08
彼と生活する前の私は至って理性的な人間だった。幼い頃、妹や弟に欲しいとねだられた玩具も姉だからと納得した上で快く譲った。学生の頃は後輩に優しく、等しく接し、やりたいことも彼らの意志を尊重した。日和くんの子どもながらのわがままにも最大限応えた。ひとに尽くすことが生きがいだったのかもしれない。そんな自分のことは二の次な、無欲に等しい性格だった。
いつからだろう。私が欲を出してしまうようになったのは。彼のすべてが欲しいなどと生意気な感情を抱き始めたのは。
私が変わったのは、明らかに『彼』に出会ってからだ。思い出の中にある熱烈な出会いは私にとっては輝く宝石だ。大切な胸の中の宝箱にしまって誰にも渡したくない。彼という存在が、私の常識を変えたから。
彼に触れるたび、彼の笑顔を見るたびに胸は熱くなるし、彼の辛い表情を見るたびに胸がチクリと痛む。
彼を独り占めしたいと思ってしまう。
「彼のすべてが欲しい」
こんなことを彼に言っては困らせるだけ。それに、哲学的に物事を判断する彼に言わせてみれば、こう言われてしまうだろう。
「……私は君の所有物ではないから、渡すことはできない」
こんな風に客観的な事実を述べられて呆れられてしまうのが目に見えている。
朝、起きて「おはよう」と言うとふわりと柔らかい表情で微笑む彼が好きだ。その顔を見るたびに私の欲は膨らんでいる気がする。
彼への好意はずっと持ってはいたが、これが恋愛感情へと変容したのはつい最近で、戸惑う気持ちを隠すことができない。もちろん、今まで通り接しているし彼もそれに違和感は抱いていないはずだ。私も彼の保護者として振る舞うことは当たり前に染みついてきたから。
しかし、彼をふとした瞬間に男性だと意識することは明らかに増えた。あの遊園地の夜から。
彼にまんまと堕ちてしまったと言わざるを得ない。彼の艶やかな色っぽさは他の男性からは感じられない特別な魅力だ。
そんなことを起き上がってすぐ、隣で眠っている彼を見ながら考えていた。いつもなら、彼を慈しむように優しく髪を整えてあげていた。
その時、微かに彼の瞼が震えた。徐々に彼の琥珀色の瞳が現れた。
「……ん、おはよう」
「おはよう。凪砂くん」
「……何か考えごと?」
「ううん。眠たくてボーっとしてただけ」
「……そう。君もそういう時があるんだね」
新しいものを発見した時の嬉しそうな微笑み。
ほら、また。顔が綻ぶ姿を見ると彼を好きだと自覚させられてしまう。
すぐ近く。手を伸ばせば容易く触れることのできる距離。私はこの微かな距離でさえ尻込みしてしまうようになった。今の私にはそれを縮めることが烏滸がましく感じてしまって。
彼が起き上がるとその距離はより一層近づく。綺麗な顔は現実味を帯びていないのではないかと感じてしまうほど、日差しに照らされる彼が眩かった。
彼が欲しいと言葉にするだけなら簡単だが、彼の心がなければ意味がない。彼に気持ちをぶつけても困らせて私に対する不信感が生まれるだけだろう。
「今週も頑張ろうね」
「……うん」
彼がもぞもぞと起き上がった。顔が近付いて、肩が触れ合う。私の心情も露知らず、彼は容易に大きく壁を飛び越えてくる。私の肩に顔を摺り寄せ、甘えるような表情をしながら。その愛しさと、今は少しだけ切なさが心に残る。
この穏やかな朝がいつかなくなってしまうことを恐れて、瞼を閉じて鳥の囀りに耳を傾けた。
◇
七種茨くんの手がけた台本によって理想のアイドル像を作り出され、彼もそれに忠実に従っていた彼だったが、最近は少しそれを考え直しているようだった。
「……ファンのみんなに嘘をついているようで少し苦しいことがあるんだ」
その考えに至ったことが彼の大きな成長だった。『楽な道』と言うのも良くないかもしれないが、自分で決めた道ではない決められたレールの上を走ることが今の彼にとって不自然だと思い始めたのだろう。ステージ上のパフォーマンスだけならまだしも、インタビューやファンのひとたちの前で話すときもそのキャラクターを演じているのだから、彼自身を見せていないに等しい。
肩の力を抜いてファンのみんなの前に現れたいという気持ちが芽生え始めたようで、素の自分で向き合いたいという、彼なりの誠意だった。
とはいえ、彼の雄々しいステージ上でのキャラクターは、少なからず彼の醸し出す重圧感や、歌っている時の覇気のようなものを反映したものであって、彼であって彼ではないようなキャラクターだった。だから、彼が納得のいかない部分だけを直して、彼が考えるアイドルを彼なりに演じてほしいと伝えた。
「……もっと、私が作り出す世界を、多くのひとに届けたい。そして、みんな私の理想郷を焦がれてほしい」
彼の意思はしっかりと定まっていた。どうすればファンのみんなを喜ばせられるのかを彼なりに考えるようになっていたのだから。
「最近、閣下の我儘が酷くなってきていて困り果てているんです」
七種くんが凪砂くんを家に迎えに来ていて、バッタリと会った時にそう言っていた。
彼が七種くんの言うことを聞かなくなったというのは一種の成長でもあるのだろうか。
「自分が何を言っても無駄ですので、あなたから何か言ってくれませんか?」
溜息をつきながら私に頼む彼の表情からは疲れを読み取れた。私に頼るだなんて、よっぽどのことなのだろう。凪砂くんはどれだけ七種くんを振り回しているのか。それは、彼なりの抵抗なのかも知れない。
そんな中、順調にアイドルユニットとして地位を築いてきた彼は、学園外での新たな出会いを通して交友関係が広がっていた。
元より、空っぽの器だったというだけで彼は何者にもなれたのだろう、彼の成長のスピードは顕著で、周りのひととのコミュニケーションが花を咲かせていた。秋のライブをきっかけに、交友関係を広げているらしい。
今までの狭い世界から殻を破って大きく羽ばたこうとする様子は、雛鳥の成長を見守る親鳥のように嬉しかった。
「凪砂くん。最近は何だか楽しそうだね?」
「……ふふ、最近は多くのひとたちと関わることができて嬉しいんだ」
「そっか。よかった。凪砂くんもお友達がたくさんできそうで」
「……そうだね。友人ができてたくさん刺激を貰っているよ」
私は、彼への恋心と彼自身の成長を密かに天秤にかけていたが、彼の成長の方が喜ばしいと選択した。それを選択するとわかっていたかのように、彼をずっと見守っていた私にはそれが当然のように、恋心の選択肢をすぐに捨てていた。
楽しそうに語る彼を見て、私の願いが叶ったことと彼の成長が見られた喜びでほっと胸を撫でおろした。今までの緊張の糸が切れたように、以前までの不安が拭われた。
しかし、私は平和ボケをしていたのかもしれない。そんな能天気さが決定的な彼の心情変化を見逃してしまうこととなる。