割れた鏡
ぬらりひょんが橘を探し出しに京都へやって来てから一ヶ月が過ぎようとした頃。彼女らしき人物が大坂城に居るとの噂は、確固たるものへ変わってきた。京都で噂の絶世の美女というのは妖ではなく、人間の娘だった。しかしながら、この人間の娘にぬらりひょんは心を奪われたのか、その娘の元へ足繁く通っていた。雪麗やお蓮はそのことに頭を抱えていた。
ぬらりひょんは、本当に橘ではないことを確認するため、件の人間の娘、珱姫を見に行ったのだ。その際、何か思うところがあったらしく、暇を見つけては珱姫の元へ足を運ぶようになった。橘のことを忘れてはいまい。しかし、総大将がこの調子では、配下の士気も下がる。
このことに一番胸を痛めているのはお蓮だ。己の主をおろそかにされていることに変わりは無い。そんな彼女に、雪麗、牛鬼が側で支えていた。お蓮の青い顔が更に濃くなっている様は端から見ても恐ろしく、悲しげで会った。
「あのバカ!なんで人間の小娘なんかに……。牛鬼、どうにかぬらりひょんを止められないの!?」
「……うむ、私とて考えている。しかし、何故そのようなことをするのか理由もわからず、止められまい」
雪麗が頭の切れる彼に尋ねるも、色恋沙汰に縁の無い彼が答えを出せるわけが無かった。無論、この後痺れを切らした雪麗が鴉天狗に八つ当たりしたのは言うまでも無い。
幹部の者たちも、流石にこの総大将の行動に思うところはある。だが、当の本人が居らず、文句の一つも言えない状態が暫く続いていた。
大坂城では、今日も飽くことも無く生き肝の献上が行われていた。しかし、橘の姿はそこになかった。彼女は心労のためか日に日に妖気が弱くなり、部屋に閉じ籠るようになった。羽衣狐も流石にこのことについて放置していられず、どうにか娘を助けようと躍起になっていた。けれども大坂城に居ること自体が彼女を弱らせる存在である以上、何をしても無駄である。大坂城の妖たちは原因がそこにあることがわからず、何故橘が臥せりぎみなのかわかっていなかった。鬼童丸は薄々感付いていたが。
ここに留まらせる以上、妖気を回復させなければ命にも関わる。そこで羽衣狐は、橘の食事に自身が食べるつもりだった生き肝を使わせるように命じた。力のある人間の生き肝を食べて羽衣狐は強さを増した。それを娘にも食べさせれば体調も良くなろう、というのが彼女の考えだ。
早速手下たちは橘の食事に生き肝を使ったものを含めた。母の思惑など知らない彼女はそれを口にした。橘は食感がいつもと違う、と思ったものの、そこまで深く考えずに食事を続けた。だが、食べ終わる頃になって、妖力が増していることに気付くとともに、とてつもない飢えに見舞われた。昔、まだ晴明が生きていたあの頃と同じ。
――足りない。
何が、なんて聞くまでもない。
――欲しい。
「まさか、今食べたものは……」
背筋がひやりとした。妖力が弱まった状態であれを口にするなんて。どくりと一際大きく、心の臓が脈打つ。
――生き肝が欲しい。
「あ、ああ……」
母の仕業だと気付くのに、そう時間はかからなかった。だが、一度口にすれば自力で食べないようにするのは難しい。一種の麻薬のようなものだ。渇望して止まない。理性では食べたくないと思えど、本能は食べたくて仕方がない。
――生き肝が食べたい。
これが、母の望んだことか。
身体中が熱い。人間を襲い、肉を引き裂き、生き肝を口にしたい。この欲望は、ただ肉を貪る獣と同じだ。だが、今の橘は理性と本能の狭間で揺れ動いている。幸いにも、彼女の理性が勝っており、衝動的に動くことはない。だが、この理性がいつまで保てるかは時間の問題だ。
そこへ、羽衣狐の使いがやって来た。
「失礼致します、橘様。羽衣狐様が急ぎ大広間へ来るようにと仰せになっております」
「……すぐ参る」
一番飢えた状態に等しいが、母に文句の一つも言わねば、と思い彼女はふらついた足取りで部屋を出た。
大広間へ迎うにつれて、何やら強い力を感じる。妖力ではない、ならば……。そこまで考えて橘は歩みを止めた。
――人か!?
まさか、生き肝が献上されてる場に来てしまったのか。その考えが頭をよぎる。しかし、足は思うようにならず、また広間へと進み始める。妖としての本能が、彼女の理性を片隅へ追いやろうとしている。
大広間へ到着し、橘は母の前に座した。いつものように表面は取り繕っているが、内心は荒れている。そして彼女の予想通りに生きた姫君たちが強ばった表情で淀殿の前に座っている。
「さて、橘を呼んだのは皆もわかっておろう」
羽衣狐は周りにいる人間に扮した妖怪たちへ語りかける。姫たちは訳がわからないという顔で辺りを見回す。
「橘や、お主もそろそろ我慢の限界であろ。良い生き肝を揃えたつもりじゃ、遠慮せずに喰らうが良い」
口にしたいなんて、思わない。それでも、震える唇は答えた。
「……仰せのままに」
もう止められなかった。すっと橘は姫の前へ進み出る。ほんのわずかな時間だというのに、随分長く感じる。すっと手を出せば、人間の娘は手中に収まる。本能のままに、口を合わせる。相手は結束を逃れようと藻掻いたが、それもつかの間、腕をだらりと落とした。白目を剥き、口から血を流しながら畳の上へ倒れた。
「……次はどやつにしようかの?」
生々しい音を立てて生き肝を飲み干し、橘はぺろりと舌なめずりをする。残る姫たちは、皆震え縮こまっている。恐怖のあまりに、声も出せないようだ。
そこからはただ、地獄絵図が広がるだけだった。一人、また一人と肉塊へと成り果てた。
人間の姿をした美しい妖狐は黄金色の立派なニつの尾をゆらりと揺らす。その口からは、飲み下せなかった鮮血が滴る。今の彼女には飢えた獣という言葉が似合う。瞳はギラギラと深紅に染まり、輝いていた。先程までの迷いや雑念は一切感じられない。別人のようにも見える。
その様子を見て、羽衣狐は満足げに笑みを浮かべた。その手は腹を優しく撫でている。
「もうすぐじゃぞ、やや子よ」
それから、生き肝狩りは一層激しくなった。二尾の妖狐がよく見られるようになったと言う。まさしくその妖狐は橘である。彼女は今までの面影も見られないほど、変貌してしまっていた。生き肝を食べるために殺戮を繰り返していた。このようなことになるとは、羽衣狐も予想だにしていなかった。茨木童子やしょうけら、鬼童丸、鞍馬山の大天狗、狂骨も手を焼くほど、彼女の性格も荒々しくなってしまった。今までのように籠の中の鳥でいるよりは、ましなのかもしれない。だが、これは彼女の本心では無い。心は相当な傷を負っている。この深淵から彼女を救い出すことができるのは、彼だけだろう。