09

 同居して一年近くが経ったとき、彼の中で何かが変わったのか、不可解な言動が増えていた。
 不可解というのは不気味だというようなことではない。その言動は私を酷く困惑させた。
 
 夜にリビングで過ごすことが多い私たちはそれぞれ好きなことをしている。彼は好きな本を読んでいるし、私は好きなテレビ番組を観る。たまに彼が立って読み終えた本を戻してはテレビから聞こえる興味のある話題に顔を上げて画面を観る。そんな日常。
 ソファに隣同士座るので同じ時間を過ごしていることがわかってこの時間が好きだ。

 いつものようにテレビを観て笑っていると、パタンと本を閉じる気配がした。本が読み終わったのだろう、至って普通の出来事だ。気に留めてはいなかった。しかし、今回は立ち上がらず、彼の顔が不意に近づいてきた。テレビで何か興味のある内容でもあったのだろうか。それに反応するように彼の方を向くと彼の顔が間近に感じた。
 直後、感じたのは柔らかい感触。大きい影が私を覆ったかと思えばすぐに離れた。
 私はそれを理解するのにしばらくかかった。行為として理解するのは簡単だが、その行動原理が全くわからなかったから。驚く私に、彼があっけからんと言葉を紡いだ。

「……したかったから」
「え……?」

 衝撃だった。突然したのはちゅっと触れるだけのキス。彼を好きな私にとっては嬉しいことだが、何が彼をそうさせたのか不思議で仕方なかった。恋色が強い恋愛ドラマを観ているわけでもない。キスシーンに興味を持っただとかそういうことでもない。それとは無縁のバラエティー番組が映し出されているだけなのだから。
 彼の真意が知りたかった。どうしてこんなことをしたのか。

「凪砂くん、このキスの意味わかってる?」
「……私を何だと思っているの」

 私の質問に、眉を顰めて不機嫌な面持ちをする。
 いや、彼はわかっていない。キスは、まして唇にするキスは単なる親愛では済まされないことを。単なる彼の悪戯だったら怒っていたと思う。が、彼の熱っぽい雰囲気が含まれたキスに、彼の気持ちが本気であることを悟る。
 咳ばらいをする。彼にこの話をするという自分の覚悟を決めて。

「私のこと、好き?」
「うん、当たり前」

 『当たり前』。簡単に出る彼の言葉。本心から出るものだ。でもそれは私の予想する答えではなかった。

「それは私を愛してるってこと……?」
「……『愛』。それは聖書などで語られるような『愛』かな?」

 違う。それはひとを赦すという隣人愛だ。彼の私への感情はきっと――。

「恋愛感情、だよ」
「……恋愛、感情」

 彼はその言葉を拙く紡いだ。彼の中でその言葉をかみ砕くかのように。
 彼は理解できないと思うだろうか。枷のある無駄な感情だと考えるだろうか。

「……ひとを愛することは大切だよ。隣人を愛することで世を平和に導くから。でも、欲求に身を任せる愛は愚かな感情だと思う」

 ズキンと痛く、ドスンと重いものが私の心に圧し掛かる。彼にとっては煩わしい感情。
 どうやら、彼の愛と私の愛は絡み合うこともなく平行線らしい。だが、それでいいんだ。

「そう、だね」
「……君は私のことを愛してる?」
「うん。もちろん。凪砂くんは可愛い可愛い弟みたいなものだからね」

 嘘ではない。彼のことを弟のように慕うのは事実だから。少しだけ違う感情も含まれているというだけだ。

「ふふ、君になら可愛いと言われるのも悪くないね」

 不敵な笑みを浮かべていた。得意げに腕を組む様子に、いつもの彼だと安心する。可愛いと言われ慣れていないだろうに、嬉しそうに笑う姿が微笑ましい。微笑み合うと彼がふふっと笑顔を浮かべながら私の肩にもたれかかった。
 どこか運命の歯車が鈍く回るのを感じながらも、私はその違和感をあえて無視した。彼が自覚をしていないのであれば、なんら問題はないからだ。
 そのはずだった。


 二度目のキスは、すぐに訪れた。
 それは、一瞬の出来事だった。

 普段通りの週末。彼と一緒にケーキを食べて談笑する。そんないつも通りの日常。
 が、あることをきっかけに一変した。
 
 週末。いつものようにケーキを口に運んでは芳醇な香りを楽しんでいると、風が強く吹いた。自然の悪戯だろうか、思わず驚いてカランっと音を立てて床に落としてしまった。

「ごめん。落としちゃった……。ちょっと洗ってくるね」
「うん」

 食べてていいからねと言い残してシンクでサッとフォーク洗うと、レモンケーキに合う紅茶があったことを思い出して戸を開けてポットを探していた。彼に入れてもらうように頼んだそれは思ったよりも高い位置にあって、なかなか取れない。
 やっとの思いで取ると、紅茶の容器を開けて葉っぱを入れた。お湯を流し込もうとした時、背中に重さを感じた。思わず振り返ると、どうやら彼が抱きついたようだった。

「凪砂くん⁉︎ ど、どうしたの、食べてていいんだよ――」

 言い終わる前に、顔をぐりぐりと肩に押し付けていた。甘えたい気分なのだろうか。

「……なかなか戻ってこないから、寂しくて」
「あ、ごめんね、これだけ入れてから持っていこうと思って」
「……そう」
「凪砂くん、くすぐったいよ……?」

 不機嫌そうな声でお腹を摩る彼。それ以降何も言わないから、その様子が不思議で体を向けた。見えなかった表情が現れて、真剣な面持ちをしていることがわかった。本当に寂しくて仕方がなかったのだろうか。
 笑い合っていた先程とは違うピリッとした雰囲気が漂う。

「……ねえ、君のことをもっと知りたいんだ」

 お湯で暖かくなった空気が少しだけ冷えた気がした。彼の手が私の頬を触れる。壊れ物を扱うように、恐る恐る、指先だけで。くすぐったい気持ちと彼の支配するような瞳に反射的に肩を揺らした。
 息が詰まり、唾を飲み込む。喉の奥は詰まって言葉が出てこない。彼のこんな姿、見たことがない。彼にこんなにも心をかき乱される。パクパクと口を動かしても口が渇いて何も発せない。必死に絞り出して、かすれた声で彼に訴えかける。

「な、凪砂くん、まって」

 私の言葉が聞こえないと言わんばかりに、彼の手は腰にまで下りてくる。優しく引き寄せられて、自然と背中を反る。彼と密着している。いつもは感じない彼の厚くてしっかりとした胸板と、私の柔らかい胸とがあたっている。
 これ以上はだめだ。

「離して……」

 拒絶するような言葉は無意味で、私の身体は彼に完全に預けている。力のない手は彼を撫でることになるだけだった。
 彼の甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。甘ったるくも濃厚で、頭はクラリと眩暈がしそうだ。
 これは、そういうことだろう。彼の男性だと思い知らされる体格にいつもの可愛らしい彼はいない。あるのは誘われるような瞳と、私を求める瞳。

「……君は、私と離れたいの?」

 確認するような質問、意地悪で言っているのではなく、純粋に気になるという好奇心だろう。否定の意味を持って弱々しく首を横に振る。
 すると、口角を上げて瞼を細める。彼の艶やかな色気に、私の心臓の鼓動は速くなっていく。直に伝わる彼の肌では、心臓の音も感じてしまうだろうか。
 ああ。このまま、彼とこういう関係になってもいいかもしれない――。
 そんな気の抜けたことを思っていると、バチが当たったのだろう。
 ガシャンッ。と、私を現実に引き戻す音が部屋に響いた。
 強い春風に吹かれたカーテンが、コップを倒してテーブルから落ちてしまったようだった。
 その音を境に、ハッと我に返った私は彼の体を強く押し避けた。彼は名残惜しそうに私の瞳を穴が開くほどに見つめていた。
 その姿を目の当たりにするだけで、今の私は流されそうになるから、あえて逸らす。割れたコップを片付けなくてはと慌てる姿はわざとらしかっただろう。それでも、何か理由をつけて彼から離れなくては私の欲は抑えられなくなってしまいそうで。

「は、早く片付けなくちゃ。危ないから近づいたらだめだからね」

 彼の顔をまともに見ることができなかった。これは彼に身を任せようとしてしまった羞恥からなのか、罪悪感なのか。いずれにせよ、私の心の中は複雑な感情で入り混じった。
 強い風で急激に冷えたのか、私の肌はぶるりと震えていて嫌に鼓動が速くなっていた。

 納得のいかない表情を浮かべる彼に気づく暇などないくらい、慌てていた。