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 部屋に満ちた冷たい空気を建物の影から零れた東日がゆっくりと和らげる。
 枕から頭をもたげたライデンはくあっと欠伸をひとつ噛み殺す。肌に触れるシーツの滑らかな感触はこの二年でやっと慣れてきた。連邦に来た当初はその触り心地に悪魔的な何かを感じてしまって、いまだ微睡んでいたい気持ちからもいそいそと足を抜けることが多かった。
 短く揃えた鉄色の髪を掻きながら、ライデンは上等な床につま先を下ろし、クローゼットへ向かった。
 軽い身支度を終わらせ、近くの公園の中を数周走って屋敷に戻ってくるとちょうど朝食に間に合ったようで、いつもの面々が最後の一人を待っていた。
「ライデンおはよ」
「はよ」
「おはようございます」
「おはよう」
「また走ってきたの」
「バイトまでやることねえんだよ」
 フレデリカは端っこで眠気まなこを擦りしながら席についている。
「若者は元気だね」
 上座で優雅に新聞を広げているエルンストにあんたもだろうが、とほとんどが半目になる。ワーカホリックのエルンストが珍しくオフ――秘書官二人を始めとした周りが強制的に取らせたとも言う――であったのだ、が、実はエルンストだけでなく五人の束の間のオフであった。
 生き残ったエイティシックスたちも保護され、誰がどの部隊になるかの割り振りも決まったところで一旦休息を、となったのだ。
 栄養満点で色とりどりな朝食を腹に入れてしまえば、あとは自由時間になる。連邦軍に入隊する前にしていたアルバイトも今日は入れていない。目的もなく街をぶらぶらするのもたまにはいいかもしれない。すぐに飽きて戻ってきそうだったが、そんな日があってもいいだろう。
 玄関を振り返り、穏やかな日々に目を眇める。
 こんな風に思える日が訪れるなんて八六区にいたときは想像すらしなかった。今でも戦場にいることは変わりないけれど、白ブタに死ねと言われていたあの頃よりも心穏やかに過ごせていることは確かだった。
 呼び鈴が鳴る。いつもならすぐさま駆けつけるテレザは今電話で受け答えしていて、手が離せない状態だ。
 お預かりしている子供に召使のようなことをさせるなんて、とあとでテレザに小言を食らうのは避けられないが手伝うことくらい別にいいだろうと扉に手をかけ、
「突然すみません。閣下は今――」
 理解するよりも先に体が硬直した。
 恩人である老婦人の銀よりも少しだけ光沢が抜けた、太陽の光なぞ何するものぞと佇む雪色の髪と瞳。

 白系種アルバ

 ソプラノと決めつけるにはいささか低く、かと言ってアルトだと断ずるには嗄れておらず。しかし無邪気な盛りを過ぎて落ち着いた声に加えて、顔形は女性のそれだった。
 年齢は自分と同じか上だろう。今この状況で何故か固まってはいるものの、すげない表情と片方だけ髪から覗いている左耳のピアスに、上司であるグレーテと似た大人の余裕を拾えた。
 緩いながらもだらしなさを感じさせない豊かな三つ編みは右胸の前に垂らされ、リボンの赤い彩りがメリハリを添える。パンツスーツ一式と中のシャツ、左手にしか嵌められていないグローブは黒でまとめられ、赤瑪瑙のループタイも合わさって一瞬軍人かと見紛う。しかし、スラックスの裾のくつろぎと踵の高いピンヒールが目の前の人物が軍属ではないことを教えてくれた。
 少し目線を下げた先の人物に共和国の白ブタかと一瞬身構えるも、白系種は白系種でも帝国に元々いた血縁かもしれない。
「マイヤー様」
 沈黙を破るようにやって来た足音に白系種の女性も我に返る。
「お土産です。皆さんで食べてください」
 女性の顔を見た瞬間さっと顔色を強張らせたテレザを遮るように、女性は右手に持っていた箱を左手に持ち替えてテレザに渡す。白箱に押されているケーキ屋のロゴはこの前アンジュとクレナが舌鼓を打っていた店のものだ。
「旦那様は広間にてお待ちです」
「わかりました」
 手が軽くなった女性はライデンを一瞥すると、そのまま通り過ぎていった。
 連邦に来てから帝国時代から住んでいる白系種に会ったことは実のところあまりないので彼らからの視線を知らないが、予想外の反応に拍子抜けする。
 共和国で出会った白ブタはエイティシックスを目に捉えると一様にして恐怖で目を逸らしたり侮蔑を込めたりする。しかし女性はライデンを見て固まりはしたものの、その後特にそういった感情を瞳に乗せることはなかった。まるでそこにいて何の疑問も持たない、いて当たり前の存在だと言うように。
 ――やはり帝国の白系種か。
 疑ってかかって悪いことをしてしまったと心の中で謝っておく。
「や、おはよう。わざわざこっちまで来たのかい?」
 エルンストが少女に気さくに手をあげる。それに女性が応えることはなく、事務的に話を進めていった。
「おはようございます。近くに用事がありましたので仕事に行く前に寄らせていただきました」
「部屋で聞こう」
「いえ、すぐ終わる話ですからここで構いません。聞かれて困るようなものではないですし、さっさと白ブタは――」
「リズベット」
 エルンストのレンズ越しの睨みに少女がグッと押し黙る。
「それは駄目だと何度も言っただろう?」
「……大変失礼いたしました」
 白ブタ。
 八六区では白系種のことをそう呼ぶ一方で、連邦では白髪頭と蔑みをもって呼ぶ。もし彼女が帝国時代から連邦に住んでいる白系種であったのなら自虐をこめて使うのは後者だが、彼女は一切の躊躇いなく白ブタと自身を呼称した。
 それが表す事実はただ一つ。
 この女が共和国出身であること。
 何故白ブタが連邦に、しかも大統領の私邸に訪れるのかと警戒度が一気に跳ね上がる。洗濯洗剤――あまりにも長すぎて誰も覚えられない某騎士団のことである――であった場合、何をしでかすかわからない。
「で、昨日は誰と会った?」
 が、そんな周りの張り詰めた空気なんてお構いなしにエルンストは変な会話を始め、テレザを除いて話に聞き耳を立てていた全員がずっこけた。
「言葉を交わしたのは花屋の女店主と、ケーキ屋の店員、スーパーマーケットの店員数名に膝の悪いご老人です。あとはお世話になっている官舎の寮母さんくらいでしょうか」
 しかも女も女で話に乗るものだからいよいよ訳がわからなくなってくる。
「友達いないの?」
「いませんね」
 目の前で繰り広げられるのは過保護な父親と思春期の娘のような会話だと理解しているからこそ、二人の空気の読まない性格に混乱する。これではまるで自分たちと接するときと大差ないではないか。
 と離れたところから二人の様子を観察していたライデンはあることに気づく。
「テレザさん」
「はい」

 エルンストと話を終えて玄関に向かう女を呼びとめる。ピンヒールだからすぐに追いつけると高をくくっていたが思いのほか健脚で、大股でそそくさと進んでいく女を小走りで追いかける。
「おいアンタ」
 名前もかすかに覚えている程度で気安く呼ぶわけにもいかず、かなり威圧的な呼びかけになってしまった。
「何か」
「これ持ってけ」
 テレザが用意してくれた湿布入りのポリ袋を渡す。しかし女はポリ袋の中身がわかるなり、眉に寄せていた皺をさらに深く刻んだ。
「……何故湿布を」
「右肩。隠すならもうちょい上手く隠せよな」
 そうは言ったものの、よく観察していないと見逃してしまうくらいの素振りだった。
 そもそもライデンが気付けたのはこの女を警戒していたからで、あのテレザが指摘されてからやっと気づいたほど少女は隠すのが上手かった。今も指摘されて肩に触れるなどという動揺を見せることはない。
 左手首に腕時計をしているからこの女はきっと右利きだ。しかし先程テレザにケーキの箱を渡した際、渡すだけならばそのまま渡せばよかったにも関わらず、女はわざわざ左手に持ち替えてから渡した。肩を少し上げれば埋められる程度の高低差すら彼女にとって手間をかける必要があったくらいにはきつかったのだ。
「……ありがとうございます」
 ライデンを不審そうに見ていた女はややあって渋々といった様子で受け取ると、「お邪魔しました」と言って邸宅から出ていった。
 パタンと扉が嵐を見送ったあと、ひょっこりクレナが廊下の角から顔を覗かせる。
「あんなのいた?」
 セオやアンジュも各々の場所から出てきた。ちなみにシンがどこにいるかは知らない。大方自室で本を読んでいるのだろう。
「共和国から志願兵を募ったら文官として志願してきた子だよ」
 それは、と何人かの口から零れる。そこに孕んだ感情は憐憫であり、ほんの少しの嘲笑であった。
 赴いた先の連邦から迫害者となじられることを想定しないわけではなかろう。さぞや針の筵は若い身空には痛いはずで、かつての指揮官と争うくらいの物好きだ。
「若い女性だったわね。何歳くらいかしら?」
「君たちの一個下だよ」
「え」
 降りてきたエルンストに四人は声を揃える。
 温度を感じさせない鋭利な眼差しと出で立ちから自分たちの一つ二つ上、低く見積もっても同い年だと考えていたからだ。同い年であるクレナにいたっては顎を落としている。
「よく連邦は受け入れたね」
「勿論それなりに反対意見、というかそれしかほとんどなかったんだけどね。――似ていたんだ、君たちに」
 苦笑に寂しそうな色を滲ませて肩を竦めたエルンストと対照的に、何人かの雰囲気が鋭くなる。
「能力は申し分がないくらいに優秀だ。勤務態度も真面目。でもまだ十七なのにおしゃれも恋も友情も一切切り捨てて、まるでそれしかないと言わんばかりに余裕とか空白が、遊びがない」
 子どもたちの鋭い変化を気にも留めず、皺が深くなってきた目元をエルンストはすっと細める。
「研がれた子なんだって思うとほっとけなかった」
 それは、と思わなくもないが自分たちと彼女では原因が違うだろう。一緒くたにされることに不快感を覚えるやつだって多い。話を聞いている限りでは、自分たちが初めて会話したときのレーナに近い。
「あとは僕に似てるところとかね!」
「どこが……」
 火竜の気配を引っ込めて人好きのする笑みを載せたエルンストにどこが似てるんだか、とその場にいた全員が同じ顔でエルンストを見やった。この男の鋭さとあの女の鋭さは似て非なるものである。
 まあ、この先関わることはないのだからそんなこと気にしても無駄だろう。なにせ軍人と官僚だ。接点がない。
 何かが引っかからないわけでもないが、と思案しているとセオが覗き込んできた。
「どうしたの。そんな今日の献立どうするかなあ、って悩んでる顔」
 色々と言いたいことはあるが話の腰を折るのでひとまずスルーする。
「昔いた学校を思い出してた」
「ライデンが匿われてた学校? なんで今」
「さあな」
 ライデンは十二の時まで学校を経営する白系種の老婦人のところで匿われていた。その学校の本棚の一角に置いてあったことを薄らぼんやりと思い出す。遊びたい盛りの同年代は自分も含めて誰も読んでいなかったけれど、一人だけ端のほうで読んでいたヤツがいた。
 それにしても、と背筋がきっちり伸びた後ろ姿を思い出す。
 随分ときな臭い空気を纏った、刃物みたいな少女だった。


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