どのくらい言葉を尽くせばいいだろう。受け止めたいとどれだけ真摯に向き合ったとしてもきっと一生答えは見つからない、そんな予感めいたものがすでに自分の中にあった。
「世界のすべてがあなたに優しくあればいいと願っています」
いつから芽吹いたのかなんて遡ることはできない。自分でも知覚できないほど薄く重なって、降り積もって。そうして抱いたささやかな雪のような祈り。
「先生もそんなこと言うんですね」
驚いたあとになかなか失礼なことをオブラートに包まずに零す。それが登米で出会った時からの彼女の常であったから今更何かぼやくことはない。
「おかしいですか」
「いいえ──嬉しいです、とても」
繻子のような髪が横にちいさく揺れ、彼女がはにかむ。朱を散らしたその顔が愛おしくて、触れていいですかと思わず尋ねてしまった。そんなこと聞かなくてもいいのにと鈴を鳴らしながら彼女は伸ばしたこちらの手を受け入れてくれた。
その笑顔が見られたらそれでいい。曇らせるすべてから守りきることはできないだろうけど、自分の手の届く範囲だったら取り除いてあげたい。影がさしてしまったらこっちだと明るい場所に行きたくなるまで傍にいて、繋いだ手をゆっくりと引っ張る。自分にできることは全部尽くしたい。
でも人間という生き物は正の方向へも負の方向へも欲張りだ。その笑顔が自分にだけ向けられたらいいと時々、そう時々、無理なことを思ってしまう。
ちらちらと見える名残惜しさに気づいてはいるものの、なかなか互いに口火を切ろうとしない。二人とも明日も変わらず仕事で、秒針が急かしているようだ。
「……髪が綺麗ですね」
「洗ったあとですから」
なんの脈絡もなく口から衝いた言葉だったが、そういうことを伝えたかったわけではなかった。
伝わらない、伝えたい。
どうしようもなくもどかしい。
「せん、せ」
髪に口づけをひとつ。随分と行儀の悪いことをしたなと頭の隅でもう一人の自分が白い目で見ている。
煩い、なんとでも言えばいい。
「では僕はここで。──おやすみ」
するりと髪を滑らせ、コインランドリーを出る。か細い声でおやすみなさいと返してくれた彼女を置いてきてしまったのは流石に可哀想だったか。
鼻の奥をくすぐったシャンプーの香りがぶり返す。
最も優しくないのは自分なのではないかと思い改めた、静かな夜だった。