最果ての星へ

「鶫」
「はい、お母さん」

 国家アルケミストと特務司書の夫婦だった両親の元に産まれた私は、将来、アルケミストになることが約束されていた。物心付いた時には既に母は特務司書の任に就いていて、周囲には死んだ筈の昔の人物が溢れているのが日常だった。それに違和感なんて感じていなかった。母がその人たちの中で最も信頼していたのは、徳田先生、中野先生、と呼んでいた人達だ。フルネームは、徳田秋声と中野重治。私は賢治くんと南吉くん―宮沢賢治と新美南吉―と一緒に本を読むことが多くて、たまに白秋さんに寝かしつけられていることもあった。
 違和感なんて無かった。それが日常だったから。学校で賢治くんの名前を見ても。南吉くんの名前を見ても。とーそんの名前を見ても未明くんの名前を見ても白秋さんの名前を見てもそうせきさんの名前を見てもりゅうくんの名前を見てもろふうさんの名前を見てもたつじくんの名前を見ても犀星くんの名前を見ても牧水さんも子規さんも虚子くんも光太郎くんも啄木くんも治くんも左千夫くんも。

 本当は分かってた。教科書でその名前を見るよりも、その人の写真を見る方が辛いの。何度も涙を零さないようにしながら写真を撫でる。図書館に、家にいる皆とは似ても似つかないのに、同じ名前で、同じ本を書いた記憶があって。ごめんなさい、って思った。ドグラ・マグラと名の書いてある本を取る。狂える本。これを読めば、私はもう少し、息が楽に出来るようになるだろうか?
 けれども息を吐きながら表紙をめくろうとした時、後ろから長い手が伸びてきた。

「あなたにはまだ早いですよ」
「……久作くん」

 まさか書いた人に止められるなんて思ってなかったのだけれども、少し久作くんの気持ちは分かっていたような気がした。

「どうして読んじゃいけないの?」
「あなたの望んだことにはならないから、ですかね」

 迷いの消えない小学生のわたしに道を示してくれたのは、久作くんだった。海水が肺を満たしている感覚は消えてくれなかったけれど、久作くんのおかげで息は随分楽になった。

 白秋さんは、道を共に歩いてくれた。
 両親にいざ頼ろうと思うことも多々あったのだけれど、アルケミストの仕事も特務司書の仕事も激務だったから、あまり話しかけることは無くて、仕事部屋の前で佇んでは何も話し掛けず自室に帰っていく、なんてこともあって。白秋さんはそんな私を母のように暖かく迎えてくれたし、父のように厳しく叱ってくれた。私にとって育ての親は白秋さんだった。

「今日はどうしたんだい、鶫」
「白秋さん聞いて、今日の国語のテスト!満点だったの!」
「へえ、凄いじゃないか。見せてごらん」

 両親に愛がない訳では無かった。誕生日にはプレゼントもくれたし、休みを取ってくれたし、一日中両親を独り占めして良かった。皆も祝ってくれたし遊んでくれた。誕生日だけ、この図書館は私のお城になる。一日だけだ。でもそれで良かった。両親が遊んでくれなくたって皆が遊んでくれる。戦いが終われば居なくなるのは前から聞かされていたけど、今が良ければきっと私は。だから。

「お父さん、……お母さん?ねえ、――どう、して」

 中学生の頃、先生から連絡が入った。お母さんとお父さん、図書館が危ないって。その先生はアルケミストを知り合いに持っているみたいで、いつも私の担当を受け持ってもらっていた。
 どうして。だって今朝は何も問題無かったじゃない。今日の助手だって言ってた基次郎くんに見送ってもらって、お父さんとお母さんに行ってきますをした。いつも通りの朝だったのに。どうして今、図書館がこんなに静かで(代わりに、青く澄んだ光が覆う本が沢山落ちている)、黒いインクで塗り固められたような人形がふたつ、落ちているのか(代わりに、どこを見渡してもお父さんとお母さんは居ない)。

「どうして」

 その日、私は一人になった。
 微かな星の光さえ届きやしない部屋で独り、膝を抱えた。手元にはドグラ・マグラと書かれた本があって、くしゃくしゃになった満点のテストがある。
 もう誰も私のわがままを諌めてくれないし、誰も私のことを褒めてくれない。遠くの方から、それと近くの方からも、物音がして、私は顔を上げた。揺れているドグラ・マグラを手に取る。外の音は恐らく両親の上司だろうか。使役する司書が居ないこの本は、没収されてしまうだろうか。――そんなの、やだ。

 決めてからは早かった。ペンポーチの中にある最も先が鋭利なペンを指に食い込ませ、走らせる。多少痛みは感じるが、もう逢えなくなることに比べればあまりにも小さなリスクだ。ぷくりと膨れ上がった血液を揺れの大きくなったドグラ・マグラに押し付け、それを書いた人間の名前を、小さく、小さく。本にだけ聞こえるようなボリュームで。
 さびしいの、たすけてよ。

「久作、くん」

 文学書特有の光が舞ったのと、私の部屋の扉が開けられたのは、コンマ一秒くらいの差だった。

「夢野久作――狂気の果てより、戻って参りましたよ。ええ、勿論。……鶫。あなたの為にね」

 色のくらい長髪が、目の前でゆれる。
 心細さも、切なさも、一人増えるだけで、こんなにも。

「鶫」

 嗚呼、なんて柔らかい呼び声か。縋るように久作くんのスーツの裾を掴めば、私の意識は閑かに闇へと落ちていった。
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