佐伯虎次郎、荷物に書かれた宛書きを指でなぞりなんとなく声に出してみる。
 もう何回呼んだ名前だろうか……いや、よく考えたらあんまり「佐伯」とも「虎次郎」とも呼んだことは無いな。そうぼんやりと思いながら受け取った荷物を部屋に運び入れる。

 ……突然苗字で呼んだらサエはどんな反応するんだろうか。
 もちろん、「虎次郎」とは何度か呼んでみたことはある。その度にサエの口角は吊り上がり調子に乗るし、そもそも私が恥ずかしいから未だに「サエ」と呼んでいるわけで。あとは我儘を通す時に都合よく使ったことがあるくらいだろう。
 つまるところこの二十数年、ずっと一緒にいる割には「佐伯」と苗字で呼んだことはほぼ無い。

 作戦決行はサエが帰ってくるであろう夕方以降、それまでに一通りの準備を済ませなければならない。
 それもこれも、家の用事で数日ほど祖父母宅へ泊まらなければいけないのだ。だからお泊まりの準備と、まあ数日家を開けるのでカレーぐらい作ってやるか…なんて珍しく台所に立っている。

 米を炊いて野菜切って、肉と炒めてカレーを煮込んでもう少しで完成!なんてしていれば何となく、帰ってきそうな気配がして。
 エプロンを放り投げ出迎える準備をしつつテーブルの上を片付ける。

「ただいま〜」
「おかえり」
「あれ、今日ご飯作ってくれたの?嬉しいなぁ」
「うん。あ、そうだ。佐伯くん、これ届いてたよ」
「ありが……ん?」
「どうしたの佐伯くん」

 ダンボールの箱を手渡してやればどこか引っかかったのかピタリと動きを止めたサエ。珍しい苗字呼びに思考停止しているのか動き出す様子がないからさっさと晩御飯の準備をしてしまおう。

「ちょ、ちょっと待って」
「なに?」
「俺、なにかした…?えっ、荷物……嘘だろ?なあ都。一回話し合おう?」
「何を話し合うの?退いて、邪魔だよ」
「都、待って。もしかして俺に嫌なとこある?直すから、お願い。ごめん。嫌いにならないで」

 あのいつもきりりとしている眉を下げ、泣きそうな顔で縋るように私の服の裾を掴んだサエにどうしてこいつはここまで深刻そうな事考え出せるんだ…?なんて考える。名前の呼び方、苗字にしただけでここまで想像豊かになれるもんなんだ……。

「あのね、佐伯くん」
「嫌だ、それやめて…?なんで、なんで急に、」
「分かったサエ、落ち着いて。ごめんやりすぎたね、だから泣かない」
「…泣いてないよ。……怒ってない?俺の事嫌いじゃない?……出て行かない?」
「怒ってないし嫌いじゃないし出て行かないよ。だから落ち着、わわ、」

 「よかった…」なんて呟きながらぎゅうと抱き締められ思わず小さく息をつく。ぐりぐりと首筋に顔を埋められ、サラリとした髪が少しだけ擽ったい。
 落ち着かせるようにぽんぽんと背中を撫でてやれば少し落ち着いたのか暫くすれば顔を上げる。

「なんで急に佐伯なんて呼んだんだ…?」
「えっとね、荷物見てふと佐伯って呼んだことないなって」
「もう絶対呼ばないで、怒ってるのかと思った」
「はいはい、それにしてもなんで出ていくって……」

 なんて言いかければスっと玄関近くの大きな荷物を指さしたサエ。ああ、なるほど合点がいった。
 お泊まり用で用意した荷物と、突然変わったよそよそしい呼び名。勘違いが重なってあんなに取り乱してしまったのだろう。

「虎次郎くん」
「はい」
「私、明日からおじいちゃんち泊まるって言ったよね」
「……言ってました」
「はい解決、ご飯食べるよ」

 ぱっと体を離して鍋の前へと向かえば「行かないで〜…」なんて弱々しく呟いて後ろにぺったりとくっついて歩くサエ、凄く邪魔。
 そのまま後ろから抱き着いてくるから邪魔で仕方ない。

「……佐伯くん、離れなさい」
「う、……ごめんなさい」
「食べる分ご飯よそって」
「はい」
「後でお風呂入ろうね」
「はい……えっ!?いいの?おじいさんち行くんだよね?」
「うるさい、下心を出すな。なにもしないよ」

 ちょっと嫌な思いさせたお詫びに甘やかしてあげようと思ったらこれだよ。こんなことで喜ぶなんて、相変わらず変だし今はさっきのことなんて既に忘れたようにニコニコとカレーをよそっている。
 ……まあ、その、なんだ。縋るようなあの泣きそうな顔。ちょっとグッときてまた見たいなんて思ってしまったお詫びだ。これ以上とやかく言うのはやめてあげようかな。



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