ひみつの夜




 その人は、突然現れて私の手を引いた。
 まるで自分の家に帰ってきたみたいに、堂々と入って来たと思えば家主になんか目もくれず、まっすぐ一直線。私の元に向かって来て、蹲る私を立ち上がらせる。

「行こう」

 そう言って、口元だけ笑っていたことは鮮明に覚えている。
 呆気に取られて引かれた手を振り払う事も出来ず、連れられて部屋から出ようとすれば怒鳴り声を上げた化け物に、びくりと体を震わせて立ち止まってしまう。また、殴られる。
 ギュッと目を瞑れば私の手を引いたその人はゆっくりと口を開いた。

「都にとって『これ』って、必要?」

 どうして私の名前を知っているの?そんな疑問よりも『これ』と指差す方向を見れば顔を真っ赤にして私に掴みかかろうとしている化け物。
 思わずふるふると首を横に振れば男の人は「分かった」と答える。
 その後は、確か────。

────────

 化け物も、息絶えればただの肉塊。
 私は約二十年も前、ソレの胎の中で育ちその中から出てきたけれど。所謂、『母』と呼ぶべきソレが目の前でただの塊になってしまった時、安堵感や嬉しいなんて、かなり的外れな感情ばかりが溢れ出した。

「じゃあ、行こうか」
「え、と……これ。片付けなきゃ、」
「なんで?放っておけばいいだろ」
「で、でも……きっと、証拠とか…見つかったら、捕まっちゃうと思い…ます」
「へえ、そういうもんなんだ。じゃあ、良いところ知ってるし、棄てに行くか。…あ、でもどうやって運ぼう」

「見つかりたく、ないんだろ?」

 お前の事だからなんでもわかる、とでも言いたげな顔をして薄く微笑む彼に少しだけ、全身が粟立つ。
 こくりと頷いて、昔に一度だけ……父が、生きていた頃。家族旅行をした時に、使ったことのあるスーツケースを引っ張り出す。
 きっと、この家から持ち出すものなんてひとつもないし、これを使ってしまって良いだろう。
塊になってしまったソレを詰めて、家を出た。

────

 その人は、「伊藤ふみや」と名乗った。
 それが本当の名前かどうか、私には分からないけれど、私にとっての真実はそれしかない。

「伊藤、さんは」
「ふみや。都が先輩だっただろ」
「え、と……私たちって、知り合いかな…?」
「覚えてないんだ。高校が同じだった、俺が一つ下」
「そうなんだ…?私、その…ほぼ、保健室にいたから……」
「ああ、知ってる。でも、図書室で会った」

 どうやらこの伊藤ふみや…改め、ふみやくんは高校時代の後輩らしい。
 体調を崩すことの多かった私は、卒業のためにも保健室までは登校して必死に単位を取っていた訳なのだけれども。
 そういえば、いつの間にか任されていた図書委員の仕事を果たすために、何度か図書室に通った覚えはある。
 きっと、その時にふみやくんとは出会っていたのだろうけど、記憶は曖昧で彼の姿形を思い出すことは出来ない。

「ごめんね…覚えて、ない……かも」
「なんで謝るんだ?俺が一方的に知ってただけ」

 それにしても、不思議な人だ。善悪がハッキリしていない、良く言えば純粋な人。純粋無垢、赤ん坊みたい、だなんて。

「ここ、人が来ないから」

 気付けば山の中、沢山歩いた気がする。
 真夜中で交通機関は使えず、持っている物も物だからタクシーなんてものも使えない。ここがどこの山かなんて分からないし、知らない方が幸せなのかもしれない。
 幸せな思い出が詰まっていた筈のスーツケースの中には、たった一人の肉親。

「要らないなら、棄てればいいよ」
「あ、はは……うん、うん……そうだよね。要らないよね、こんなモノ」
「じゃあ、早く棄てて帰ろう」

 きっと迷い込んだら帰れなくなってしまう、そんな奥深く。
 放り投げればガタガタと音を立てて真っ逆さま。これが見つかることはきっともうないだろう。
 それを見届けて見えなくなった頃、背中を向けて元来た道を歩き出す。
 これは、ふみやくんと初めて出会った時に出来たふたりだけのひみつだ。



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