θυσία
序曲U
瓦礫の合間を搔い潜っていくと、何か小さな影が視界を過った気がして息を止める。ほんの数分その状態で隠れて、今度こそ何も通らない事を確認してから歩き始める。人間の皮を被った悪魔がうろちょろとしているのを何度も目撃しては隠れてを繰り返していた。
どうしてこんなに悪魔の溢れる世界へと変貌してしまったのだろう。
聞いたところで回答が返ってくるわけも無かった。
拳一つで何個かの石壁を越えながら思い切り吹き飛んでいった大男を見送って、何としてでも手に入れたかった聖衣へと視線を向ける。聖闘士として認められたものだけが着れるらしいが、そんなものはどうでもいい。あれがないと日本に帰れないし星華ねえさんを探すための第一歩すら踏めない。
「ば、馬鹿な…カシオスがあんな一撃でやられるなんて」
カシオス。確かにそんな名前だった。俺が此処に来た当初から何かと突っかかってくる図体だけはデカいヤツ。ウザいので相手にしないで鍛錬に集中していたら、いつの間にか俺が弱虫の逃げ虫野郎みたいなあだ名が付いていて実に不愉快だった。まあ、それらの恨みも込めた上での大きな一発。ペガサス流星拳を使っても良かったが、恐らく殺してしまっていた。驕りでは無く、今までの修行を顧みての話。
事実、あんな細腕のどこからそんな力が出たのかと、観戦者たちは目を見張っていた。
カシオスの師匠らしいシャイナという女が震えながら後退る横で、魔鈴さんがよくやったと言いたげに一つ頷く。
静まり返っていた場内に、教皇とやらの声が響き渡った。
「女神はセイヤを新たなる聖闘士とみとめた!ここに聖闘士の証である聖衣をさずける」
なお、と教皇は言葉を続けた。
「聖闘士は神話の時代より女神を守護し、正義を守ってきた。その聖衣も正義を護るためにのみ身にまとうのだ。決して私欲や私闘のためにまとってはいけない」
この掟に背いた場合、世界中にいる聖闘士が滅ぼしに来るだろう。
そんな大層な言葉と共に、教皇がマントをはためかせて背を向ける。その背中に、獅子を彷彿とさせる容姿を持ったアイオリアが続いた。一度だけ、その翡翠と交わる視線。目元は微笑んでいた。
アイオリアは俺がアテネに来た時に魔鈴と同じく世話をしてくれた大人の一人だった。
厳密にいえば世話というより偶に話をする程度だったけれども。
あの人はお前の想像も及ばないくらい強い、と魔鈴が言うくらいなのだ。その強さは測り知れない。
教皇とアイオリアが立ち去るのを見届けた後、肩掛け紐の付いた聖衣の入っている箱を持ち上げた。
魔鈴の後をついて闘技場を後にする。
シャイナという女とその場に居た男たちの恨めし気な視線が背中に刺さっていた。
∞
「もう行くのかい」
「!」
家に戻って早々、魔鈴さんが部屋を少し出ている間に聖衣を持って日本へ帰る予定だったがそうも上手くはいかないらしい。扉に背を預けながらこちらを見ている魔鈴さんと、仮面越しに視線が重なった。
「…ああ、行くさ。あのシャイナとかいう女の一味に絡まれたら厄介だし、…何より俺は早く日本に帰りたいんだ」
「……」
目を瞑って何かを考えているみたいだった。
まさか帰してくれないわけもないし、何を言うべきなのか考えているのだろうか。
そんな不器用さが魔鈴さんらしくて、思わず笑ってしまう。
「魔鈴さん、アンタには本当に世話になった。アンタが居なかったら俺はカシオスっていう奴にも勝てなかっただろうし、聖衣を手に入れることも無かっただろう。俺の基礎は、全部アンタで出来てる。俺はそれを信じるさ」
「星矢……星矢、お前は強い。確かに私が教えたことが功を成しているだろう。けど、お前はとてつもなく強い。強くなる速さが普通じゃない。お前の師匠をしていると私はそれを痛烈に感じているよ」
魔鈴は、星矢がこの土地に来てすぐの事を思い出す。
片腕で巨岩を砕いて見せた魔鈴に、星矢は顔色を変えた。どうでもよさげだった表情に色が付いたのだ。スモーキークォーツの瞳が光を帯びて、魔鈴の目を仮面越しに射貫く。
頭を下げた星矢は、悲痛な色を含めた声で言った。
「どうかその強さを俺に教えて欲しい。アンタに言われたことなら何でもする」
その言葉通り、魔鈴は星矢に幾つもの無茶ともいえる修行を言い渡した。何度も死にそうになりながら試行錯誤して、星矢はその強さを身に着けて行った。
泣き言など言わなかった。
何やら夢の中で魘されて苦しそうに藻掻いていても、魔鈴は手を差し伸べなかった。
けど、星矢は今こうして一人で立っている。
「死ぬんじゃないよ、星矢」
「――ありがとう、魔鈴さん」
星矢が、初めて年相応の笑みを溢した。
∞
ふざけた事をするものだと、星矢はその憎らしくも美しい顔を睨み付けた。
漸く数年の時を経て日本へと帰国し、姉を探す目途が付いたと思えばこれだ。
銀河戦争などという闘技に出ろと、高飛車な女は相変わらずの高慢ちきで宣った。
それに勝利することが出来れば姉の行方を捜してやるとも。
「――アンタには恨みはあれど恩なんて無いんだぜ。もっと頼み方ってもんがあるだろ?」
「上の立場の者として発言しているだけです。そして星矢、貴方に拒否権はありません」
「相変わらずの性格だな。死んでも治らないんじゃないか」
「星矢!!貴様、沙織さんになんて口の利き方をする!」
突然乱入してきた男。
…そう、昔もそうだった。俺と城戸沙織が衝突するたびに割って入ってくる男、邪武。相も変わらず城戸沙織の"犬"を望んで続けているらしい。酔狂な奴だと、盛大に鼻で笑い飛ばす。
馬鹿にされたと気づいたのか顔を赤く染め上げて、邪武が身構えた。
一般人には見えない速度で拳が繰り出されてくる。
それらを全て受け止め、お返しに数十発余分に殴り返してやった。
「ぐっ」
諸に食らった腹を抑え、邪武が蹲る。
余波で壁のそこかしこが砕け散り、マスコミ連中が悲鳴を上げながら身を屈めた。
「おやめなさい。…星矢、私が命じるだけで沢山の人間が動き、貴方の姉を探す事など造作も無い事でしょう」
それは、確かに真実だ。
俺一人の足で何処にいるとも知れぬ姉を世界中探し回るより、城戸沙織によって探し出させた方が何百倍も早く見つかるだろう。俺に姉の居場所をすぐにでも見つけ出せる超能力なんかでもあれば、こんなに悔しい思いをしなくても済んだというのに。
ムカムカとする腹の内をなんとか鎮めて、背中に背負っていた聖衣を床に置く。
ペガサスの紋様が、きらりと光りを帯びた。
ざわざわと騒ぎ続けるマスコミと、恨めし気にこちらを睨み付ける邪武の視線を振り切って、俺は数年ぶりの自室へと足を向け歩き出す。
どうにも、人権が損なわれている気がして気分が悪かった。
∞
胸糞悪いまま夜は明け、闘いが始まる。
久々に集結し、戦場に立たされた十人の新しい聖闘士たちの間に言葉は無かった。かつて友人だった者、いがみ合っていた者。それぞれが互いの顔を突き合わせ、どれほどの年月が経ったのかを痛いほどに知る。
星矢は、周りの人間が自分の身長を優に越している事に、胸中で舌打ちを零した。
昔は見下げていた紫龍や瞬が、今は自分より上か同じくらいになっている。
勿論、それだけではない成長もあった事が伺えた。
何故既知の間柄である者同士で戦わなければならないのか。
この戦闘になんの意味があるのか。
納得しないまま戦場に立った星矢は、姉の事だけを考えながら拳をふるった。
「ぐああっ!!」
檄は、目の前に立つ小柄な少年を驚愕の思いで見つめた。
昔から何もかもに反抗している同い年の子供。
痛めつけられようとも、暴言を吐かれようとも、決して自分を曲げなかった男。
星矢が他の者よりも遅れて孤児院に来た時、子供たちは背筋を震わせた。
星矢から漏れ出るのは殺気。
自分に触れるもの全てを燃やし尽くしてしまいそうなほどの怒気が星矢を覆っていた。
勿論近寄る者など居なかったし、星矢は常に窓の外を見ては施設の大人たちを殺さんばかりの勢いで睨み付けていた。
何が彼をそうさせたのか。
確かに、孤児院に集められた100人は皆が皆孤児で、まともな生活などした試しが無かったが、それでも星矢は群を抜けて異常だったのだ。
何度も何度も脱走を試みて、時には大人相手にも戦って、痛めつけられて、暴言を吐かれて、けれど星矢はそれを辞めようとはしなかった。
次第に、星矢をヒーロー視する者まで現れた。
孤児院に納得していない子供たちなんかは特にその傾向が強かった。
そして、檄もその一人だった。
試合開始と同時に星矢の姿が消え、次の瞬間にはまるでダンプカーに時速200キロでぶつかられたような衝撃に襲われた。聖衣を付けているにも関わらずそのダメージは大きく、胴体の鎧が砕け散る。
星矢は小宇宙が燃えていると言った。なるほど確かに星矢の身体から全てを覆いつくさんばかりの何かを感じる。
(これが、小宇宙…!!)
ガードする間もなく第二激が襲い掛かってきた。
まるで翼でも生えているかのような身軽さで、星矢は空中で一回転すると足の先を此方へと向ける。
見えて居たソレは、全て残像でしかない。
次いで襲ってきた衝撃に、檄は何を思う間もなく意識を落とした。
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