θυσία

序曲T


荒廃した東京というものはこんなにも寂しげで恐ろしくて汚いものなのかと、少年は立ち尽くした。見たことも無いような高層ビル群が立ち並んでいたであろう、そこかしこは瓦解したコンクリートと砕け散ったガラスの温床に成り下がっている。遠方からは真っ黒な煙が立ち上って、澄み渡っている青空を汚していった。そこは、正真正銘の地獄だった。






「何を寝ぼけている」

前髪を引っ張られる感触に、口からは意図せずとも呻き声が漏れた。ぶちぶちと切れる音がしたので、多分毛の何本かはいってしまっただろうか。
薄暗い部屋だった。
剥き出しのコンクリートに覆われた壁や床は、人が住むには肌寒く、また寝床としては体の節々を打ち付けるために最悪で。
星矢は痛みを訴える身体をなんとか動かし、目の前に仁王立ちする男を見上げた。其処に多少の憎しみは入っていたかもしれない。

「ふん。これからもう貴様を痛めつけることが出来ないと思うと寂しいが、なんせお相手はあのグラード財団。なんで城戸家はお前達みたいなのを欲しがるのかね」

知るかよと言い返そうとしたが、ぱんぱんに腫れあがった両頬ではそれすらも億劫で…だから星矢は姉の事だけを考えることにした。



星矢は物心ついた時にこの施設に居たが、姉の星華が言うにはそれ以前に居た施設で大きな事故に逢い病院経由でこの施設に送られたらしい。日本の片田舎にある孤児施設だから、誰もその施設内がどれほど悪質で陰湿なのか知ろうともしなかったんだろう。

「大丈夫よ星矢ちゃん。神様がいつでも見守ってくださっているわ」

姉は度々そんな言葉を吐く。
星矢が折檻部屋に入れられて帰って来た時や、彼女が折檻部屋に連れられて行くのを止めようとしている時など様々な場面でその言葉は告げられた。
神様が居るというならこの地獄から救い出して欲しいものだ。
毎日そんな風に考えていたからか、奇跡は起きる。
俺達兄弟を引き取りたいという孤児院、グラード財団が設立した施設。
一体いくら積ませたのか、あれだけ俺達を玩具にしていた奴らがまるで掌を返したように厄介払いみたいなことをし始めた。

(……なんでもいいさ、この地獄みたいな日を抜け出せるなら)

少なくともこの時、俺は本心でこう思っていた。







「星矢とかいったわね。お前、馬になりなさい」

なまじ顔の良い小娘がそう騒ぎ立てると、周りの連中は顔を青くしながらも何も声を上げられなくなる。その高飛車でわがままでやりたい放題な女は城戸家唯一の跡取り娘で、名を城戸沙織といった。
百人もの孤児を集めてやらせたい事が娘の奴隷か?だとするなら城戸光政ってのはよっぽどな暇人なんだろう。

「どうしたの。やりなさい星矢」
「誰がお前の馬になどなるものか」
「まあ。その口の利き方はなに?また三日三晩飯抜きにするわよ」
「やればいいだろ、この高慢ちき」
「星矢っ、貴様沙織さんになんて口を!!」

この城戸沙織の厄介なところは、孤児の中にも厚い信奉者が何人かいる事かもしれない。
俺と城戸沙織が衝突するたびに割って入っては拳を振り上げてくるただのガキンチョ。大人に全力で甚振られる恐ろしさや痛みを知っている俺からすれば、それは痛くもなんともないものだった。
とりわけ邪武とかいう男は他の追従を許さない程に城戸沙織に熱心で、一体あの女の何が良いのかさっぱり理解できなかった。

「そんなに言うならお前が馬になればいいだろ」
「沙織さんは貴様に馬になれと言ってるんだ!」

振り上げらた拳を避けて少し足を出してやれば、見事に引っかかって土の上に転がる邪武。俺なんかよりもよっぽど馬らしい。…まあ、馬というより犬だが。
そうこうしていると騒ぎを聞きつけて来たらしい沙織の側近である辰巳が、そのただでさえ広い肩をさらに怒らせながらこっちへやってくるのが目に入る。他の孤児たちは恐ろし気に道を開け、不安を浮かべた表情で視線をこっちやあっちに向けていた。

「また貴様か星矢。よっぽど懲罰室に入れられたいらしいな。ええ?」

邪武以上に面倒くさい男。
立派な大人というのに城戸沙織のいう事なら何でも聞いて時には暴力で強制的に周りを平伏させる奴。
一番嫌いなタイプの大人の言葉を聞くなどまっぴらごめんだと、口からついて出たのは悪態だった。

「…大人のくせに、そんな子供の言いなりになって楽しいかよ!!」
「星矢!!貴様ァ!!」

伸ばされ迫ってくる大きな手のひらを避けて、巨体に思い切り体当たりする。
悲鳴と息を呑む声があちこちから聞こえたが構っていられなかった。そのまま全身をばねのように弾かせて、その斜めに傾いた体を飛び越えると逃げる場所も無いというのに全速力で走り出した。
星矢、と姉の咎めるような声が聞こえた気がしたが、振り切る。
去り際の直前、城戸沙織と一瞬だけ目が合う。

いつもは何も浮かんでいないその表情が驚愕しているのを見て、幾らか気分がスッとした。



「星矢、大丈夫?」

疲れ果てた身体を休ませていると、部屋の中にそっと入ってきた優しげな声に起こされる。
姉さん?と呼ぼうとして、ここに姉さんは居ないのだと思い出す。痛みに苛まれている頭部を手で抑えながらなんとか身体を起こした。
滲んでぼやけた視界に映っているのは友人である瞬だった。後ろには瞬の兄貴である一輝も居て、二人がこちらを覗き込む。

三日間の飯抜きに定期的に訪れた折檻。
存外身体にダメージを負ったが、外的な傷はほぼほぼない。本当に仕置き目的のための暴力だったらしい。
それでも疲労を蓄積した身体は耐性が著しく低下してしまったため、こうして風邪菌に苦しめられていたりするのだが。

「…だいじょうぶだって…慣れてるから」

嘘ではない。
寧ろこうして寝床があるだけマシだ。
そう、風邪を引こうがどうしようが、剥き出しのコンクリートに放置されていたあの頃よりも。

極寒の中で姉と温め合って必死に生きていた記憶だけが、今の俺の宝物だった。

…熱のせいだろうか、酷く感傷的になってしまっているみたいだ。

「もう、すっごく冷や冷やしたんだよ。ねえ、どうして星矢はいつも反抗するの?」
「ふん。あんな女のいう事なんか聞いてられるかよ」
「でも、本当に星矢しんじゃうよ」
「しぬ?…俺が?」

考えたことも無かった。
怪我や病気の治りも人一倍早く、あの地獄をなんだかんだと生きてきた。
そうか。確かに今考えると生きている事が奇跡なくらい、俺は死に目を味わっているのか。姉の言う通り、俺にはもしかしたら本当に神が憑いているのかもしれない。熱のせいか、そんな有り得ない思考が浮かんでは消える。

「とにかく、今は安静にね」
「飯はあとで持ってくるから、それまで寝ておけ。…行くぞ、瞬」

その友人たちの気遣いを素直に受け取り、部屋を出て行く背中を見送る。
もう一度布団に入り直し、日の光が差し込んでくる外へと目を向けた。

窓の向こうの空では、太陽が山に沈んでいくところだった。







「ねぇさんっ」

聞いてない。そんな話は、聞いてなかった。
どうして俺達が引き離されなきゃならないんだ。本当だったら新しい孤児院で新しい人生をやり直すはずだったのに。
暴れる俺を、大人が数人がかりで抑えつける。
星華ねえさんは涙ぐみながらこちらに手を伸ばしたが、それも大人たちのてで抑えつけられ、そのまま車に乗せられていく。

「やめろ!!ねえさんに乱暴な事をするなっ!!」
「こいつっ!大人しくしろ!!」

がつりと頭を殴られた。
視界がぶれて、脳みそがぐらりと揺れる。額を伝って何かが流れていく感触から、頭が少し切れたのだとわかる。

「おい!乱暴な事はするな。何のために探し出して連れて行くと思ってるんだ」
「だ、だってこいつが…」

くらくらとする頭で大人の話を反芻する。
"探し出した"?
どういうことだ。俺をわざわざ探し出して連れて行こうとしてるっていうのか。誰が。何のために。

口元に布が当てられる。
あっという間に意識が消えていく。
悔しさだけを胸に燻ぶらせて、俺はされるがままになるしかなかった。

星華ねえさんの泣き顔が頭の中で渦巻いている。
どうしてだか、どうしようもない不安と無理矢理にでも姉を連れて逃げていればよかったという奇妙な後悔が、胸中に小さなしこりを残していた。



「聞いたか、星矢」
「…紫龍?」

朝の鍛錬を行っていれば、友人の一人である紫龍が駆け寄ってくる。
昔から大人への犯行故に身体を鍛えることを欠かさなかったせいか、俺の身長は周りの子供より大きく、またそれとなく薄っすらとした筋肉が付いている。だから城戸沙織のボディーガードである辰巳など全身全霊で掛かれば押し倒すくらいできる程には、その未成熟な身体は鍛えられていた。
自分なんかより大人びた紫龍を見下ろすのは相変わらず不思議な気分だったが、致し方あるまい。

「なんだよ。何かあったのか」
「今日、くじ引きが行われるらしい。そして俺達は聖闘士(セイント)になるべく世界各地へ送り出されるらしい…」
「世界各地…!?」

馬鹿な。
星華ねえさんの顔が頭をよぎる。
世界各地の何処へ行くかわからないなんて、ねえさんを探すどころでは無いではないか。
脱走の二文字が頭をよぎった時、しっかりしろと紫龍に肩を揺さぶられた。

「落ち着け星矢。お前がお姉さんの事をどれだけ大事にしているかわかっているつもりで言うが、今は耐えろ。…俺達は、強くなるしかないんだ」
「……紫龍…、」

悔し気な表情だった。
城戸家に好きに扱われている事が情けないとでも言いたげな顔。強くなれば何か変わるか?…俺もそう思っているからこそ、こうして毎朝鍛錬を欠かさないのだろう。
紫龍の血を吐くような声色に何を言い返すこともできず、静かに頷き返す事しかできなかった。


そうして、俺はギリシャのアテネへと行く事が決まった。

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