天使が嫌った聲の果て

 人間が周りから居なくなったのち、最初に忘れ去られるのはその声だと聞く。そのかんばせではなく。先んじて、声であると。
「ウェイバー」
 その名は棄てたのだから、と諌めることもあったが、彼女は決して私のことを、ボクのことをウェイバーと呼んで憚らなかった。一度、どうしてそのように拘るのかと聞いたが、彼女は困ったように微笑むだけだった。

・・・


「ウェイバーは真面目だな」
「何だ、藪から棒に」
「ふと思ってさ」
 恐らくはアドラ。もしくはイゼルマ。内弟子であるグレイが席を外した時の話だったはずだ。私が彼女、トルマに頼み事をした折、ふと思い浮かんだか何かでいきなりそう言われたことがあった。ロード・エルメロイII世と頑なに呼びたがらない彼女に溜息を吐きつつも諦めも付き始め、ゆえに随分昔から変わらぬ呼び名で私のことを呼び続ける彼女に、息をついて。
「弟子、ねえ」
「お前ほどの能力ならば弟子入り志願も多いだろう」
「うーん……否定はしないよ。取ってはいないけど」
 当時の私は知る由もなかったのだが、その時既にトルマは自身の持つ魔眼の力でその先のことを見越しており、であるがゆえに弟子を取らなかった。前途したように私はそれを知らなかったため、嫌味かなにかだと受け流してしまったのだ。
「取りたいなら取ればどうだ」
「弟子をかい?」
「そうだが」
「……難しいなあ」
 お前ほどの魔術師がか、とは口から出なかった。結局その日は少しあとにグレイが帰って来てしまい、それと時を同じくしてトルマも自身に与えられたルームへと帰ったゆえに、その話を続けることはなかったのだが、それを今更思い出した。
「トルマ」
「なあに、ウェイバー」
「……なんだ、その。お前がもし弟子を取ったなら、その時は教えてくれ」
「――」
「お前が忙しい時に、面倒を見てやらんこともない」
「、うん」
 とはいえ。
 その約束は終ぞ果たされることもなく。
 愛らしく整ったかんばせよりも先に、私とした会話の数々、その音声だけが失われていく。彼女のセリフは隅から隅まで記憶されているのに。その声だけが、私の記憶から消えていく。
「ウェイバー。……ウェイバー」
 最期に遺ったボクを呼ぶ声もいつか消えてしまうのだと思えば。それは恐怖でしかないのだ、と思った。ただ温度のないセリフを頭の中でリフレインさせるしか無くなってしまうのは。
 葉巻を蒸す。ふ、と息を吹けば、当たり前のように煙が出る。この煙はトルマだと、思ってしまった。いつか消える。すぐにでも消えてしまう、泡沫の夢なのだと。
 曰く。彼女にとっての私は唯一の男で。
 曰く。ボクにとっての彼女は、運命で。
「……馬鹿馬鹿しいにも程がある」
 けれども。その片割れが消えてしまえば、そこに意味などないと。才ある彼女は、それを忘れたまま、何処ぞへと消えた。腹立たしい限りだ。
 ウェイバー、と、心底柔らかくボクを呼ぶ声は、既に掠れていて、その声をボクに思い起こさせてはくれない。ひどい女だ。縛られている自分を自嘲しつつも、置いて行った彼女を怨むことは、終ぞ出来そうにないらしい。
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