「ねえ、涼香ちゃん! あのイケメン官僚と付き合ってるって本当!?」
MERの詰所へ歩いている道すがら、廊下の角の向こうからそんな声が飛び込んできた。
壁に背中を寄せて声のした方向を覗く。その先では、同僚と思しき似た服装の女性たちがMERのチーフの妹、喜多見涼香に詰め寄っていた。
「えっと、それは」
「どんなところが好き?」
「いつから付き合ってるの?」
矢継ぎ早に浴びせられる言葉に華奢な体が身を引く。後ろ姿しか見えないが困っているのは明白だ。
「決め手は顔? それとも安定した収入?」
「どうやって落としたの?」
歯に衣着せぬあけすけな言葉たちが当人を置いてきぼりにして黄色く跳ねる。こんな真っ昼間に何故こんな人が多いところで、と思わなくもないが、昼時であれば食堂に集まることを咎める権利は誰にもない。
意味もなく留まっていれば聞きたくもない話が耳に入ってくる。巻き込まれる前にと踵を返した途端、ガタンッ! と大きな音がフロアに響き渡った。
「官僚を好きになったんじゃなくて、好きになった人が官僚だっただけ!!」
普段声を荒げないような人の声というのは破壊力が高い。同僚たちだけでなく、近くに周囲の誰もが呆気に取られ、そして勢いそのままに立ち上がった涼香が見送るほかなかった。
涼香が近づいてきたので咄嗟に柱の影に身を隠す。そんな音羽に気づかず涼香は目の前を通り過ぎる。
「もうみんなったら! 音羽先生のこと何にもわかってない……!」
零れた不満に音羽は目を丸くする。腹を立てる理由が自分への揶揄ではなく他人のことなのが何とも彼女らしいが、怒るところそこか? と笑いが込み上げて堪える。
「くっ……」
が、手の甲では抑えきれず、油のさされていないロボットのように涼香が振り返った。
「音羽、先生」
「……すみません」
「い、一体どこから……」
馬鹿正直に話すべきかと思案する。最初から聞いていたと言ったらきっと彼女は恥ずかしさで発狂してしまうだろう。他人に関心がない音羽でも、それはあまりにも気の毒だということは理解していた。身を縮こまらせながら恐る恐るといった表情でこちらを窺う様子は、さながら飼い主の機嫌を気にする子犬のようだ。
「何もわかってない、でしたか」
「……!」
慌てる涼香を見て、真面目に答えなくてよかったなと安堵する。本当のことを話したらこれ以上に動揺していただろう。
「あのですね……!」
「擁護は不要です。そういう風に見られていると知っていますので」
別に今更気にしたりすることでもない。そうやって生きてきたし、いちいち気にしていたらキリがない。それに、現に目の前の彼女に最低と言われた経験があった。
「……みんな知らないからあんなこと簡単に言えるんです。音羽先生がどんなに芯を持っていて優しいのか、知ってたら言えません」
小さい声で零れた涼香の言葉に音羽は面食らう。
優しいというのは甘さであり、強さでもある。相反するものを自身のうちに共存させるなんて芸当ができるのは、喜多見くらいだ。
自分は迷わず甘さを捨てる。甘さは自分の足を引っ張るもので、涼香が言ったように評価される人間ではないと自分が一番理解していたから、涼香の言葉は思いもよらないものだった。
「……何度も言いますが気にしていません。言いたい人間には言わせておけばいい」
「でも」
「貴女が知っていればいい」
「へ」
食い下がってきた彼女のきょとんとした顔はいつもと比べるとさらにあどけなく見える。
「それだけで十分です」
彼女が自分で把握していない何かを知っていてくれる。それだけで他に何を言われようとも平気でいられる気がした。
「では」
呆然とする彼女を置いて詰所への道に戻る。卑怯だと思わなくもないが、これくらいの意趣返しをしてもいいはずだ。何せ最初に動揺させられたのはこっちなのだから。
「ちょっと待ってください! 言い逃げですか!?」
呼び止める彼女の声に従う気はない。言い逃げ上等だ。こちらが掻き乱されたのと同じくらい、混乱して頭がいっぱいになればいい。
「ああもう! ――お仕事頑張ってくださいね!」
追いつけないと悟った涼香は色々と文句は言いたいくせに飲み込んで、頑張れと送り出した。その律儀さは兄妹の血なのかもしれない。
手を上げるなどの応えもせず、音羽はその場を後にする。
そんなことをしなくても、ちゃんと受け止めたことは彼女に伝わっただろうから。