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和泉 海国(倭泉 海國、いずみ みくに、女性、1873年9月4日 - 1914年9月5日)は、埼玉県北葛飾郡生まれの小説家、詩人。本名は千代。

和泉 海国
(いずみ みくに)

誕生 1873年9月4日
日本・埼玉県北葛飾
死没 1914年9月5日(41歳没)
日本・東京都神田区
職業 小説家、詩人
言語 日本語、ドイツ語
国籍 日本
最終学歴 東京英和女学院卒
ジャンル 小説
文学活動 属する派閥なし
代表作 「壹月」(1883年)
「匂えど散らず」(1896年)
「拝啓我が友」(1914年)

△経歴

▼生い立ち
1873年9月1日に埼玉県北葛飾のそれなりに裕福な家庭に誕生、泉州出身の父と武州出身の母の間に生まれる。二つ上と三つ上に兄がおり、末長女であった。随筆「羽衣にゐたつては」の一文「上の兄は真勤勉であつた。下の兄は上の兄を大層慕つてゐたし、自分もそんな兄弟達を慕つた」から、兄弟仲が良好であったことが窺える。どうやら幼い頃から物事を文章に認めることを趣味としていたらしく、随筆「生涯一節」にて「父は「御前は物書きに成れるな」等と笑ゐ、……」という一文があり、父親に勧められたものと思われる。代表作「壹月」はそれを証明するように10歳の間に書き上げたものを売り出したもので、彼女を象徴する一つの物語となっている。また、海国が6つになる頃に父の友人・有島武の元に有島武郎が誕生。「壹月」中盤に出てくる友人の息子のモデルと思われ、主人公に拠るには、「余りにも愛らしゐ赤子で在つた。私にとつて、初めて之下の児であつたからかも知れぬ。……」と記されており、凡そこの一文は海国が武郎に抱いた感情でありそうだ。

▼学徒時代
ミッション・スクールである東京英和女学院に通っていた海国は、キリスト教の洗礼を受けている。望んで通った訳では無いが、知識を欲した海国にとって当時最も海国の希望に合った学校であると推測され、また、この時のキリスト教の教えは、その後の文章にも反映されている(実際、「壹月」では出得なかった思想・文節を「匂えど散らず」では入れ込んでいる)。ドイツ語を学んだのもこの頃で、度々海国の著作にはドイツ語をカタカナ表記したものが出てくる。

▼文壇まで
海国が海国として筆を取ったのはそう遅くない。しかし海国が海国ではなく和泉千代として小説を書いたのは極めて幼い頃だった。初めて人に見せたものは「壹月」とはいえ、当時既に彼女は海国というペンネームを考えており、父にも海国の小説としてそれを読ませている。では千代として初めに書いたのは何か、というと、「芙月(はづき)」、という名の文章であり、それは時代を先取りした耽美派の文学に相当するものであったが、他人には見せたがらなかったため、発見されたのは彼女が死没してからとなった。
海国のペンネームはそう考えられたものではなく、泉州出身の父から散々海のことを聞かされていたので「海」、兄らに一文字ずつ与えられていた「國」、と、自身に所以あるものを組み合わせて出来たものである。図らずしも名前中に二語、水に関係のある言葉を使用しており、後の二語は祖国に関するものであった。
初めて世に出た文章は「壹月」であり、裕福であった父が娘の才能を喜び自慢しよう、と、自費出版の文庫として発売された。近代文学の祖と言って大差ない。

▼近代文学の祖として
1885年(明治18年)、尾崎紅葉らによって「我楽多文庫」が作られる。これを聞きつけた海国は自分も寄稿しようとしたが、当時12歳だったこともあり、父に止められて断念。同年坪内逍遥による文学論を見て感涙し、氏に弟子入りしようとするも、こちらは上の兄に止められて泣く泣く断念。しかし坪内逍遥が和泉家の門を叩き、海国に弟子入りしたいと訪問。しかし、勉強中の身の上であり、自身を未熟と称する海国はそれを受けず。友人として度々会合をするようになる。

1890年、「国民之友」に「彌生の秋」を発表。奇しくも森鴎外の「舞姫」と同年で、この時期の海国の作風はキリスト教の教えを強く反映したものであった。またこの時期、森鴎外との交友もスタートしており、彼の作風も自身のものに反映している。

それ以降も「なゝ草(1892年)」「ツルギヰ(1893年〜1994年、讀賣新聞)」「嵩を懷く(1895年)」「匂えど散らず(1896年)」「哀情(1898年)」などを出版し続け、その道で知らぬ者は居ないと言われるほどの人気を誇る。また、「嵩を懷く」に酷く感銘を受けたらしい尾崎が和泉邸へと訪ね、茶会をする仲となった。しかし、「哀情」を出版した頃より、海国のことを嫌う派閥、所謂アンチが目立つように。1898年初春、とある人間が茶会をしに尾崎邸へと向かう海国に刃物を持って襲い掛かるという事件が発生し、海国は一時筆を置くことになった。筆を置く、とは言ったものの、出版するのを辞める、ということであり、書くことを辞めたことではなかったし、勿論読むことを辞めたわけではなかった。気の置けない友人となった坪内逍遥・森鴎外の論争については、随筆「生涯一節」にて「噫、我が友人等の諍には真困つていた物で有る。何せ和泉邸迄やつて来るや否や大人気無く騒ぎ出し、……」と言っている辺り、海国にとって胃の痛いものであったのだろう。

▼1900年代(27歳〜)
1900年、徳田秋声の「雲のゆくへ」に感銘を受ける。弟子入りを志願するも、氏がそれを拒否したため断念。1902年から出版を再開した海国の作品はこれより自然主義に寄った物となる。1903年に友人である尾崎紅葉の死の報せを聞き、同年海国の最初で最後の詩集である「芭」の一節にて「友之寿」を寄せる。また、同年に国木田独歩と出会い、交友関係を広げた。
1905年、夏目漱石の元を訪れ弟子入りを志願するも断念。この頃、上の兄が地方に赴き、下の兄は地方で教鞭をとっていたが、父は危篤の状態であった。兄に報せを告げるなという遺言と、たった一人海国に遺された遺書のみを遺して父は死没。母は父と共に在りたいと言い、同じ場所に埋葬される。生き埋めになった母と骨になった父を自宅付近の墓地に置いた後、自身と兄の荷物を持って、居場所を転々とする。
1906年に出版された島崎藤村の「破戒」を読み、父母を埋めてから一度も取らなかった筆を執る。そうして書き上げたのが「豊葦原」である。今までの物とは一風変わった作風であったため、徳田が当時の海国の居住地に訪ねてきたこともあるという。この頃より、島崎藤村と交流を持つ。
1907年、田山花袋の「蒲団」を読んで氏の元へ飛ぶ(後に徳田に怒られている)。弟子入りを志願するも拒まれたため断念。
1910年、「白樺」に向けて「ホワイト・ヰレギユラア」をよせる。この頃より、志賀直哉・武者小路実篤との交流が始まる。また、1911年に「徳田氏の文」を記し出版する。全編が海国による徳田秋声を賞賛するものである。
1914年、成を顰めていたらしい海国のアンチ一派が海国を刺殺する。奇しくも海国の誕生した日の翌日であり、また、随筆「拝啓我が友」を世に出した翌日であった。会う予定だったらしい島崎が予てより海国と交流があると聞いていた森の元へ急ぎ連絡を取るも即死であったためそのまま死亡。41歳、若すぎる終わりであった。交友関係が広く深い人間であったが故、海国を刺殺した人間は直ぐ様捕えられ、また、父母の墓地を聞いていた徳田により、実家近くの墓地へと葬られた。海国の死を連絡された二人の兄はこの時父母の死を知ることとなる。
海国の死後、海国と交流のあった文豪らでそれぞれ寄稿し、「絶へ間無く」を手向けとして出版する。

△関連する場所

▼墓地
北葛飾にある小さな霊園。名は知られていなかった。現在は第二次世界大戦で灼かれてしまい、形を残していない。

▼徳田秋声記念館
徳田から海国へ贈られたものが遺っている。

△人柄
経歴の欄でも述べている通り、交友関係の広く深い人物である。幼少期の有島一家は家族ぐるみのことであるから外すとしても、坪内逍遥や森鴎外、尾崎紅葉をはじめ、弟子入りするしないでのいざこざはしょっちゅうあり、また、付き合いが長いゆえ、すぐに弟子入りしたがる海国を呆れつつも優しく見守っていた。海国がすぐに弟子入りしたいと言うのは、それだけ尊敬出来るものがあり、あわよくば傍で教えて欲しいという欲があったからである。海国の志願を断った多くの人間は、むしろ海国に弟子入りしたかったからという理由が多くあり、それを知らぬまま海国は死亡した。
末長女であった故の気質が残っていたのか、年上や同年代には妹扱いされる挙句年下にも諌められることが多く、それについては不満を抱いている(随筆「拝啓我が友」一貮節「伴」より「挙句の果て下の児からも此の頭を抑える様に撫でられてゐるのは我慢ならぬ。……」)。

△評価
・徳田からは幾分か可愛い妹分だと思われ、また、尊敬できる文壇の先達だと思われている。その心情を吐露したのは海国の死没後である(「彼の人懐こゐ海の名に謂つて於けば善かつた。御前は私之愛しい妹であると。貴方は私の壹つの目標であつたのだと、……」文集「絶へ間無く」より)

・尾崎は生前、文通をしていた海国相手に「弟子になりたい」と何度も送っていたそうである。燃えているので現在は不明だが、徳田の随筆による。

・基本的に交友を持っていた者には可愛がられていたが、面識のないはずの北原白秋とも文通を通して世話を見られていたようである。また、その繋がりか北原一門には名の知れた人物であったようだ。

・太宰治によると、「噫、せめて彼の人に逢えたらと思つた事は、一度弐度では無い」という一文を書いており、直後に織田作之助や坂口安吾もそうだという節があるため、面識のない者達からも死を惜しまれている様子が伺える。

・また、プロレタリア文学を嗜む者達からも「彼の人ならばどうするのであろうか。我らの文学の祖。儚くも戯れる海に包まれた人よ。……」と称されており、人気、というよりも、志賀直哉(小説の神様)のような存在だったと言える。