山積みの問題

 ある朝、懐かしい名を耳にした。昔は理解できなかった彼の言動も、今ならわかる。

 何の変哲も無い夏休みを、課題も早々に終わらせて自由気ままに過ごす。誰もが夢見るような、そんな生活を送る少年が一人居た。一度は経験したことだからこそ、少年は何をやるかなんてわかっている。夏休み初日で終わらせてはいないものの、早い段階で片付けてしまえば、その後は何をしようと彼の自由だ。憂い無く残りの休暇を満喫しようとしていた矢先、少年が予定していた楽しい夏休みは一変した。

 その日は平日で、共働きの両親とも仕事に出ており、少年は一人朝食をとっていた。何気なく点けたテレビでは、朝のニュース番組が放送されている。案の定大したこともなく、事故や事件がどこそこで発生しただの、今日の天気は曇りだのと、ありきたりなものがそこにはあった。

 だが突然、凶悪犯罪者が脱獄したとの速報が流れた。少年は物騒なことだと聞き流そうとしたが、そのとき告げられた脱獄犯の名に目を見開いた。彼の顔からさーっと血の気が引いた。ただでさえ寝起きで蒼白い顔が更に白くなった。だというのに、やけに心臓の音がうるさく聞こえる。脳裏にその名前が反芻し、何も考えられない。四角い箱の中で、凶悪犯罪者が脱獄した状況を淡々と述べる女性を余所に、少年は食べかけのトーストを咥えたまま、自室に早足で向かう。

 行儀が悪いと思いながらも、歩きながら無理矢理トーストを口に詰め込み、飲みくだす。何が何だか、頭がぐちゃぐちゃして整理できない。急に喉が渇き、いたたまれなくなった彼はリビングに戻り水を飲む。夏の暑さでぬるくなったそれが体の中を流れる感覚に、一気に現実へ意識が戻った。ふと自分以外の声がすることに気付き、そちら方を見る。すると、点けっぱなしのテレビが別の話題に移っており、またいつもの朝に戻った。

 「シリウス・ブラック……」

 「僕」の兄。

 もう二度と関わることはないと思っていた。それがこんなところで覆された。世の中何があるかわかったものではない。そもそも「僕」がいる時点で色々と不可思議だが。

 見もしないのに点けていても仕方ないので、彼はテレビのリモコンを手に取り電源ボタンを押す。プツンと音をたてて画面は真っ暗になった。静寂がその場に訪れる。

 すると、シュルシュルと音をたてて、一匹の蛇が彼の足下へと這ってきた。大切な友から託された蛇は、ゆっくりと彼の膝まで上ってきた。
「心配することはない、シェーシャ。ただ、彼女が……」
そう言い聞かせるように彼――エドマンドは声に出す。しかしながら、その青い瞳はゆらゆらと揺れており、彼の気持ちが不安定なのが見てとれた。シェーシャと呼ばれた蛇は、目を細めて彼を見上げたままだ。エドマンドもそれに気付いたのだろう。左手を差し出すと、シェーシャはゆるやかに這い上った。蛇のひんやりとした感触が、今は心地よかった。
「俺もパーセルマウスだったら、お前と話せたのになあ」
眉を下げ、諦めたように彼は呟いた。すると、蛇は慰めるかのようにその身をすり寄せた。エドマンドもシェーシャの背を優しくなぞるように撫でた。

その後ぼんやりしていると、脳裏によみがえるのは"あの時"の記憶だった。



 あの日、亡者たちに引き込まれて、「僕」は死んだのだ、と思った。誰だかわからない――しかし男のものらしい――声が聞こえたのを皮切りに、意識は闇に沈んだ。

 それからどのくらいの時間が経ったのかわからない。だが、酷く眩しい光に目を覚ましたら、「僕」はあたりが白一色に包まれた部屋にいた。身体は石のように重く、目線をさ迷わせるだけでも精一杯だった。その重い身体は、よくわからない細長い管とあちらこちらで繋がっていた。ふと窓際に目線をやると、見ず知らずの女が、しかも泣き腫らした真っ赤な目で、こちらを見ていた。これにはとても驚いたので、今でも覚えている。そして、「僕」が『エドマンド・アヴァロン』という少年になっていたことを知った。更に、「僕」は魔法使いでなくなっていた。毛嫌いし見下していたマグルに生まれ変わってしまったのだ。

 目覚めたその日は、一体何が起こったのか全くわからなかった。『エドマンド』は幼かったため、大きなショックを受けたのだ。記憶が曖昧でも仕方がない。そう大人たちが思って、子どもが全く言葉を発しないことに、そこまで不思議に思わなかったのが幸いだった。目を真っ赤に泣き腫らしていた女は、『エドマンド』の母だということをすぐ後に知った。

 後に聞いた話では、『エドマンド』は交通事故に遭ったらしく、ほぼ死んだのも同然だったらしい。だが、奇跡的に息を吹き返したそうだ。それは、「僕」が「俺」になったのと関係しているのだろうと、推測しているが。『エドマンド』としての記憶は何も思い出すことはできない。霧がかかったような、もやもやしたものでしかない。「僕」としての記憶はというと、断片的になら思い出すことができる。だが、年々思い出せなくなっていく。徐々に「僕」は、「レギュラス・A・ブラック」は『エドマンド』から失われてしまうだろう。

そのまま意識が朦朧とし、暗転するかのように思えた。しかし、腕に何かが絡み付いているのを感じ、意識を現実に戻す。はっとして、左腕に目を向けると、シェーシャがそこに絡み付いていた。
「……駄目だな、今日は家でゆっくり過ごそう」
そうでもしていないと、頭の整理が追い付かない。エドマンドは、ぼんやりと上を見て言う。この空の下の、どこかにいる兄を思って一人静かに、ため息をついた。

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