「なんか、サエから甘い匂いする」
「…そうかな? 気のせいじゃない?」
「ううん…香水?」

 すんすんと鼻を鳴らして周りを嗅いでみるけど、いつもなら爽やかな香りがするのにやっぱり知らない甘い匂い。
 そんな甘い香りの香水なんかをつけているなら珍しいし、誰かから匂い移りしたとか?なんて考えてみるけどサエは困ったように笑うだけで。

「彼女でも出来た?」
「なんでそうなるのかなぁ」
「まあ出来てたら私とは会わないよね」

 ケラケラと笑いながらサエの一歩前を歩く。
 また呼び出されて千葉まで来たけれど、夕焼けに照らされた水面はキラキラと輝いて少しだけ眩しい。

「私、海の匂い結構好きなんだよね」

 気持ちの良い風に潮の匂いが鼻を掠めて、肺いっぱいに潮の匂いを吸い込む。その瞬間、また微かに香る花の甘い匂いとサエの咳き込む声。
 明らかに異常なそれに「大丈夫?」なんて声を掛けようと後ろへ振り向いた時、目に入ったのは蹲るように座り口元を押さえたサエ。
 思わず駆け寄り背中をさすれば苦しそうにまた咳き込んで、指の間から漏れだしたのは時期も頃合な真っ黄色なひまわりの花弁。

「え…?花……、えと…びっくり人間……?」
「っ、ぅ…みや、こ…」
「な、なに?」
「…はな…触っちゃ、だ…め」

 息も絶え絶えに色とりどりの花弁を吐き出しながら涙目になってそう訴えるサエに、小さな声で「わかった」なんて呟くことしか出来なかった。
 この花、見た事ある。確か、カタクリだっけ…ぼんやりとそんなことを思えば紫の花弁はサエの指から溢れ落ちた。

 暫くして落ち着いた頃になれば慣れたように花弁を一枚一枚拾い上げ、鞄から取りだした袋に詰め込みだす。
 声を掛けることも出来ずにぼうっとそれを見ていれば、何事も無かったようにサエは立ち上がり口を開く。

「…今日は遅いし駅まで送るよ」
「……ぁ、の…」
「また、今度説明させて。……次の土曜日、そっち遊びに行っても良いかな」
「わかった…」

 その日はそんな会話を最後に駅まで送ってもらいそのまま別れる。
 家に着いても、あの様々な花の鮮やかな色彩と甘い匂いがどこかにずっとこびりついて取れることはなかった。

────────

「嘔吐中枢花被性疾患……」

 画面を見つめぽつりと口に出す。流石の私でも知っている、所謂花吐き病なんて呼ばれる病気。
 片想いをしている人が口から花を吐き出してしまう…らしい。噂でしか聞いたことはなかったし、もちろん初めて見た。

「みやこ〜、虎次郎くん来たわよ」
「…はーい!」

 慌てて検索欄を閉じてバタバタと玄関に向かう。階段の影からそろりと覗けば母さんと楽しげに話しているサエの顔が目に入る。
 声かけるタイミング、逃しちゃったな。なんてそのまま覗き見していればサエは私に気付いたのか「あ、都」なんて声を掛けてきて。

「あんた降りてきてたなら声くらい掛けなさいよ」
「タイミング見失っちゃったんだって! …部屋行く?」
「うん、お邪魔します。あ、これケーキ持ってきたんで…」

 なんて手に提げていた箱を母さんに渡して上がってくるサエ。先に階段をのぼり部屋を目指す。昨日片付けたし、まだ綺麗なはずだから大丈夫、だよね…?
 ……というか、サエの方が絶対部屋汚いしいっか力にしないでしょ。

「相変わらず、あまり変わらない部屋だね」
「最後に来たの小学二年生の時とか?よく覚えてるね」
「そりゃあ……都のことだからね」
「…そう」

 しんとした空気が流れる。流石にこんな状況で先日の事を訊ける訳もなく、手元にあったクッションを両手で弄ぶ。
 ちらりとサエの顔を窺えば少し難しい顔をしていて。私からなんか言わなきゃ、なんて気になって口を開こうとすれば扉をノックされる音。

「っあ、はい!」
「ジュースとケーキ持ってきたわよ。虎次郎くん、久しぶりに来たんだしゆっくりしてってね」
「ありがとうございます」

 サエは先程の難しい顔から一転、ニコニコと余所行きの顔で母さんに御礼をしている。さっきまでの難しい顔はどこに行ったんだ。

「じゃあ母さん。買い物行って来るから」
「はぁい。行ってらっしゃい」

 階段を下りる音が遠くなるまで待って居なくなったことを確認してから、小さな声でここ数日間悩みに悩んだ質問を投げかける。

「サエって、花吐き病…ってやつ?」
「…そうだよ」
「そう、なんだ」

 遠慮がちにぽつりと呟いたサエ。それ以上、なんだか軽々しく訊いちゃいけない気がして口を噤む。
 ……いや、本音としては何を訊けばいいのか分からないし、きっと知ってしまえば…なんて予感がしていたのかもしれない。

「治すにはさ、片想いを実らせるか想いを断ち切るか…なんだよね」
「…らしいね、調べた」
「気付いてるでしょ、流石の都でも」
「……私は馬鹿だからサエが何言いたいかわかんないよ」

 なんてシラを切りながらふっと目を逸らす。サエが来てから部屋がまたあの甘ったるい匂いでいっぱいで、少し胸焼けがしてきた。
 この匂いで、あの時サエの口から溢れていた色彩を思い出してしまう。

「都のこと、好きだよ。ずっと前から」
「…そう」
「別に都が俺の事をなんとも思ってないのは分かってるよ。でも諦める事なんてできない」
「じゃあずっと花吐くつもり?」
「そんなこと言うなら、俺の事好きになってくれてもいいんだけどなぁ」
「……同情された上で好きになられて、それでサエが満足なら良いけど」

 「手厳しいな」なんて笑うサエは少しだけ、すっきりしたように笑っている。きっと長い間この事をひとり抱えて過ごしていたのだろう。
 かと言って、好きな相手に知られて気味悪がわれる…とかは考えなかったのかな。まあそんなことはしないけれど。
 そんなことから、私とサエの秘密は始まった。

────────

「…ゔ…っ、え゙ぇ…おえ、っは…」
「あ〜、また…大丈夫?」
「っ、うん…ありがと……」

 はあ、なんて大きく溜息をついてその場で項垂れたサエからはあの時と同じ甘ったるい花の香りがしているが、それにはもう慣れたものだ。
 背中をさすりながら花を吐き出すサエを見守る。そんなことが会う度に起これば、甘い匂いも気にならなくなってしまった。
 今日も吐き出された花を眺める。昔、祖母に色んな花を教えてもらったことでほんの少し花の種類については知っていたが、また更に詳しくなった気がする。

「千日紅、ジャスミンと……これは赤い…、シクラメンかな、多分」
「前より花の名前詳しくなったね」
「…花言葉調べたけどサエ、マジで凄いわ。永遠の恋、あなたは私のモノ、嫉妬。見事に恋愛系の花言葉だし意味もすっごくサエっぽい」
「俺の気持ち伝わった?」
「怖くてゾッとするくらいには」

 サエ自身は嬉しそうにニコニコと笑っているけれどちょっと引くわ、そんな吐き出した花の花言葉で想いを伝えられたら。
 なんて悪態をついてもいいけど、それでも今まで通り接しているのは佐伯虎次郎という男の束縛の激しさを知っているからだろうか。
 今までは特になんとも思っていなかったが、既読ついてから三分以内に連絡を返さなければ追撃LINE、ほぼ毎日行われる電話にサエ以外の男子の話をした時の顔や態度。
 それらは全てこいつの嫉妬深さ…というか執着の深さから来ていたのだ。

「花を吐く前ってどんな事考えてる〜とかこうすると吐いちゃう、みたいなのってあるの?」
「都のこと考えてると出ちゃうかな」
「……これは別に自惚れでは無いんだけど、日常生活どうしてる訳?」
「学校で考えそうになったら違うこと考えるようにしてるよ。それでもダメな時はトイレ使ってる」
「そう…」

 まあ、日常生活に大きな支障をきたしていないのであれば大丈夫なのかな。でも六角中の男子トイレはたまに甘い香りがするんだ……なんて少し可笑しくなってしまった。
 結局サエのこの病は私次第なところがあるのだけど、正直私にはどうしてあげることも出来ない。
 いつかの話は分からないが、今の私にとってサエは『幼馴染』のそれ以上でもそれ以下でもないし、サエ自身は私を諦めるつもりはさらさらないとの事だ。

 物心ついた頃からの気持ちなんだろうけど、私じゃなくてもっといい人探しなよ…なんて思うことも多々ある。というかしょっちゅう考えている。
 花を袋へと片付け終えたのか物思いに耽っていた私の顔をじぃっと見つめているサエ。

「なに」
「好きだよ」
「嫌いではないけども」
「都の好きと俺の好きでは意味が違うからなぁ」

 いや、好きって言ってない…なんて思ったけど。まあ幼馴染として好きだし否定することでもないか。
 こんな顔の良い男に「好きだよ」なんて言われたい女の子はどれだけいるのか。こんなとこを六角中に通うサエに片想いする女の子達に見られたらきっとフルボッコにされてしまうだろう。
 いつも通り海の近くを散歩しているのだけど、この前よりキラキラと輝く水面が眩しい。それでもってほんの少しだけ肌寒くなってきた。

「う〜ちょっと寒いね、そろそろ帰ろうかな」
「駅まで送るよ」
「いつもありがと」
「俺が好きでやってることだから」
「……私、割と最近までそれみんなにやってると思ってたよ」

 ふっと笑えば「やっぱりかぁ……」なんて諦めたように笑っているサエ。自分では鈍感ってほど鈍感じゃないと思っていたけど、案外そういう機微に疎いらしい。

「ほんとは家まで送り届けたいんだけどね」
「それはお断りするよ、申し訳ないし」
「申し訳ないだけならしてもいい?」
「ダメ」

 改札まででいいのにわざわざホームまで見送りに来てくれるなんて律儀だなぁとか思ってたけど、「これも都にしかしてないよ」なんて言われた時には驚いたものだ。百何十円も毎回払って見送ってくれるなんて、有難いななんて思う気持ちと呆れてしまう気持ちと。

「ん、電車来た。帰るね」
「うん、それじゃあ…また」
「またね。でもさ、手ぇ放してくれないと乗れないよ」
「次さ…いつ会える?」
「それ今じゃなきゃだめぇ?」

 私の手首を緩く掴んだかと思えば小首を傾げそんな風に聞いてくるとか、少しあざと過ぎやしないだろうか。
 いつ、なんて言われても明日も学校だしそう毎日も来れないし。サエ自身も部活だってあるだろうし…。

「いつ…って、また今度だよ」
「……わかった、また連絡してもいい?」
「そんなの聞かなくてもいつもしてるでしょ。良いよ、別に」
「…そうだったっけ?ふふ、ありがとう。引き止めてごめん、また」
「ん、ばいばい」

 手を小さく振って電車に乗り込めばドアは閉まりゆっくりと動き出す。ニコニコと笑いながらこちらに向けてずーっと手を振っているサエ。
 その姿が見えなくなった頃、適当に空いている席に座り小さく息を吐く。隠す気が無くなったからなのか、知ってからはずっとこんな感じで調子が狂ってしまう。

 こんなに想われていて、絆されない方がおかしいのかもしれない。少なくとも、前よりはサエの言動や行動にドキリとする回数が増えたような気がする。
 ひとつ大きな溜息を零す。まあ、天邪鬼で頑固な私には自分の気持ちを認めるなんて事、もう暫くは出来ないだろう。


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