グラスの氷がとけるまで


気まぐれなイタズラ


日曜夜。明日は仕事か嫌だなあ、などとぼんやり考えながら、使い慣れたソファでコーヒーをいただく。
彼の家に遊びに来る時は、夜ご飯用のお弁当を私が買ってきて、食後は彼がコーヒーを淹れてくれるのが通例だ。


ありゃ食うだろ、持ってけ


そう言って、キッチンの方から戻った彼が差し出したのは、ランチバッグくらいの大きさのカボチャの容器。中には飴やチョコ菓子がぎっしりと入っている。
ローテーブルにこと、と小さな音をたてて置かれたそれは、察するに薄いプラスチック製のようだ。
そういえば今日はハロウィンだったなと改めて感じるが、彼がこんなものを持っていたことが意外だった。


お菓子ぎっしりだね、練り歩いたの?
ンなわけねーだろ、配る側だったンだよ


面白がって聞いてみたが、配る側というのもこれまた意外。
そもそも、ハロウィンのイベントに参加するような柄じゃないのだ、この人は。
隣に腰を下ろして、手伝わされたんだよ、とぼやいている。そういえば、昼は用事があるって言っていたっけ。


へえ、配るとこ見たかったな。仮装とかしたの?
しねーよ、仮装は勘弁だ。特に魔女はな……


嫌な思い出でもあるのか、苦虫を噛み潰したような顔で何やらつぶやいている。
なぜわざわざ女装?でも似合いそうだ。
彼は背が高くてスタイルが良いので、だいたいの仮装は似合うと思うが。


魔女はともかく、吸血鬼とかあるじゃん。似合いそうなのに
あー、そういうのもアリか……


何かを思い出したのか、気だるそうにソファにもたれていた上半身を起こして、こちらに向き直る。
私も飲み終わったカップをテーブルに置いて、聞く姿勢をとった。


トリックオアトリート
へ?


藪から棒に放たれた言葉に、一瞬思考が止まる。
すごく珍しいものを見た、という驚きが大きかったが、すぐに自分の手持ちのお菓子について思考を巡らす。
通勤カバンならのど飴くらいは出せたかも知れないが、あいにく今日のハンドバッグにはお菓子の類は入っていない。


えーと、それ、あげようか?
俺様が渡してやった分はノーカンだろうが


ですよね。そうなるともうお菓子の心当たりがない。
ありません、と諦めて答えると、よし動くなよと命令される。
彼が私の髪の毛をかきわけ、はらい始めた。
顔に落書きでもされるんだろうか。


定番は首だよな
え、首?


言われた通りじっとしていると、彼が私の首にキスをし始めた。
髪があごや首すじに当たりくすぐったい。
すり寄ってくる感じがちょっと犬みたいだな、なんて思っていたら、急に首にちくっという痛みが走った。


いたっ、え、なに?
リクエスト通り吸ってやったンだよ


なんのことかと思ったが、仮装のくだりを思い出す。
たしかに吸血鬼の格好が似合いそうだとは言ったけど、首に吸いつかれるとは思わなかった。
スマホのインカメで確認したら、ネックレスをつけるような位置よりやや高いところに、しっかりと痕ができていた。
恋人っぽいことをされたのが嬉しくはあるが、ふと帰り道のことが心配になる。


……マフラーか何か貸して


コンシーラーなどは持ち歩いていないし、髪で隠すのは心もとない。
今日羽織ってきた上着も、首元を隠せるようなデザインではなかった。


なんだよ、嫌だったか?
い、嫌じゃない、けど、これで電車とか乗るのはちょっと……


他人の首元をいちいち見る人なんてそうそういないだろうし、自分が気にしなければ良いのかも知れないけど、窓ガラスに映ったりしたら絶対に意識してしまう。
それにこんな、恋人と仲良くしてきましたと言いふらすような状態で、公共交通機関を使うなんて恥ずかしすぎて無理だ。


車で送ってやるから安心しろ


そう言ってコーヒーカップを二つ持ってキッチンへ向かう。
ちょっと笑ってたな。やっぱり私の顔、けっこう赤くなってるのかな。
彼の背中に一応お礼を言って、私も上着やカバンを身につけようとソファから立ち上がる。
お菓子の入ったカボチャを持ち上げ、思いがけずハロウィンの思い出ができたことを喜びつつ、今度は明日の通勤着が心配になるのだった。


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