのぞかせ、ほのかな光が射し込む。しかし、何もない路地に、小さくため息をついた。だが、何かが狭い路地で動いた。
よく見えないそれに幾度か瞬きをする。何かがそこに居る。
思わず一歩後退りをする。近づいてくる何かを見ようとじっとそこを見つめる。そしてようやく見えたそれに目を見開く。ぬらりと現れるその姿。居るはずのない、彼がそこにいる。
「ようやく見つけたぜ、橘……!」